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(\n。国士舘の開校式の写\n真において、最前列中央に背広姿で正座をしている人物\nが、本稿で対象とする中野正剛(一八八六~一九四三年)\nである。\n現在の福岡県福岡市に生まれた中野は、一九〇九年七\n月、早稲田大学専門部政治経済学科を卒業したのち、東\n京日日新聞社を経て東京朝日新聞社に入社。途中、社の\n機構改革によって大阪朝日新聞社に移った。一九一六年\n一二月、正式に大阪朝日新聞社を退社するまで、政治評\n論、中国・朝鮮論、史論により文名を馳せ、また第一次\n憲政擁護運動に参加した。在職中には、朝鮮への赴任や\n満州視察、欧州留学によって見聞を広めた。朝日新聞社\n退社後は雑誌『東方時論』の主幹となったが、政界進出\nの準備を始めていたことから、『東方時論』にて本格的\nな評論活動を始めたのは第一三回総選挙(一九一七年四\n月執行)落選後であった。同誌の主筆となった中野は、\n特派員としてパリ講和会議を取材。この際、日本外交に\n失望した中野は、帰国後、世論を反映した「国民外交」\n実現のための国内改革を主張し、一九一九年、改造同盟\nを結成。普通選挙の実施を第一に訴えて普通選挙運動に\n参加した。一九二〇年五月には、第一四回総選挙に当選\nし、一九四二年四月に行われた第二一回総選挙(翼賛選\n挙)まで連続八回当選。この間、革新倶楽部創設への参\n加、立憲民政党と立憲政友会との合同を企図した協力内\n閣運動の立ち上げと失敗、民政党脱党と国民同盟結成、\n独自の国家統制経済論と強力政治確立を主張しての国民\n同盟脱退と政治結社東方会の結成、東方会と社会大衆党\nとの合同失敗後の議員一時辞職、大政翼賛会への参加・\n脱会、東方会の再建と解体、翼賛政治会への参加・脱会\nといった政治上の遍歴を辿った(無所属倶楽部→革新倶\n楽部→憲政会・立憲民政党→国民同盟→東方会→大政翼\n賛会常任総務→東方会→翼賛政治会→同脱会)。ナチス・\nドイツの影響を受け、東方会では大衆組織を背景に持つ\n政治運動の展開を企図。一九四二年末からは官僚的統制\nを行う東条英機内閣への対抗姿勢を強め、翌四三年八月\nには東条内閣打倒の重臣工作を行うが失敗。同年一〇月\n二一日、思想団体東方同志会を含む三団体の一斉検挙に\nより中野は検束され、憲兵隊の取り調べを受けた後に釈\n放されたが、二七日、自宅にて割腹自殺した\n( ( (\n。\n中野についてはいくつかの伝記があり、その生涯に関\nして詳細に知ることができる\n( ( (\n。また、政治における目ま\nぐるしい遍歴に加えて、中野が著した多数の著作物を利\n用できることから、中野の思想や行動は歴史研究の対象\nにされてきた。なかでも満州事変前後における中野の転\n換、例えば、波田永実の整理による議会主義(「内に民\n本主義、外に帝国主義」)から総動員論(「内に社会国民\n主義、外にアジアモンロー主義」)への転換\n( ( (\nなどのように、\n65\n中野正剛の教育実践と運動\n戦間期における日本の政治や社会の転換要因を探る問題\n意識から個別研究が進められてきた\n( ( (\n。また、中野や中野\nが属したグループに関する個別研究を積み重ねた有馬学\nは、中野の足跡を踏まえた日本近現代の通史を描いてお\nり、中野らが訴えた国際政治・国内政治と国民・大衆の\n生活との結合の論理に注目している点が特徴的である\n( ( (\n。\nさらに室潔は、中野のナチス・ドイツへの傾斜は民意を\n汲み取るための方法論の採用という限定的なものである\nとし、また、満州権益の確保という前提のもと日中友好\nを模索するという一貫した対中国政策論を保持し、その\n実現に努力した中野のアジア主義は、石橋湛山の「小日\n本主義」と同様の倫理性・論理性を有する「大日本主義」\nであると評価した。室は「民本主義者のファシストへの\n変節」やアジア主義を抱いて中国大陸への侵略を唱導\nしたという、固定的な中野の人物像を学術レベルで相\n対化する過程において、中野の思想の満州事変前後で\nの転換というよりも、その連続性を強調している\n( ( (\n。