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日本ではおおむね「私家版印刷所」との訳語が定着しているプライヴェット・プレスは、個人規模での印刷・出版活動の拠点として位置づけられている。私家版印刷所の定義については、マルティン、クローディン、ポラードなどという書誌学系の権威者による試みがあるが、その見解は微妙に異なるので、彼らの定義での共通項目をまとめてみるほうが分かりやすい。つまり「個人または少人数によって所有されて使用される印刷所のこと。そこでは印刷所の独自の主張や理念や趣味に基づいて書物を制作すること」と定義してみる。 私家版印刷所の一般的な特徴は次のように三つあるだろう。 ① 印刷所の所有者の趣向・主張が、その印刷物(多くは書物)の全体に明瞭であること。 ②印刷所の所有者自身の著作よりは既存の文芸作品を書籍化すること。 ③ 印刷所の所有者は印刷の実践家であることが多く、印刷機やその操作にも詳しく、印刷用紙・活字書体・製本材料および製本様式についても独自の観点から選択する。場合によっては活字書体にこだわって独自の書体を製タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について前編 発刊の経緯と編集・組版河野三男はじめに 本稿では、一九三〇年に七号目を発行して幕を下ろした、イギリスのタイポグラフィ・ジャーナル『フラーロン(The Fleuron)』誌を探ってみる。前編ではその発刊の経緯と編集方針、組版デザインでの解剖を通して伺える編集者の特徴、後編では同時代へのタイポグラフィを巡る視点、それに現代に残したその意義を検証する。 日本でいえば大正十二年から昭和五年までの間に、ロンドンで発行された『フラーロン』は注目されることが少ない。この雑誌に掲載の論文内容と発行を支えた人物の活動は地味であるために、この国ではその存在は一部でしか知られていない。だが、再評価されるべき意欲的な評論・論考集として、革命的な電子技術が進む現代にあって、その志向と姿勢は何を示唆するだろうか。一、十九世紀末から二十世紀初頭の時代状況(一)アーツ・アンド・クラフツ運動 十九世紀後半のイギリスでは、アーツ・アンド・クラフツ(以下、A・C)運動が起こった。その理由は大きく分けて三つあるとされる。第一は、ジャン・ジャック・ルソーの思想に遠因があり、第二は、機械生産による製品の質の低下への不満とされ、第三は、懐古主義への注目、だとまとめられることが多い。 この運動への直接の影響を与えた人物はピュージン(一八一三―五二)とジョン・ラスキン(一八一九―一九〇〇)で、両人は中世芸術の称揚によるゴシック様式の復活を唱道した人物だ。いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。彼は神の啓示を受けた自然の豊かなフォルムを再現することを装飾の基礎においた。彼は一八七一年に「セント・ジョージ・ギルド」を構想して理論を実践に移し、教育面で貢献した。その考えは「芸術のための芸術」という理念との密144研究ノート[タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版]河野三男作することもある。以上のことから、企画発案者と製作者が同一人であり、作業の分業化が少ないことが、商業主体の印刷出版と異なる点だとわかる。 私家版は早くはイギリスで一七五七年ころに設立されたホーレス・ウォルポールによるストロベリー・ヒル・プレスがある。この人物は大物政治家の息子で、自身も政治の世界に踏み込んだが、(イギリス絵画の庭園に関する)歴史家、詩人、小説家、劇作家、論説者、古物収集家、印刷人などと多方面で行動した。彼につけられた肩書きは、「美の判定者」だった。 その他では表1で示した主な私家版印刷所またはそれに準じる印刷所が挙げられる。チャールズ・ウィティンガムが設立してその甥で同名の人物がウィリアム・ピカリングと手を組んだチジック・プレスを皮切りに、二十社近くが生まれている。チズウィク・プレスの活動は一八四四年にイギリスを代表するオールド・ローマン体活字のキャズロン書体を復活させたことで名を知られている。さらには、蔵書六万冊を誇る世界有数のミドル・ヒル・プレス、珍しいところでは農民だったチャールズ・クラークのグレート・トーサム・プレス、神学博士によるダニエル・プレス。 また、一九世紀後半になるとローレンツ・シェパードという尼僧によるスタンブルック・アビィ・プレスが異彩を放って、その後引き継がれておよそ一〇〇年間活動を継続させた。芸術家に依頼して作らせた木版彫刻をイラスト図版として印刷に多用したヴェイル・プレスや、ウォーカーの指導のもとにジョーン・ホーンビーが設立したアシェンディン・プレスが、五〇部程度の印刷数によってその存在が際立っていた。そして、私家版の仕事をひとつの社会運動のようにその影響を誇ることになったケルムスコット・プレスが登場する。一九〇〇年にはウォーカーとコブデンサンダースンによるダヴス・プレスの設立をみる。 『フラーロン』の発行前後にも個人的な印刷所が数社現れて、賑やかな様相を呈している。中でもギヴィングスらのゴールデン・コッカレル・プレスはその組版と印刷の質の高さで群を抜いていた。彼らは「書籍の印刷と出版のための共同社会」という理念を基に、優れたタイポグラフィの実現という夢を抱いて、安価で健全な書籍の提供を目指して設立した。(三)カトリックへの改宗 西洋の出来事を語るには宗教を切り離せない。イギリスでは国教会(聖公会)という、カトリックではあるが教義はプロテスタントに近い複雑な信仰形態が支配的である。宗教改革以来イギリスではカトリック信仰は違法だった。十九世紀になってカトリック教徒が差別から法的には解放された。国教会の刷新を目指すオックスフォード運動や中世志向のラスキンの行動もあって、十九世紀中頃から著名人のカトリックへの改宗が続いた。たとえば先に挙げた建築家のビュージンをはじめ、劇作家のワイルド、画家のビアズリーなどで、二十世紀でも作家のチェスタトン、グリーン、詩人のエリオットなどもいた(1)。タイポグラフィ関連では、エリック・ギルもハリー・ペプラーも一九一〇年代に改宗している。そしてこの改宗は時代の動きを象徴してもいた。「社会主義とカトリック信仰は、相互に影響し合い、強化し合ったとされる。産業主義(資本主義)の矛盾に対して社会改良を目指すという方向性で、両者は一致」して(2)、芸術や工芸の実践への背景として時代を揺るがしていた。名 称設立年設立者ストロベリー・ヒル1757 H・ウォルポールダーリントン1768 G. アランオーキンレック1815 A.・ボスウェルチジック1810 C・ウィティンガムリー・プライオリ1813 E.・プリディス卿ミドル・ヒル1819 T. フィリップ卿グレイト・トーサム1834 C・クラークベルドーニー1840 E・アンダースンダニエル1875 C・H・O・ダニエルスタンブルック・アビィ1876 R・シェパードエセックス・ハウス1898 C・R・アシュビーケルムスコット1891 W・モリスアシェンディン1895 J・ホーンビーヴェイル1896 C・リケッツペア・ツリー1899 グリーン/リリー/イーツダヴス1900 ウォーカー/サンダースンモール1914 ウォーカー/ロジャーズセイント・ドミニクス1917 D・ペプラーボウモント1917 C・W・ボウモントオヴィッド1919 J・ロドカーゴールデン・コッカレル1920 テイラー/ギヴィングススタントン1921 R・スタントン・ランバートフォレスト1922 H・ヒューバードハイ・ハウス1924 J・E・マスターズプリオリー1924 R・キング表1 イギリスの主な私家版印刷所145京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号 カトリックへの傾斜は、製作物に反映したという。「アーツ・アンド・クラフツ運動とキリスト教、とくにカトリック的な傾向とは親和性があったが、アーツ・アンド・クラフツ運動の成果として登場した私家版運動で刊行された作品にも、そういった傾向のタイトルが目立つ」(3)そうで、絵画や挿絵を偶像崇拝につながるとみなすプロテスタントとは異なって、「私家版のほとんどが旧約聖書に基づいている」(4)ことでカトリック的な傾向がうかがえるとのことだ。たしかに豊かな装飾性とカトリックとは教会建築にも深いつながりがうかがえる。書籍印刷という広い意味での造形行為の裏には、宗教が隠れているのだろう。興味ある指摘だ。 また、本稿のテーマの中心人物の一人スタンリー・モリスンは、十九歳でカトリックに入信している。彼の母親が資本主義への嫌悪を露にした理神論者で、社会主義思想に共感したことで、その影響が色濃いとされる。彼はプロテスタントではなかったので改宗ではないが、カトリックに共感した。二、『フラーロン』発行の経緯(一)当時の状況 『フラーロン』発行の時代は、一九一四年の第一次大戦と一九二九年の世界恐慌が襲う頃の間に重なる期間である。また、第二次大戦までの十数年の充実期でもある。この時期は大英帝国の隆盛はしぼみ、その誇りが消えかけていたが、底流には、経済の荒波に襲われても根底で動じない頑固な志が根を張っていた。それこそ大英帝国の懐の深さであり真の強さでもあるだろう。 二十世紀のタイポグラフィは、十九世紀のヴィクトリア朝様式の反省から始まっている。十九世紀ではイギリスが産業革命の達成後の経済的な隆盛を謳歌していた時代にあって、品性はともかく活気ある印刷物を生み出していた。商品(生産物)は鉄道によって主要都市に届けられて流通が円滑化され、都市部はその恩恵で豊かになり賑わった。その時代のタイポグラフィは、旺盛な商業活動に合わせて商品・製品の宣伝活動の激しい競争から出現した、特大の派手な木活字や装飾的または奇抜な活字の姿となって席巻し、我先にと無秩序に自己主張していた。いわば活字が商売人の声の代わりとなって、紙媒体で叫び合ったのだ。大声を上げて注目させる原始的な手法の視覚化といえる。その様式は、雑誌や書籍の表紙や扉にも影響を与えてタイポグラフィの伝統が崩れて良識を欠き、混沌とした状況を呈した。粗製乱造の低質の活字や印刷紙面が増えて、識者の苦言を許した。 ここで取り上げる雑誌『フラーロン』が発行されたころ、イギリス国外のヨーロッパにもまた北米にもA・C運動や私家版印刷所の影響は波及していた。ただし時代は、大陸で先鋭的なニュー・タイポグラフィ運動の始動をみており、印刷所の内部で行われていた組版やデザイン的な作業は、新しい職種を確保しようとして活動を始めたアート志向のグループによって実現されるべきだと表明されていた。(二)新しい動きA 二人の出会い 『フラーロン』の発行は、三十歳台前半と二十歳台後半の二人のイギリス人男性の出会いから始まった。一九二一から二二年ころ、スタンリー・モリスンはカーウェン・プレスに出向いた。場所はロンドン中央部ニューアム区内の東寄りのプラーストゥにあった。そこで初めてオリヴァー・サイモンと出会った。その際の印象的なモリスンの姿をサイモンが書き残している。サイモンの鋭い目は一目でモリスンの資質を見抜いたという(5)。その後は友好的な関係が始まった。モリスンについてはすでに紹介文があるので(6)、彼のその後の業績については省略する。 モリスンの第一印象は誰にでも強く焼き付けられるといわれる通り、そしてモリスンを敬愛したビアトリス・ウォード女史も書き残している通り、黒づくめで聖職者風だった。もし顎ヒゲを生やしていたならば、ユダヤ人に見られただろう。モリスンの話しぶりも特徴があった。声は低めでありながら大きく、鼻にかかってリズムがあり、「アクセントは標準とは異なっていて、語りには刺すような衝撃があり、感情や意見がぶつかって深刻さが増すと机を叩いた」そうだ(7)。確かにBBCラジオ番組でのモリスン特集では、晩年の彼の声は独特のリズムがあり、語尾は時としてノドの奥に飲み込まれてこもり、聞き取りにくい。 ちなみに、モリスンのサイモンに対する印象は次のようなものだった。それはサイモンが死去した翌月、モリスンがダブルクラウン・クラブで語った内容である(8)。146研究ノート[タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版]河野三男 サイモンは格別な男でした。外見上は印象が薄いと言えましょう。彼の身の処し方はたしかに特異でした。文章では聡明さを出そうとはしなかったし、いわゆる名言によって言葉を快活にすることもなければ、深遠さで丸め込むこともなかった。(略)印象が薄く、学歴がなく、優れた読み手でもなく、議論を好まない男が、どうして我々多くの者からすばらしいと思われたのでしょうか。慣習や社会的な交流によって知恵を吸収してしかもそれを他人に与える特別な度量を生まれつき持っていたのでした。彼が最も魅力を感じる人物とは、印刷された書籍のタイポグラフィに対して図画の貢献度を受け入れて話せる者でした。彼自身はよく他人の考え方に注意深く耳を傾けたものでした。相手に話を続けさせる寛容な褒め言葉をいつでも用意できていました。ここには、サイモンの性格や行動、絵画的な要素とタイポグラフィとの相互共存を好んだ一面が強調されている。これがモリスンとは異なるアプローチであることは興味深い。B「フラーロン協会」結成の会合 「フラーロン協会」なるごく小規模の組織が生まれたのは一九二二年だった。その年の晩夏、サイモンの提案事項に対して検討する集まりが、ウェストミンスターにあったモリスンの住むアパートで開かれた。注目すべきはこの年にはモリスンはすでにモノタイプ社の活字開発計画に関わっていたことだ。当時二十七歳だったサイモンと三十三歳だったモリスンの呼びかけに応じて集まった会員は、三人だった。月刊文芸雑誌『Today』の編集者だったホルブルック・ジャクスン、当時ペリカン・プレスの主宰者だったフランシス・メネル、アーデン・プレスやシェイクスピア・ヘッド・プレスの設立者バーナード・ニューディギットである。 「フラーロン協会」という命名は、メネルの提案だったことが知られている。この語が後に発行される雑誌のタイトルに推薦される。雑誌の名称は、当初はタイポグラフィという語を前面に打ち出されたが、専門的技術に囚われすぎていて、堅苦しいとのことだった。