\n本稿は、青年大民団(のちに大民団→大民倶楽部→大\n民社と変化)や国士舘に対する中野の関与、および国士\n舘創立者である柴田德次郎との関係性についての事実指\n摘に主眼を置いている。後述するように、中野と柴田と\nの関係は青年大民団発足時からのものであり、約三〇年\n間の長きにわたり青年大民団や国士舘が実施する教育や\n運動に中野は関わった。このため、中野を分析すること\nにより、創立期から敗戦前までの国士舘とその関係者の\n様相を通史的に示すことができる利点がある。以下では、\n中野の思想と行動との関係において、青年大民団や国士\n舘が進めた事業、教育、運動の歴史的特徴を指摘したい。\n一 中野と青年大民団 ―国士舘の創立前後―\n1 中野と青年大民団との関係構築\n中野は、一九四二(昭和一七)年一一月四日に開催さ\nれた国士舘創立二五周年記念式の講演において、柴田と\nの邂逅が東京飯田橋富士見楼にて開催された青年大民団\n発会式(一九一三年四月三日)であったと思うと回顧し\nた\n( ( (\n。この際、柴田の話を笑みを浮かべながら聞いていた\n中野は、その態度を柴田に咎められたために盃洗の水を\n柴田の頭からかけ、一方、柴田はビール瓶で殴りかかり、\nこれを受けた中野は負傷したという\n(\n(1\n(\n。柴田の一九六六年\nの講演によれば、中野との邂逅は一九一二年に柴田が早\n稲田大学専門部入学したのちの同郷団体の会合であり、\n66\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n中野が柴田の頭に洗盃の水をかけたことに対し、柴田は\n徳利で殴ったと回想している\n((1 (\n。中野と柴田の記憶には微\n妙な違いがあるが、二人の邂逅が一九一二~一三年であ\nったことは間違いないだろう。柴田の早大卒業後も両者\nの関係性は継続しており、中野が初めて総選挙に立候補\nした際、柴田は一九一七年四月八日に明治座で開催され\nた演説会の司会を務めている\n(\n(1\n(\n。\nまた、『大民』第二巻第七号(一九一七年七月発行)\n所収の「青年大民団名簿」には、「名誉理事」八三名の\nうちの一人として「政教社 中野正剛」の名が記されて\nいる。名誉理事の職責については詳らかにできないが、\nその名称と人数の多さ(青年大民団本部員は六〇名、顧\n問三名)、および東京、朝鮮、満州、支那、台湾、フラ\nンス、フィリピン、北米、福岡、佐賀、大阪、京都、長\n崎、鹿児島、神戸といった地域別に名誉理事を掲載して\nいることより推察すれば、青年大民団が企図する活動拡\n大範囲を示しているとともに、各地の協力者が名誉理事\nになったと考えられる\n(\n(1\n(\n。なお、政教社は中野の岳父とな\nる三宅雪嶺が主筆を務めた総合雑誌『日本及日本人』を\n刊行した文化団体である。中野は憲政擁護運動に熱中し\nて朝日新聞社内での立場が孤立したこと、および第一次\n山本内権兵衛内閣成立による運動の退潮により、憲政擁\n護の論陣を張った連載記事「与ふる書」を朝日新聞で連\n載できなくなったため、この連載二編を『日本及日本人』\n一九一三年三月一五日号・四月一日号において発表した\n経緯があった\n(\n(1\n(\n。朝日新聞社を退社したのちの一九一七年\n一月、中野は『東方時論』の主幹となったが、総選挙に\n立候補する準備を始めており、また実際に立候補もした\nことから、『東方時論』の主筆として巻頭に論文が掲載\nされたのは同年六月号からであった\n(\n(1\n(\n。「青年大民団名簿」\nにおける中野の肩書きが『東方時論』を発行していた時\n論社ではなく政教社となっていることは、『東方時論』\n主筆としての本格的な活動を始める以前における『日本\n及日本人』への寄稿の実績を反映しており、名簿の作成\n時期は一九一七年六月以前であると考えられる。\n2 中野の教育観\n―早稲田騒動、パリ講和会議―\n中野と青年大民団との共同歩調は、一九一七(大正六)\n年六月末に新聞で取り上げられて大きな社会問題となっ\nた「早稲田騒動」で見られた。