そこで「花形装飾活字」のことを指す柔らかい語が選ばれた。モリスンはこの語から「自分たちの意向を表す、歴史に基づいたロマンティックな響きがある」と語って賛同した(9)。この響きには理想を追い求めるという語感を含んでいるのだろう。 提案された協会の基本方針について話し合われ、ジャクスンが書記に選ばれた。だが、メンバーの意見は激しくぶつかった。ここで提案された趣旨は、「このころに開発された高速印刷機や機械組版でも手動機械や手組みに匹敵する品質保持の道や、新しい技術との協調の道を探り、タイポグラフィの可能性を開く」ことだった。それに対してニューディギットだけは、手組みの優越性と手漉きの印刷用紙の使用というような、手工芸の保持を主張して強硬だった。 他のメンバーがどのような意見だったかの記録は残っていない。ただ、大勢はサイモンの趣旨に賛同していたと思われる。この二つの意見の溝は最後まで埋まらず、協会の会合はわずか二回目でその花をしぼませてしまった。サイモンによればその議論の様子は「嵐」のようであり、メネルによれば自分は嵐に手を貸した覚えはないし、あの議論は見解の「相違」にすぎない、という冷静な受け止めだった。C 組版の機械化へ ここでの議論の背景にある文字組版の変化とは、機械産業の組織化と資本主義の発展がもたらした革新的な技術と作業環境の激変だった。二十世紀前半は、タイポグラフィの技術史においては機械組版が導入された時代だった。それまでの活字版印刷では金属活字をひと文字ずつ手で拾って組んでスペースも手で調整していたが、機械組版では、原稿文を入力した文字に応じて単語や行などブロック単位で活字を自動的に鋳造して組む方式だった。十九世紀末に発明された自動鋳植機はこの時期に実用段階に入り、代表的なメーカーであるライノタイプ社とモノタイプ社が凌ぎを削っていた。両社はそれぞれ方式が異なっており、スラグ式のライノタイプ機を「行単位自動鋳造植字機」と呼ぶとすれば、モノタイプ機はさしずめ「文字単位自動鋳造植字機」とでも呼べる。両機のシステムは、文字入力用のキーボードと、活字鋳造と組版機で一組となっていた。 一九二〇年代は機械組版と活字書体開発・販売の本格的な戦略が展開し始めたころである。機械組版の初期のころは、表組みや数式などの特殊な組版また147京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号は大きなサイズのディスプレイ用活字は専門の腕の良い組版工による手組みだったが、しだいにそれらの組版も機械化が可能となった。そして、モリスンがモノタイプ社に招かれた一九二二年以降は活字書体の開発が本格化して、彼の指揮下で過去の古典的書体が改刻されて蘇り、また新しい書体が設計されたりした。モリスンが主に集中して調べたことが『フラーロン』などに発表され、まさに活字研究が活字復刻と結びつく契機となっていた。 結局、議論は事実上物別れに終わったが、モリスンとサイモンが当初の理念の実現に向けて前に進めることになる。そこでモリスンが何を具体的に構想していたのか、次に探ってみる。(三)『フラーロン』の編集方針A モリスンの見解 雑誌『ザ・フラーロン』の意図は、モリスンが書き残した最終号(七号)の「あとがき」で明らかだ(10)。 活字、印刷紙面、書籍デザインに関わる問題を詳細にわたって議論することにあったので、現在の商業雑誌でできるようなことを行なうのではなかったのです。それは、ヨーロッパ大陸の印刷業を歴史に留めるために、印刷人、読者、書籍商、職人との関係を理解すること、彼らの知識を広げ、印刷に対する彼らの意気込みを広めるためです。それこそイギリスの印刷人が学ぼうとすればできたはずなのに現在まで無視されてきたことなのです。 ここに当時の印刷業界では何が欠けていたのか、また望ましい印刷物の質とは何か、という問題意識がうかがえる。加えて、単なる手組みか機械組みかという二者択一では収まらない、むしろ広い視野からの現状把握が確認されて、そこから問題に迫る姿勢も見られる。また、「顧客と書き手に対して責任感を強めることによって、印刷人が職人の高い水準を目指すように励まされることが望まれていた。顧客とは読者であり、書き手とは自分の困難を知っている者のことだ」というモリスンらの立場と時代の認識は、ここに明快だ。このあたりのモリスンの基本姿勢は、おそらくイギリスで最初のタイポグラフィの技術書として有名なモクスン著『印刷術の機械操作の実践』(11)が影響を与えているだろう。そこには次のようなモクスンの姿勢が表明されている。「タイポグラファとは、独自の判断力と自らの揺るがぬ理性を基に行動できて、他人を指図して、終始タイポグラフィに関する手作業と実際の操作の全てを遂行できる者である」。その中から若きモリスンが記憶した語は「揺るがぬ理性(Solidreasoning)」、つまり「確固たる論理的思考」を意味する語だった。 さて、『フラーロン』におけるモリスンの当初の考えがうかがえる証拠がある。アップダイク宛の彼の手紙で「五号まで発行してそこで閉じることを望んでいる」(12)と記している。当初は意外と短い期間を想定していたようだ。これはモリスンの個人的な考えだったろうか。この件は、「サイモンによって七号までと決められた」との新聞記事(13)が補完する。しかし、最終号ではモリスンは「二―三の号を刊行すれば、我々のテーマは枯渇するだろう」(14)とも述べていることから、雑誌創刊時の熱い高揚感を内に秘めて、かなり冷静であったことも分かる。また、同右の手紙では二―四号までの主な予定を伝えている。B サイモンの役割 『フラーロン』におけるオリヴァー・サイモンの働きについては、モリスンの「あとがき」で明らかだ。「この定期刊行物の創設と最初の発行は、当時も今もカーウェン・プレスにいるオリヴァー・サイモン氏に負っています。一九二二年のはじめにサイモン氏は、第一号に載る記事のほとんどに携わり、一九二五年までその編集者として働き、四つの号の責任者でもありました」と冒頭で述べているからだ(15)。 また、サイモンの実際の仕事としては「一号は、カーウェン・プレスのサイモン氏の指導の下で印刷されましたが、一九二三年の春に、当時流行の活字ギャラモン書体によって組まれて発刊された」と記録している通り(16)、当初の印刷に携わったのもサイモンだった。モリスンは認識と使命感を共有した同僚の貢献をまずは冒頭で感謝している。 サイモンとはどういう人物だったのか。サイモンは印刷者であり同時に編集者でもあって、後に『シグネチュア(Signature)』誌を発行してもいる。『タイムズ』紙のサイモンの死亡記事(17)から、彼の略歴が理解できる。その記事は「大英帝国四等勲士でカーウェン・プレス主任のオリヴァー・サイモン氏は、日曜148研究ノート[タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版]河野三男の夜にロンドンの自宅にて死去しました。サイモン氏は三十年以上にわたり印刷業界にあって指導的な人物であり、技芸的な視点が見られました」という紹介から始まっている。 その記事から、サイモンの略歴を次のようにまとめられる。