\n早稲田騒動は、早稲田大学の学制改革の中心となる学\n67\n中野正剛の教育実践と運動\n長問題をめぐり、学内外関係者を巻き込んで繰り広げら\nれた権力闘争である。総長大隈重信の後ろ盾を得て大学\n教育のマスプロ化を図る元学長高田早苗の復職を企図す\nる高田派(大学当局)と、早大を社会の公有物と見なし\nて大隈による私物化を排し、現学長天野為之のもとで大\n学の質的な充実を図ろうとする天野派との争いであった\nが、憲政会・早稲田派の勢力減退を狙う政友会および元\n老山県有朋・内務大臣後藤新平、社会主義運動家である\n堺利彦の関与が推察されるなど、その様相は複雑であっ\nた\n(\n(1\n(\n。\n騒動が終局に向かったのは、高田が学長問題の責任を\n感じて名誉学長と終身維持員の辞職により早大と絶縁し\nたのち、天野の学長任期が満了となり、総長大隈の直裁\nのもと新しい理事制度による大学運営が開始された九月\n一日以降である。新理事体制のもとで天野派の教授であ\nる永井柳太郎、伊藤重治郎、原口竹次郎を含む五名の解\n職、および天野派と目される学生の自主退学・放校処分\nが実施されたのち、九月一一日、天野派の学生と校友で\n構成する「革新団」は早稲田劇場を会場として高田派弾\n劾の演説会を開催した。この参加者は、天野派のリーダ\nーであった東洋経済新報記者石橋湛山を擁し、勢いに乗\nじて大学構内に乗り込み占拠したが、「早大を廃校にす\nる」との情報が入ったため占拠を解き、九月二二日、授\n業開始となった。なお、早大占拠時、柴田は学生課に乗\nり込み、演説会参加者が早大構内へ向かう際の時間稼ぎ\nをしていたようである\n(\n(1\n(\n。\n早稲田騒動において、中野は天野派として行動した。\n年代不詳 青年大民団に関係した早大出身者\n(左より永井柳太郎、宮川一貫、田中健介、中野正剛、柴田德次郎)\n(国士舘史資料室所蔵)\n68\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n八月二六日、早大の新校規の制定に関する調査委員の設\n置、天野の学長再任を決議した「純粋の天野派校友」\n八〇名の集会に中野は出席しており、また、同月二八日\nには、たまたま行き合わせた維持員坂本三郎(元司法官\nであり、天野による校規改正案に反対)を漫罵し威嚇し\nた早稲田倶楽部での会食にも出席している\n(\n(1\n(\n。\nまた、中野は、早大占拠解除直前である九月二一日、\n神田青年会館において開催された青年大民団主催による\n「学校騒動大演説会」に登壇した。三千名の聴衆を集め\nたという同演説会の論題・登壇者を列記すれば、「学校\n紛擾の解決」(元山形中学校教諭心得・赤坂中学校講師\n佐久間総\n(惣治)\n次郎)、「理解なき教育」(慶應大学教授阿部秀\n助)、「早大問題に付て天下に訴ふ」(青年大民団主幹柴\n田德次郎)、「早大よりは日本の改革」(青年大民団理事・\n東方時論主筆中野正剛)、「一葉落ちて天下の秋を知る」\n(元慶應大学教授向軍治)、「青年大民団決議文」朗読(青\n年大民団理事白石好夫)、「新早稲田を迎ふ」(青年大民\n団主筆花田大助)である。『大民』第二巻第一〇号には、\n上記の演説をもとにした柴田の論説「早稲田問題の実教\n訓」、演説会の概要をまとめた「学校騒動問題大演説会\n記事」、阿部自身が執筆したと思われる演説要約、およ\nび記者がまとめた中野、向の演説要約が掲載されており、\n花田を除く各人の演説内容を知ることができる\n(\n(1\n(\n。なお、\n佐久間惣治郎は山形中学教諭心得であった折、素行が不\n良である生徒の修養のため「自彊会」という組織を作り、\nまた教頭排斥を目的とした生徒のストライキを収めた人\n物であり\n( (\n2 (\n、学校紛争経験者として招かれたと考えられる。\nまた、慶應大学教授阿部秀助は東京帝国大学文学部史学\n科を卒業した人物であり\n( (\n2 (\n、麻布区笄町時代の国士舘にて\n「欧洲文明の二元観」や哲学を講じ、国士舘の世田谷移\n転後も「経済原論、経済政策、政治地理」、「哲学及哲学\n史」を教えることになる\n( (\n2 (\n。\n他の演説と中野の演説を比較すると、他の演説が騒動\nの原因とその解決に資する提言を行っているのに対し、\n中野は早稲田騒動で見出された限界を日本全体の問題と\nして捉え、その解決策としての「国民教育」の必要性を\n提言した点が特徴的である。『大民』に掲載された中野\nの演説は記者による要約であるが、論旨は以下の通りで\nある。すなわち、大隈に対する「偶像崇拝」は「自信あ\nる人物」の出現を阻んでおり、このため早大の改革が「滅\n亡に終る」事態となっている。そして、これは早稲田騒\n動にのみ適用される問題ではなく、「内実の空疎なる日\n69\n中野正剛の教育実践と運動\n本の凡ての方面の醜体\n(ママを\n)\n白状して居る」ため、「早稲田\nの革新」よりも「日本の改革を断行せねばならぬ」。偶\n像を排して「日本の国力を旺盛ならしむる」ためには、\n大学教育ではなく、ドイツの場合のように「私塾的なも\nの」で「田舎に居て子弟を教育して居る人士」が行うよ\nうな「実践窮\n(躬)\n行子弟を導き、徳義の養成、剛健の気象の\n涵養を根本」とする「国民教育」が必要である、という\nものであった\n( (\n2 (\n。\n中野が言及しているドイツにおける私塾的な国民教育\nとは、H・リーツ (一八六八~一九一九年)によって始\nめられたドイツ田園教育舎運動であろう。リーツは道徳\n的・倫理的な頽廃が見られる都市部を避け、一八九八~\n一九一四年にかけて初級生(九~一二歳)、中級生(一三\n~一五歳)、上級生(一六~一八歳)、孤児を対象とする\n計四校の寄宿制学校を設立した。その目的は、知識を単\n純に暗記・伝達する従来の「教授学校」における教育を\n否定し、様々な場面における訓育を通じた人格陶冶を重\n視して新しい時代状況に対応した公民を育成することで\nあり、さらには大学教育に接続する中等教育改革を行う\nことによる新たなドイツの指導者育成も目的に含んでい\nた\n( (\n2 (\n。中野は、欧米における「新教育」の潮流のなかでリ\nーツが著した『ドイツ国民学校』(一九一一年刊行)を\n読んでいたのかも知れない。ともかく、中野は国力を\n旺盛にするための教育として、権威に従属した大学教\n育ではなく、人格陶冶を重視し、また中等教育改革を\n含む田園教育舎運動に共感を寄せていた。この中野の\n共感は、「大正新教育」の潮流のなかで創立された国士\n舘\n( (\n2 (\nへの中野の関与につながったと考えられる。\n早稲田騒動の直後である一九一七年一一月四日、中野\nは麻布区笄町の青年大民団本部にて開催された国士舘の\n開校式に出席し、また国士舘にて毎週火曜日午後七時か\nら午後九時まで「世界時事」の講義を担当することにな\nった\n( (\n2 (\n。中野が青年大民団による「育英養材」事業である\n国士舘\n( (\n2 (\nに協力した理由は、国士舘が帝国大学における「ノ\nート式の講果は畢竟死学のみ」と批判して、「科学智」\nについての教育だけではなく「精神教育」をともに行う\nとしたこと\n( (\n2 (\n、さらに「我が国士館の期する処は吉田松陰\nの如き実践躬行以て他を率ゐ、天下の患に先立つて患ふ\nるの真骨頭\n(ママ)\nある人間を作る事である\n( (\n2 (\n」として、精神教育\nと実践性を有する人材育成を目的に掲げたことが、中野\nが共感を寄せたドイツにおける国民教育と合致したため\nであろう。\n70\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n中野の主張する国民教育は、パリ講和会議以前におけ\nる中野の国家と国民のあるべき理想を反映している。そ\nの理想は、国家も国民も絶えざる修養と困苦を積む過程\nにおいて「大国」、「大国民」になることができるという\nものであり、神谷昌史の表現によれば「志士仁人的ナシ\nョナル・デモクラシー」というべきものであった\n( (\n3 (\n。ここ\nにおける修養と困苦の積み重ねといった精神性の強調は、\n早稲田騒動の際の演説会における中野の教育観に通底し\nている。