一九〇九年、私立小学校卒業/一九一九年、カーウェン・プレスに入社/一九二二年、モリスンと二人でフラーロン協会設立/一九二三年、『フラーロン』誌の編集を二五年まで担当/一九二四年、ダブルクラウン・クラブを創設。結婚/一九三六年、『シグネチュア(Signature)』誌創刊/一九四五年、『タイポグラフィ入門』を出版/一九五六年、『印刷者と実践場』出版。三月、死去。 サイモンが印刷の世界に身を投げ入れたきっかけは、ウィリアム・モリス製作の『チョーサー作品集』を若き日に目にしたときだった。子供時代には部屋にはモリス作の壁紙や木綿更紗張りのイスがあったそうで、彼の両親はマンチェスターの貧しい人々に芸術と美の愛を届けるという組織「アンコーツ兄弟会」の設立会員で、その会主宰の演壇でモリスが演説したことがあるという関係がある(18)。つまり、彼も両親を通してモリスの影響下にあったのだ。 サイモンが勤めたカーウェン・プレスは、ハロルド・カーウェン(一八八五―一九四九)の祖父ジョン・カーウェンが設立した印刷所である。ジョンは一八六三年にロンドンの東のプレイストウで楽譜を印刷する仕事を始めた。一八九七年にはJ・カーウェン・アンド・サン社として統合。ハロルドは一九一四年にその印刷業を受け継いで、優れたデザインの端物に的を絞り始めた。一九二〇年以降、オリヴァー・サイモンが優れたタイポグラフィでカーウェン・プレスの評価を広げたことは知られている。また、ロビン・キンロスによれば「ハロルドはA・C運動の理想に強く魅入られた(中央美術学校のジョンストンの授業を受けた)し、(引用者:ドイツ労働同盟をモデルにした、製造業者・デザイナー・取次ぎ業者らの団体で、一九一五年設立の)「デザインと工業連盟」の設立会員でした。戦後はとりわけタイポグラファであるオリヴァー・サイモンが仕事を引き受けた後、際立った様式と手法を展開しました。カーウェン・プレスは書籍製作と同様に端物や広告物を仕事として、またかなりの程度デザイン工房としての役も果たしていました。挿絵画家それに書体と装飾的要素の独自のレパートリーについて内輪の集まりを作っていた」(19)のです。 またキンロスによれば、サイモンはヤン・チヒョルトのペンギン・ブックス社への就任とその後任のシュモーラーの双方に影響力を示した人物で、ドイツの印刷文化の賛美者だった(20)そうだ。サイモンの趣向の一端を垣間見られる。三、『フラーロン』の体裁(一)表層的な解剖 以下では、『フラーロン』の体裁上の解剖を試み、全体を把握してみる。発行年は、一号が一九二三年、二号と三号が一九二四年、四号が一九二五年、五号が一九二六年、六号が一九二八年、七号は一九三〇年である。当初は年刊の予定だったが、諸々の事情で発行が狂ったようだ。たとえば七号の事情では、「寄稿者の怠慢で深刻な遅れが続いた後、現在は進展しています」と、一九二九年十月にモリスンはアップダイク宛の長文の手紙の中で迷惑をかけたことを詫びている(21)。 ここでは以降、サイモン編集の一―四号を前半と記し、モリスン編集の五―七号を後半と記して、両者の特徴の比較を中心に眺めてみる。ここでいう編集とは、次の「あとがき」の中のモリスンの言葉で明らかにされている。「『フラーロン』は四号まで進みました。編集方針に予定通りの変更があったとき、第五号から私が編集、製作、発行の全責任を引き受けました」(22)とある通り、原稿依頼、原稿整理、校正、組版、用紙・製本材料の選択、印刷、製本、配本などの諸手配を含む出版実務である。 後半で編集方針が変更されたというが、その具体的な反映はどこに現れているのか、それがどんな要約を提示するのかは記録が見られないため、外側から探ってみることにする。A 印刷部数 印刷部数については、後半の三号分だけだが巻末の刊記に記録が残っている。それによると五号は一三七〇部で、アンティーク簀の目紙に刷った分は一二五〇部、バッチェラー・ケルムスコット紙刷りは一二〇部。六号は一三一〇部で、アンティークの網目紙刷りは一一五〇部、バッチェラーのケルムスコット紙刷りは一六〇部。七号は一二一〇部で、イギリス製の機械漉き網目紙刷りが一〇〇〇部、イギリス製手漉き紙刷りが二一〇部である。ここから推測すると、前半の各部数もおよそ一二〇〇―一三〇〇部であろうか。このよ149京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号うに同一の版で本文紙や装丁で体裁を分けて販売する方法は、よく見かける習慣だ。B 判型 本文の仕上がりサイズは、ディマイ・クォート(83/4× 111/4インチ、222×280ミリ)というA4に近いサイズで仕上げられている。ただし、全七号を並べてみると、ばらつきがある(図1)。表2から最大で天(縦)では8ミリ、小口(横)では5ミリの差異が見られる。これは製本現場の意識の現れでもあろう。日本ほど細かな点にこだわらないおおらかさが見てとれる。表示されるサイズは化粧断ち前の折りの状態での数値であることから、仕上がりサイズでの個人差が生じるともいえる。 往々にしてこのような現象は見かける。たとえば、一九一三年に九号が発行された雑誌『インプリント(The Imprint)』は、やはり仕上げサイズの不揃いは際立っていた。背の号数表記も不徹底である。これはかのフランシス・メネルの従兄にあたるジェラード・メネルが志を掲げて立ち上げたウェストミンスター・プレスから出版した、商業印刷業界向けの雑誌である。若きスタンリー・モリスンがこの出版社に就職して、この仕事に関わり、タイポグラフィ実践の契機となった因縁深い事務所。この印刷用にモノタイプ社に依頼して設計させた書体はインプリント・オールドフェイスと呼ばれた。後にモノタイプ社から発売されたインプリント(シリーズ一〇一)である。これはキャズロンをベースに設計された書体で、雑誌創刊に間に合うように急造された。ちなみに、『インプリント』の創刊号の表四(裏表紙)にはラスキンの言葉が短く引用されている。 なお、英国の書籍用紙の旧サイズの種類とその呼称は、ポット、フールスカップ、ポスト、クラウン、ディマイ、ミーディアム、ロイヤル、エリファント、インペリアルの九種類あり、むろんインチ法である。それぞれに全紙、二ツ折り、四ツ折り、八ツ折り、十六折りなどと折り畳まれた各サイズが準備される。 ついでにジャケットをはずしたクロス裝の背文字をチェックした。後半の五号と七号でローマン式数字のVとVII、他の号は全てアラビア式数字だった。C 本文組版 本文で使用された書体は、表3で掲げた。前半ではギャラモン、バスカヴィル、キャズロンの三種と変化があるが、後半ではバルブの一種である。サイズ図1 『フラーロン』誌の背。左から1―7号号天地(タテ)(mm)小口(ヨコ)(mm)束の厚さ(mm)背文字の号表記1 277 217 14 ローマン式2 275 213 13 ローマン式3 277 215 15 ローマン式4 276 215 15 ローマン式1 - 4 平均276 215 145 283 218 30 アラビア式6 279 213 22 ローマン式7 278 214 26 アラビア式5 - 6 平均280 215 261 - 7 平均278 215 19表2 本文用紙の仕上がりと束と背文字の比較150研究ノート[タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版]河野三男でも前半は11、13、14ポイント(以下「ポ」と略する)と試行が見られるが、後半では13ポで変化がない。