次項で述べる創立直後の国士舘に対する中野の\n関与の背景には、修養と困苦に基づく国民エートスの形\n成により国家を改革しようとした中野の国民教育の思想\nがあるように思われる。\nなお、中野における国家と国民との関係は、パリ講和\n会議後は普通選挙を媒介とした動員の論理で語られるよ\nうになった。『東方時論』の特派員としてパリ講和会議\nに赴き、現地にて日本外交の失敗を目の当たりにし怒り\nに震えて途中帰国した中野は、形成された米英中心の国\n際秩序に対する「民族的正義の主張」を行うため、「国\n家組織の改造、国民能力の総動員」が必要であることを\n主張し、パリ講和会議に派遣された他のジャーナリスト\nや少壮政治家とともに、「普通選挙の実行」を綱領の第\n一に掲げた改造同盟を結成した(一九一九年八月一八\n日\n( (\n3 (\n)。中野はパリ講和会議以前、労資協調の観点より普\n通選挙論者となっていたが\n( (\n3 (\n、普通選挙による国民の政治\n参加=動員といったロジックはパリ講和会議以後のもの\nであった。国家と国民をつなぐ手段が、国民教育から普\n通選挙に移行したことに伴い、次のように中野の教育観\nからは精神性の色合いが消え、経験を重視するプラグマ\nティックなものへと変化した。\n全一一項の改造同盟の綱領うち「形式教育の解放」は\n第八項であり、その位置付けは低い。同項では、「学校\nに於て官僚教育の権威に屈従し、教師の講義を暗誦する\nを以て能事となせし学徒」は、世間に出てからも「世俗\nの習慣に屈従し、或は官界の情実に盲従し、亳も真理を\n胸中に懐抱し、権威の前に堂々たる主張を試みる能はざ\nる」ことになり、このような人物の担当する外交が「大\n国雄邦の前に叩頭して」失敗するのは当然であるため、\n「青年の冒険心を学業の上に解放し、新事実の上に新経\n験を積ましめ、新経験の中より真理を発見せしむる」よ\nうな教育の改正が必要であると主張した\n( (\n3 (\n。「徳義の養成、\n剛健の気象の涵養を根本」とする先述の国民教育とは異\nなる経験の重視を訴えており、パリ講和会議以後におけ\n71\n中野正剛の教育実践と運動\nる中野の教育観の変化を垣間見ることができる。\n3 中野と創立期国士舘の教育\n国士舘の開校以来、中野は、一九一八(大正七)年三\n月下旬から六月にかけての中国視察の期間\n( (\n3 (\nを除いて、少\nなくとも一九一九年二月までは国士舘にて毎週火曜日\n「世界時事」の講座を担当しており\n( (\n3 (\n、開校間もない\n一九一七年一一月中に中野が国士舘にて行ったと推測さ\nれる講義「世界政策」では、アジア人の共同と対外硬を\n主張している\n( (\n3 (\n。なお、国士舘創立二五周年記念式にて麻\n布区笄町時代の国士舘を回想した中野は、一週間に二度\n位話をしたこと、国士舘に集う若者は「豪傑ばかりであ\nり」、このうち「一番強い奴」が一番先に眠るため怒鳴\nるものの、これによって目を覚ました学生とは「肩と肩\nと相摩するやうな気持ちを感じて」「話し甲斐」を覚え\nたこと、講座を終えた深夜一二時頃に中野を自宅まで送\nる学生達は「往来を大きな声で詩を怒鳴りながら」歩き、\nまた屋台のおでんを奢らされる時もあったが学生達との\n「魂と魂の接触を感じた」と述べている\n( (\n3 (\n。創立間もない\n国士舘に集った若者達の属性については不明だが、国士\n舘の母胎となった青年大民団は柔・剣道部所属の学生を\n構成員としていたことから、武道を嗜む学生、中野の表\n現を用いれば「豪傑」が多かったと考えられる。\n『大民』第三巻第八号(一九一八年八月一日発行)に\n掲載された「国士館巡回夏期講演会予告」には、大阪市\n公会堂(八月三日)、福岡市九州劇場(同月七日)を会\n場とする講演会の開催予告が掲載されており、講演者は\n「国士館教士」である中野、長瀬鳳輔(のち、国士舘高\n等部初代学長)、阿部秀助、青年大民団主幹柴田、同理\n事花田大助であった\n( (\n3 (\n(写真次頁)。一九二八年発行の人\n物誌に記載された柴田の回想によれば、中野の講演は\n「『極東の新形成と国民の覚悟』といふやうな演題」であ\nったようである\n( (\n3 (\n。