ここで使用される活字はモノタイプ社版すなわち機械組版用である。ギャラモン書体は一九二二年にシリーズ一五五番として、キャズロン書体は一九一三年にシリーズ一二八番として、バスカヴィル書体は一九二三年にシリーズ一六九番として、それぞれ完成されていた。バルブ書体は、モノタイプ社が一九二五年ころにシリーズ一七八番と整理されて完成し、同年にケンブリッジ大学出版局が購入している。 このバルブ書体とは広く流布していない名称だ。バルブ(Barbou) とは十八世紀のパリのタイポグラファであるフールニエに協力した印刷者のヨゼフ・ジェラール・バルブ(一七二三―九〇)のことで、バルブ書体はフールニエ設計の活字をモデルにしたものである。モノタイプ社にはフールニエ書体もシリーズ一八五番として揃えられているが、両者はコンデンス気味の酷似した書体である。なぜ同じような書体が生まれたかについては逸話が残っているが、ここでは社内の人間関係による、と述べるに留めておく。 以上から、十年前に製品化されたキャズロン以外の三書体は、一九二〇年代のモノタイプ社の発売直後に使用されていることがわかる。 次に行間と組み幅(行長)と一ページあたりの行数を比較する。前半では行間はベタ、3ポ、1ポであり、行数は37行と38行で、組み幅は33パイカ(396ポ)と34パイカ(408ポ)と、それぞれ変化が見られる。他方後半では、行間は2・5ポ、行数33行、組み幅32・5パイカ(390ポ)と、三号を通して変化がない。後半でのページ数が増えたにもかかわらず、行数は前半よりも四―五行少ない。 ここで分かるのは、前半では様々に試みているようだが、後半では一定であることだ。前半の号ごとの変化は、編集者サイモンの印刷所との関わりと無縁ではないだろう。彼は比較的に自由に選択できる立場にあったといえる。後半ではケンブリッジ大学出版局に印刷依頼されていたことから、組版現場を配慮して変更を避けたとも推測できる。また、雑誌である以上、体裁は一定である方が読者の印象も安定するだろうとモリスンが考えたとも想像できる。他方で、寄稿された原稿チェックや広告類の処理作業などに忙殺され、号ごとに本文組版を細かく設計する余裕がなかったとも考えられる。 ちなみに、発行元の表示は、一―二号はウェストミンスターにあるセント・スティヴンス・ハウスに構えていたフラーロン事務所である。三―七号も同じフラーロン事務所とあるが、住所はグレイト・ラッセル通りに変更される。大英博物館正門前を通る道路の一画だと思われる。D 扉と目次 扉や目次などの本文以外の前付けページでは、タイポグラファの趣向が現れる。そこでは比較的自由度の高い工夫がうかがえる部分として、組版デザインの面から創意が試されるし、本文へ向けての前奏曲的として読み手の側からの鑑賞が許されるといえる。この前付けの組み方を観察してみる。 扉では前半と後半ともに、表4に示した通り、左右中央組みで、花形活字、罫線、紋章などを控えめに加えていることが共通した特徴である(図2参照)。共に伝統的な味を意識しているが簡素であり、当時の大陸の流行とは一線を画している。つまりニュー・タイポグラフィ運動による非対称でサンセリフ体の大胆な構成や作為過剰なデザインを避けて、静謐で抑制した演出を試みている。 扉の使用書体は本文と同じである。これも本文への序章として本文書体との奇異な変化を避けて調和を旨としていることで、伝統的である。扉での記載事項とその順序は全号一貫している。つまり誌名、副題、編集者名、号数表記、発行地名、印刷所名、発行年である。前半の扉では誌名と副題をはじめ、号ごとでサイズの変化が見られる。とりわけ一号での誌名が48ポ、四号で36ポと際号使用書体サイズ(ポイント)行 間(ポイント) 行 数組 幅(パイカ)1 ギャラモン14 0 38 332 バスカヴィル14 0 37 343 キャズロン11 3 38 334 キャズロン13 1 38 335 バルブ13 2.5 33 32.56 バルブ13 2.5 33 32.57 バルブ13 2.5 33 32.51 パイカ= 12 ポイントサイズはアメリカン・ポイント表3 本文の組版151京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号立って大きい。それに反して後半では、七号の誌名が24ポ、副題が18ポでしかもイタリック体とやや大きいだけで、やはり大きめである。 サイモンはその著『タイポグラフィ入門』で、本文七ページと図版十八ページにわたって扉の組版について解説している。実にこの著作全体の十八%を費やしている。その中で「質素であろうが手の込んだものであろうが、扉は真面目な購読者にとっては信頼を寄せるページであり、情報とそのタイポグラフィの演出によって書物の所有者や読者を引きつけるに十分な恒久的な価値を示すためのページです」(23)。と語り、文字のディスプレイ、スペーシングと行間、版面配置、小型大文字、色刷り、装飾、書体混植と詳述している。また、彼は『フラーロン』一号でも、五ページの短いテキストと十一の図版を示して扉のデザインを九つに類別して解説している。彼の扉への関心の強さを示している。彼が好む装飾的・美術的な要素が許される場だからと思われる。 目次でも表5で示した通り前半と後半では差が現れている。前半では記事標題をローマン体のオール・キャップ、著者名をイタリック体、ページ表示をオールド・スタイル(ノンライニング)数字で前半を通して一定である。後半では書名をローマン体のオール・キャップかアパー・アンド・ローワー、著者名をイタリック体かローマ号使用書体誌 名副 題編集者名号 数発行地名印刷所名発行年組み方1 ギャラモン48 18 14 8 14 14 14 左右中央2 バスカヴィル18 12 12 12 12SC 12SC 12 左右中央3 キャズロン18 14 12 *14 10 10 12 左右中央4 キャズロン36 24 18 18 12 12 12 左右中央5 バルブ18 14 14 14 12 12 14 左右中央6 バルブ18 14 14 14 14 12 14 左右中央7 バルブ24 **18 14 18 14 12 10 左右中央SC は小型大文字(スモール・キャップ)、*はスワッシュ・キャピタル、**はイタリック体表4 扉の組版(数字の単位はポイント)図2 『フラーロン』誌の扉。上:1―4号、下:5―7号152研究ノート[タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版]河野三男ン体の小型大文字、ページ数表示をオールド・スタイル、などと号によって変化を加えている。両者の共通点は、ページ数表示だけである。目次でのページ数表示では、標題と結ぶためにリーダー罫を使用する旧式のデザインは避けられている。E ノンブルと柱 前半と後半のノンブルでは、表六に示す通り活字は本文と同書体で同サイズである。ただ、前半での配置が罫下中央か小口にあり、後半での配置は罫下中央で一定である。 柱では前半はローマン体のオール・キャップか小型大文字、後半ではイタリック体かローマン体の小型大文字のどちらかである。前半では大文字にレター・スペースを加えた場合とそうでない場合がある。後半では小型大文字には必ずレター・スペースが施されていて、基本通りだ。F 各号のページ数 各号の総ページ数を比較する。ページ数にはついては、次の条件下で数えた。 ①印刷されたノンブルを基準とする。 ② ノンブルが連続していれば、その間の隠しノンブルの白ページを含む。 ③別丁の図版は含まない。 ④ 本文用の紙葉上に貼付された図版は含まない。ただし、紙葉にノンブルが記されていれば、それは数える。 ページ数は表7―1にまとめたとおりの数字となる。全号のページ数はおよそ一五〇〇に迫る量である。前半と後半での比較を試みると、前半四号分の総ページ数は六七〇で、一号あたりの平均ページ数は一六八、後半は八一八で、一号あたりの平均は二七三である。後半三号の合計が前半四号より一五〇ページ近く多いことが特徴である。 後半は前半よりもページ数が多いことが一目で分かる。平均ページ数で後半が前半の何倍かをみると、前付けでは一・六三倍、本文では一・三五倍、書評・活字評は三・三倍、広告では一・九五倍ほどになる。とりわけ広告が際立つ。これは後にも比較するように、モリスンの交際範囲またはそのための手紙による積極的なアプローチが関係しているだろう。なお、ページ数構成の比率は表7―2に示した。また、表2でも示したが、見返しを除いて本文の束(つか)を測ると、前号ノンブル柱使用書体サイズ配 置使用書体サイズ字 種スタイル配 置1 ギャラモン14 罫下中央ギャラモン14 ローマンall cap 中 央2 バスカヴィル14 罫下中央バスカヴィル14 ローマンall cap / w.s. 中 央3 キャズロン11 小 口キャズロン11 ローマンs. cap / w.s. 中 央4 キャズロン11 小 口キャズロン11 ローマンall cap / w.s. 中 央5 バルブ13 罫下中央バルブ13 イタリックu / l 中 央6 バルブ13 罫下中央バルブ13 ローマンs. cap / w.s. 中 央7 バルブ13 罫下中央バルブ13 ローマンs. cap / w.s. 中 央サイズ:ポイント、all cap: 全て大文字組み、all cap / w.s.: 全て大文字組みで、レタースペースあり、s. cap / w.s.:小型大文字組みで、レタースペースあり、u / l:大文字と小文字組み表6 ノンブルと柱号見出し記事標題著者名ページ表示1 イタリックローマンイタリックローマン36 14 14 14u / l all cap u / l OSF2 ローマンローマンイタリックOS18 14 14 14all cap all cap u / l OSF3 ローマンローマンイタリックローマン14 14 14 14all cap all cap u / l OSF4 ローマンローマンイタリックローマン36 14 14 14all cap all cap u / l OSF5 ローマンローマンイタリックローマン18 14 14 14all cap u / l u / l OSF6 ローマンローマンローマンローマン18 14 14 14all cap u / l u / l OSF7 ローマンローマンローマンローマン18 14 14 14all cap all cap SC OSF・all cap とは全ての文字を大文字で組むこと・u / l とは単語を大文字と小文字で組むこと・SC とは小型大文字(スモール・キャップ)のこと・数字はポイント・サイズを示す・OSF とはオールド・スタイルの数字のこと表5 目次の組版153京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号半四号の平均は14ミリで、後半三号の平均は26ミリだった。(二)本文の内容構成A 原稿の種類と点数 次に内容別に本文を眺めてみる。ここでは論文・記事の標題からの判断であるが、テーマ内容を活字、人物、デザイン、印刷、書籍、用紙、書評、活字評と大きく分けた。人物とは主に印刷者やアーティストとその作品を含む。デザイン関連は一号だけ、用紙関連は二号だけの掲載となっている。いずれの分野もまさにタイポグラフィに直接に関連するので、当然と言える。 各号の内容の全体は表8―1に示す。それをテーマ別に比較すると、表8―2のような興味ある統計結果が見られる。前半で活字に関する論文が六点寄せられ、図版類を除くその正味の総ページ数が最も多くて一四三ページで、前半の総ページ数量の三十四・七%を占めている。二位に際立つ内容は人物で、八点あって正味八十二ページ、十九・九%。三位は印刷関連で九点、八十一ページ、十九・七%の集計を得た。 後半では、人物関連が一位で九点あり、正味ページ数は一五〇、後半のページ数における割合は三十四・六%である。二位は活字関連で六点が展開され、百十八ページ、二十七・二%となる。三位は印刷関連で、七十三ページ、十六・八%。 書評は前半では二十一点あって四十四ページを占め、十・七%、後半では四十点あって五十三ページを占め、十二・二%と多めである。活字評は前半では十六点あり、十六ページを占め三・九%である。後半では十三件の対象があり、三十ページを費やし、六・九%とページ数ではおおよそ前半の二倍近くになる。後半でモリスンの担当により、書評と活字評が増えたことが特筆されるだろう。 全号を通してページ数別でテーマとして多くを割いた数字は、次の順位を示す。一位は活字の十二点で二百六十一ページ(三十・九%)、二位は人物の十七点で二百三十二ページ(二十七・四%)、三位は印刷の十四点で百五十四ページ(十八・二%)となる。人物関連にも多くを占めていることは、タイポグラフィ専門雑誌として、主に欧米におけるタイポグラフィ上の注目すべき人物とその仕事を紹介して、この時代における価値ある印刷者などに注目させる意図があるのだろう。ここにこの雑誌の特徴が明快だ。次に活字と印刷の関連記事が多いのは当然である。B 執筆陣 表9にある通り、執筆陣は各号で五―十名程度で、平均は七名となる。執筆者の総数は三十四名で、その中心にはフラーロン協会の面々がいて、記名のある全論文・記事の執筆回数六十三(五十四+九)のうち十七を占めて、四分の一を越えている。それに加えてイギリス国外からもあり、多彩である。共同執筆を含めて毎号寄稿しているのは、モリスンだけだ。メリー・マウント・プレス主宰の活字研究家ダニエル・アップダイクが五回、モノタイプ社広報部長のポール・ボージョン(ビアトリス・ウォード女史)は七号に二点寄稿して計四点、ジャクスン、ニューディギット、ジョンスンが各々三点を寄稿している。ジョンスンは大英博物館のインキュナブラ部門担当の活字歴史家である。