また、国民の政治意識を高め、全国民\nが一致して国運の進展に寄与する状態になることを目指\nして青年大民団が始めた「国策研究会\n( (\n4 (\n」に中野は出席し\nて他の参会者とともに時事を談じ(一九一八年九月二二\n日\n( (\n4 (\n)、青年六〇名を集め「老朽政治家を葬り新日本建設\nの方法手段」を発表し合った席上では講演を行った\n(一九一八年一〇月一二日\n( (\n4 (\n)。\n麻布区笄町から世田谷への国士舘の移転を控えた時期\nの『大民』(一九一九年九月一日発行)掲載の「国士舘報」\nには、移転後における三年制のカリキュラムが掲載され\n72\n国士舘史研究年報2019 楓厡\nており、講師の一人として中野の名も記されている\n( (\n4 (\n。中\n野は、一九二一年六月二〇日には世田谷の国士舘を訪れ、\n「自由講座」に登壇した\n( (\n4 (\n。『国士館要覧』(一九二四年七\n月発行)によれば、自由講座は、国士舘高等部必修科目\nとは別に開講するものであり、同要覧には講師三五名の\nうちの一人として「衆議院議員 中野正剛」と記されて\nいる\n( (\n4 (\n。第一四回総選挙(一九二〇年五月執行)にて衆議\n院議員に当選した中野は、多忙になったため恒常的な出\n講ではなく、その都度出講するスタイルで国士舘の教育\nに関わっていくようになったと考えられる。\n世田谷移転から程なくして、国士舘は諸学校令に拠ら\nずに開設した中等部・高等部を廃止し、国士舘中学校創\n設(一九二五年)をはじめとして諸学校令に基づく学校\nを設置して行った。この一方、国士舘は「国士舘夏季(夏\n期)講習会」を継続的に実施しており、中野はこの講習\n会の講師としてたびたび登壇した。\n一九二二年八月一日から同月二六日までを三期に分け、\n全国より「世間の激浪を抜けつ潜りつ苦闘した中年の人」\nを中心とする計九九名を集めて開催された「国士舘夏季\n講習会」では、中野は「政党革新論」と題する講演を行\nった\n( (\n4 (\n。この内容については、残念ながら知ることができ\n1918 年8 月 「国士館巡回夏期講演会」記念写真(複写)\n(前列左より阿部秀助、長瀬鳳輔、\n後列左より柴田德次郎、花田大助、中野正剛)\n(国士舘史資料室所蔵)\n73\n中野正剛の教育実践と運動\nない。ただし、演題より推測すれば、第四四議会に上程\nされた普通選挙法案をめぐる「政界革新」、「既成政党打\n破」の機運のなかで革新倶楽部設立(一九二二年三月\n二四日)の中心となり、また政界革新に向けた国民運動\nの発展を企図した政治結社又新社結成(同年七月中旬)\nの中心となった中野の政治行動を反映した内容であった\nと考えられる\n( (\n4 (\n。先述したように、パリ講和会議以後の中\n野の主張である、国民動員の手段として普通選挙を実施\nするという発想の延長線上において政界革新を主張した\nものと推測される。\nその後の夏季(夏期)講習会に対する中野の関与を列\n記すれば、以下の通りである。すなわち、①一九二四年\n八月開催予定の「国士舘夏期大講習会」の第二次日程(於\n群馬県多野郡鬼石町小学校、八月六日~一〇日)におけ\nる講師(演題は「未定」)、②翌二五年八月、「陸海軍将校、\n官公吏、中等学校長職員、小学校長職員、地方名誉職及\n学生等」一〇〇名を集めて開催された「国士館夏期講座」\n(於国士舘大講堂、八月一六日~二〇日)における講演\n「国際問題と支那」への登壇、③一九三一年七月、武道\n理論・実科と講演を組み合わせて開催するとした「国士\n館夏季文武大講習会」(七月三日~二〇日)における講\n師(演題不明)、④一九三五年七月、「日本精神ノ涵養、\n日本武道ノ鍛錬及亜細亜主義ノ発揚ヲ目的」として武道\n理論・実科と講演を合わせて開催するとした「第四回国\n士館夏季文武講習会」(於国士舘専門学校、七月二三日\n~二九日)における講師(演題不明)、⑤一九三六年七\n月に開催した「第五回文武講習会」での講師(演題不明)\nである\n( (\n4 (\n。中野は一〇年以上にわたり夏季講習会の講師に\n名を連ねた。②については、参加者の属性よりエリート\n層に対して講演を行ったことが分かる。また、③、④、\n⑤は剣道・柔道の理論・実技と各界名士による講演を組\nみ合わせたプログラムであり、文武を合わせて行う国士\n舘の特徴的な教育を一般に開放するものであった。\n一九三一年六月三日には、中野は国士舘大講堂にて\n「洋々たる日本の前途」と題して二時間半にわたる講演\nを学生向けに行った。講演録は『大民』第一七巻第七号\n(一九三一年七月発行)に掲載されている。講演のベー\nスになっているのは、一九三一年六月一〇日頃に腹案が\n作られ、八月に出版された中野の著書『沈滞日本の更生』\n所収の「附録 対支関係の再組織」である。その要旨は\n次の通りである。すなわち、不況下の経済問題、窮迫す\nる国民生活の問題解決のためには、国民党政府による利\n74\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n権回復を峻拒して満蒙の権益を維持し、一方で中国への\n侵略という手段を採用せず、「欧洲帝国主義の変態的指\n導に誤まられたる排日傾向を一掃し」、「共存共栄の生産\n通商過程」に基づく「亜細亜ブロック」を形成して欧米\n各国のブロック経済に対応すること、以上を実現するた\nめ、明治維新期から日露戦争前の日本の国是であった「欧\n洲列強の侵略の前に東亜を確保するの支柱たること」、\n「亜細亜を支へ、支那を友とする根本精神」を外交政策\nの指導原理として顧みる必要があるとした\n( (\n4 (\n。講演「洋々\nたる日本の前途」の内容がおおよそ以上のようなもので\nあったことは、講演録から窺い知ることができる。ただ\nし、日本が樺太、シベリア、中国、満州、朝鮮、台湾\nなどに近接・領有している点を「恰も英国が欧洲を控\nへて、諸植民地を望むに髣髴たるものがある」として\n地政学的有利性があるにも関わらず、国民生活と外交\nを直結させないため、その有利性を活用できず日本の\n行き詰まりを嘆く論調が盛んである理由について、「附\n録 対支関係の再組織」では「政治家や経世家がイマ\nジネイションの飢饉である」と述べているのに対し、国\n士舘の講演では「その国を為す青年の意気が行き詰の\n(っ)\nたのであ」るとして学生の奮起を促している\n( (\n5 (\n。ベルサ\nイユ・ワシントン体制批判を基礎においた「国民生活\nの苦悩を国際的に調節する」ための「国民外交\n( (\n5 (\n」、つま\nり国民生活の改善を目的として中国の主権下にある大陸\nへ進出し、また満蒙特殊権益を確保することは、パリ講\n和会議以来の中野の主張であった\n( (\n5 (\n。昭和恐慌に際して、\n1931年6月3日 講演「洋々たる日本の前途」を行う中野正剛\n(国士舘史資料室所蔵)\n75\n中野正剛の教育実践と運動\n中野は既得の植民地や満州権益確保と大陸への進出によ\nる国民生活の改善を国士舘で訴えたのであり、そこには\n「洋々たる日本の前途」という未来に希望を託した演題\nを付していた。\n4 中野と大民倶楽部\nこれまで見たように、中野は国士舘が実施する教育を\n講師として支えていた。また、一九三〇年五月二二日現\n在、中野は国士舘の「発達を助成する」維持員会を構成\nする維持員六五名のうちの一人でもあった\n( (\n5 (\n。\n中野の関与は、青年大民団の後継団体である大民倶楽\n部\n( (\n5 (\nでも確認できる。大民倶楽部は、一九二〇年代には宮\n崎県都城、熊本県に支部を設置しており\n( (\n5 (\n、組織の拡張を\n進めていた。大民倶楽部において、中野は理事選挙を行\nい、理事会が提出する事項を決議するなどの権限を有す\nる評議員であった(一九二二年一〇月、一九三一年一二\n月、一九三二年四月時点\n( (\n5 (\n)。一九二三年五月発行の『大民』\n第一〇巻第五号に掲載された「大民倶楽部事務分掌規程」\nでは一七名の理事のうちの一人として中野の名前がある\nものの\n( (\n5 (\n、第一回~第三回理事会に中野は出席しておらず\n( (\n5 (\n、\n一九二三年六月・七月発行『大民』第一〇巻第六号・七\n号掲載「大民倶楽部事務分掌規程」では、理事氏名より\n中野の名前だけが除かれている\n( (\n5 (\n。