号総頁数内 訳前付け本 文*書 評広 告その他1 172 8 148 - 14 22 148 8 124 - 14 23 160 8 106 32 12 24 190 8 150 18 12 2小 計670 32 528 50 52 8平均頁数168 8 132 13 13 25 240 14 182 24 18 26 282 14 184 50 32 27 296 12 170 50 26 **38小 計818 40 536 124 76 42平均頁数273 13 179 41 25 14総 計1488 72 1064 174 128 50平 均213 10 152 25 18 7*活字評も含む、**あとがきと索引を含む表7-1 ページ数構成号総頁数内 訳前付け本 文*書 評広 告その他1 172 4.7 86 - 8.1 1.22 148 5.4 83.8 - 9.5 1.33 160 5 66.3 20 7.5 1.24 190 4.2 78.9 9.5 6.3 1.1小 計670 4.8 78.8 7.4 7.8 1.25 240 5.8 75.8 10 7.5 0.86 282 5 65.3 17.7 11.3 0.77 296 4.1 57.4 16.9 8.8 **12.8小 計818 4.9 65.5 15.2 9.3 5.1*活字評も含む、**あとがきと索引を含む表7-2 ページ数構成の比率154研究ノート[タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版]河野三男 外国勢としては、アメリカ人のアップダイク、四号寄稿のタイポグラファのフレデリック・ウォード、フランス人では二号寄稿の画家ピエール・グスマン、三号寄稿のオングルボン、六号寄稿のブノワ、ドイツ人では四号寄稿のハンナ・キールと近代ドイツ印刷の書誌学者ユリウス・ローデンベルク、七号寄稿の活字設計家ルドルフ・コッホ。オランダ人では七号寄稿のエンスヘデ活字鋳造所専属の活字設計家ヤン・ファン・クリンペンがいる。チェコ人では三号寄稿のタイポグラファのメトード・カラブがいる。不明な人物として、三―四号寄稿のマロ、五号寄稿のイステル、六号寄稿のアルベルト・ウィンディヒなどがいる。 我々になじみのある人物としては、三人ほど挙げられる。書誌学者で書籍商でもある若きグラハム・ポラードが七号に、タイポグラファであり活字設計家でもあるドゥィギンズが三号に、それぞれ論考を寄せている。 タイポグラフィの歴史上で反響の大きい論考がある。五号でのポール・ボージョン著「ギャラモンの活字」と七号でのモリスンの「タイポグラフィの基本原理」と二号掲載の「理想の活字を求めて」だ。後半になってからボージョンことウォード女史が集中的に寄稿する背景には、モノタイプ社発行『モノタイプ・レコーダー』の編集担当や同社の広報部長を勤めたウォード女史と、モリスンとの急速な接近と影響関係があるだろう。(三)その他A 広告主 雑誌では通常は有料広告を募集し掲載するが、その広告料を製作費に充てる。『フラーロン』掲載の広告主にはどんな業種があるかを表10に示した。全号では出版社の広告が三十八社で全体の四十五%を占める。二番は十一社の書籍商で十三%、三番は組版機の販売会社で十社となりほぼ十二%、後に続くのは印刷社の九社、紙商の六社、その他のインキや印刷道具類や活字鋳造会社を含む印刷資材商の六社、さらに発行元であるフラーロン協会やメディチ協会が、前半だけに広告している。 広告主の所在地もこの雑誌を知る上で情報となるので、各号での国別業者の数を表11に示す。イギリス国内は前半では三十五社で、海外からは五社となる。後半では国内業者数は二十七社、海外業者は十一社となる。執筆者同様に号活 字人 物デザイン印 刷書 籍用 紙書 評活字評1 3 (75) 2 (13) 2(21) 1 (7) - - 5 (5) -2 1 (19) 2 (35) - 3 (34) - 1(4) 8 (7) -3 1 (29) 2 (16) - 4 (32) 1(12) - 6(22) 11 (7)4 1 (20) 2 (18) 1 (4) 1 (8) 1 (5) - 2(10) 5 (4)1 - 4 計6(143) 8 (82) 3(25) 9 (81) 2(17) 1(4) 21(44) 16(16)5 3 (55) 3 (57) - - 2(10) - 7(12) -6 2 (40) 3 (60) - 1 (14) - - 22(20) 6 (9)7 1 (23) 3 (33) - 4 (59) - - 11(21) 7(21)5 - 7 計6(118) 9(150) 5 (73) 2(10) 40(53) 13(30)合計12(261) 17(232) 3(25) 14(154) 4(27) 1(4) 61(97) 29(46)数字の左は論文・記事の数、( )内の数字は図版類を除く本文の正味ページ数表8-2 論文・記事の内容と分量(ページ数)号論文数書 評活字評1 8 5 -2 7 8 -3 8 6 114 6 2 51 - 4 小計29 21 165 8 7 -6 6 22 67 12 11 75 - 7 小計26 40 131 - 7 合計45 61 29表8-1 論文・記事の数155京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号氏 名生没年職 種1 号2 号3 号4 号5 号6 号7 号F・メネル1891-1975 印刷/出版◆ 1S・モリスン1889-1967 活字研究◆◇ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆◆ 7W・ローゼンシュタイン1872-1945 絵画◆ 1H・ジャクスン1874-1948 評論/編集◆ ◆ ◆ 3P・スミス1882-1948 レタリング◆ 1O・サイモン1895-1956 印刷/編集◆ 1B・ニューディギット1869-1944 印刷/出版◆ ◆ ◇ ◆ 3D・B・アップダイク(アメリカ) 1860-1941 印刷/活字◆ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◆ 4H・サイモン1898-1974 印刷◆ 1J・マイヤーグラフ1867-1935 美術◆ 1P・グスマン(フランス) 1862-1942 木版/銅版◆ 1R・イングペン1868-1936 ◆ ◇ 1F・シドウィック1879-1939 出版◇ ◆ ◇ 1S・C・ロバーツ1887-1966 出版秘書◇W・A・ドゥイギンズ1880-1957 印刷◆ 1R・シャワブ1885-1948 彫刻◆ 1A・F・ジョンスン1884- 活字研究◆ ◆ ◆ ◆ 4H・チャイルド1869-1945 評論/演劇◆ 1P・J・オングルボン(フランス) ? ◆ 1M・カラブ(チェコ) 1885-1965 印刷◆ 1H・J・フォス1899-1954 印刷◆ 1H・V・マロ? ◇ ◆ 1H・キール(ドイツ) ? ◆ 1F・ウォード(アメリカ) 1894-1939 印刷◆ 1J・ローデンベルク(ドイツ) 1884- 書誌学◆ 1P・イステル? ◆ 1P・ボージョン(B・ウォード) 1900-69 活字評論◆ ◆ ◆◆ 4A・ウィンディク? ◆ 1L・ブノア(フランス) ? ◆ 1J・V・クリンペン(オランダ) 1892-1958 活字設計◆ 1R・コッホ(ドイツ) 1876-1934 活字設計◆ 1A・J・A・シモンズ1900-41 印刷史◆ 1F・エドワルド? ◆ 1G・ポラード1903-76 書誌学◆ 1主論文の数9 7 9 7 5 6 11 54*書評/活字評の数1 2 4 2 - - - 9◆:論文 ◇:評論(書評/活字評)* 5-7 号に評論の執筆者が見られないのは、匿名だからである。表9 執筆者と掲載号の一覧号出版社印刷社書籍商紙 商組版機協 会その他総 数1 3 3 - 2 - 1 1 102 3 1 1 1 1 2 2 113 5 2 1 1 1 1 - 114 4 1 2 1 1 - 1 10小 計15 7 4 5 3 4 4 425 6 - 2 - 2 - - 106 9 1 2 1 2 - 1 167 8 1 3 - 3 - 1 16小 計23 2 7 1 7 0 2 42総 計38 9 11 6 10 4 6 84割 合(%) 45.2 10.7 13.1 7.1 11.9 4.8 7.1注:この数字は掲載ページ数ではなく、件数である。注:その他には印刷資材商(インキ、印刷道具類)と活字鋳造所を含む。表10 広告主156研究ノート[タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版]河野三男ここでも後半には海外の企業からの提供が、前半の二倍あって際立つ。編集者モリスンの交流の広さと行動力が影響していると推測できるだろう。 興味深いことは、『フラーロン』が自誌を広告していることだ。一―二号には見られないが。一九二四年発行の三号では一号と二号の主な目次が掲載されていて、一九二五年発行の四号では一―三号がすでに絶版との表示がある。着実な活動と言える。 また、後半の三号の扉の対向ページには、販売に協力する書籍商の名称とその都市名が記載されている。そこに日本の洋書輸入業者の老舗「丸善」の名が見られる。五号と六号では TOKYO の後改行して Maruzen-Kabushiki-kaisha とあり、七号では Maruzen Company, Ltd と変更が見られる。「丸善」が当時から日本の洋書輸入業者としてこの分野にも目配りがあったことを示すもので、興味深い。B 資金と定価 『フラーロン』の製作費に関する収支は不明である。仮に広告収入を得たとしても、それがいかほどの役に立ったのかは疑問である。モリスンは先にも引用した最終号の「あとがき」で、「この雑誌の発行によって、誰も一銭たりとも利益を得ていない。どんな時でも二人以下の要員と一人の秘書しかいませんでした」(24)と述懐しているから、零細な自費出版であり、紙と組版と印刷と製本とその他資材類の実費の製作費だけでも相当な金額だったことは容易に想像できるので、原稿料を払えたかどうかは疑問である。一九二八年のアップダイクからモリスン宛の手紙の追伸で、「(六号の寄稿に対する)謝礼が届いていません」と述べていることから(25)、何らかの報酬はあったとすべきだろう。この雑誌が無料提供で何部かが寄稿者に届けられたのだろうか。 この雑誌の主な出費者はサイモンとモリスンだったことは疑いない。サイモンは自社のカーウェン・プレスで印刷していたし、おそらく人件費の無償提供や製作費の実費のみの請求で原価の抑制を図ったり、モリスンはケンブリッジ大学印刷局とのつながりを利用して原価削減の協力を得たことも十分に想像できる。広告ページに見られる貼付用の小冊子類またはカラー印刷物などは、広告主が自費で印刷して納入したことも考えられる。 雑誌発行のための資金については、唯一サイモンの父ルイス・サイモンの支号英国内英国外都市名と数1 9 ロンドン- 8 バーミンガム- 11 アムステルダム- 12 9 ロンドン- 8 ケンブリッジ- 103 10 ロンドン- 8 ケンブリッジ- 1 バーミンガム- 11 ルガルノ- 14 7 ロンドン- 6 ケンブリッジ- 13 ルガルノ- 1 ニューヨーク- 2小計35 55 7 ロンドン- 5 ケンブリッジ- 1 ブリストル- 13 パリ- 1 ニューヨーク- 26 9 ロンドン- 7 ブリストル- 14 ベルリン- 1 ライプチヒ- 2 プラハ- 17 11 ロンドン- 9 ケンブリッジ- 1 レディング- 14 ハーレム- 1 ニューヨーク- 1 ニューポート- 1 シカゴ- 1小計27 11合計62 16表11 広告主の所在都市157京都造形芸術大学紀要[GENESIS]第16号援があるとのことだ。それはこの雑誌の継続的な運営に必須だった(26)。しかし、支援額は不明である。三号の前付けにある謝辞で、最後にL・サイモンの名前が一度明記されているだけだ。 記録としては唯一だろうか、経済状態について触れている。「最大の関心事は『フラーロン』のことでした(一九二四―五年六月で三百三十六ポンドの損失がありました)。印刷費と人件費からみれば、『フラーロン』は定価が安いからです。」とモリスンがアップダイク宛に記している(27)。三"}]}, "item_10002_version_type_43": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "河野, 三男"}], "nameIdentifiers": 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タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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PDF (1.9 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2013-07-31 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | タイポグラフィ雑誌『フラーロン』について 前編 発刊の経緯と編集・組版 | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
著者 |
河野, 三男
× 河野, 三男 |
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書誌情報 |
京都造形芸術大学紀要 en : Genesis 号 16, p. 143-159, 発行日 2012-10 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 京都造形芸術大学 | |||||
書誌レコードID | ||||||
値 | AN10448053 | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 研究ノート | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Report of research | |||||
言語 | en |