ともかく、中野は少な\nくとも一九三二年四月までは評議員として大民倶楽部の\n運営に関与していた。満州事変直後の一九三一年一二月、\n大民倶楽部は代表者柴田名義により、満蒙権益確保を目\n的とした「満蒙自治の確立」のため、「年来経営し来れ\nる国士館学園の実績に鑑み茲に満蒙開発の指導幹部養成\n機関」とする「満洲大学」の設立意見書を外務大臣犬養\n毅宛に提出した\n( (\n6 (\n。中野は、満州事変を全面的に肯定して\n積極的に支持し\n( (\n6 (\n、また先の国士舘における講演にあるよ\nうに満蒙特殊権益確保を主張していたことから、満洲大\n学設立意見書に関して、大民倶楽部評議員であった中野\nの関与も想定できるが、詳細は分からない。なお、大民\n倶楽部は、一九四一年頃には「中央之大民倶楽部崩壊」\nと形容される状態となっており\n( (\n6 (\n、一九四〇年代初頭には\n活動が停滞していた。\n大民倶楽部の活動が停滞して行く過程と並行して生じ\nていた事態が、財団法人国士舘の役員人事をめぐる紛糾\nであった。一九三三年八月以降、財団法人の理事・評議\n委員が柴田擁護派と反柴田派に別れた紛糾に関して、\n一九三六年一月、東京地方裁判所は柴田と柴田擁護派理\n76\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n事三名の職務執行停止という仮処分を下した\n( (\n6 (\n。国士舘の\n運営に関与できなくなった柴田は、自己の活動の場を徳\n富蘇峰による日独防共協定強化運動への協力、および同\n運動の機関紙としてタブロイド版新聞『大民』(以下、\n新聞『大民』)を発行するといった新規事業に求めた。\n中野は、これらの柴田の活動にも関与していくことにな\nる。\n二 徳富蘇峰・柴田德次郎による\n防共協定強化運動への関与\n1 蘇峰・柴田による防共協定強化運動\n「日独防共強化国民運動」を構想した徳富蘇峰は、盧\n溝橋事件の直後である一九三七(昭和一二)年七月九日\nから同月一七日にかけて、柴田を各界要人のもとに送り\n意見を聞いた\n( (\n6 (\n。蘇峰と柴田はこの時点で一〇年来の知り\n合いであり\n( (\n6 (\n、また財団法人国士舘の役員人事をめぐる紛\n糾においては、柴田の国士舘運営を擁護する宣言文「国\n士舘憲則」(一九三七年一月)を蘇峰が起草しており\n( (\n6 (\n、\n密接な関係性を構築していた。七四歳になっていた高齢\nの蘇峰は、柴田を防共協定強化運動の渉外担当としたの\nであろう。\n一九三七年八月~九月段階で蘇峰が主張していた日独\n防共協定強化の内容は、中国で抗日を使嗾し、また日本\nの「皇室中心主義を破壊せんとする」共産主義にドイツ\nと連携して対抗すること、およびドイツとの協定強化・\n「日独同盟締結」と対米融和を先行させ、その後に対英\n接近を進めるべきであるというものであり\n( (\n6 (\n、蘇峰の意を\n受けて柴田が各界要人に説明した内容も、ほぼ同様であ\nったと推測される。なお、柴田が訪問した人物を列記す\nれば、石原莞爾(参謀本部第一部長、少将)、梅津美治\n郎(陸軍次官、中将)、永井柳太郎(衆議院議員、逓信\n大臣)、有田八郎(元外務大臣)、頭山満(右翼浪人)、\n松野鶴平(衆議院議員、政友会幹事長)、光永星郎(貴\n族院議員、日本電報通信社社長)、小泉又次郎(衆議院\n議員、立憲民政党幹事長)、中野正剛(衆議院議員、東\n方会会長)、緒方竹虎(朝日新聞社専務兼主筆)、坂口二\n郎(福岡日日新聞社顧問東京連絡部監督)、大橋新太郎(第\n一生命取締役、満鉄監事、大日本麦酒会社会長、日本工\n業倶楽部会長)、高石真五郎(大阪毎日主筆兼主幹)、黒\n田長和(元福岡藩主黒田家の縁戚、男爵)、藤原銀次郎(貴\n族院議員、王子製紙会社社長)、広田弘毅(貴族院議員、\n77\n中野正剛の教育実践と運動\n外務大臣)、井坂孝(東京瓦斯株式会社社長、三井銀行\n取締役)であった\n( (\n6 (\n。柴田の説明に対してほぼ全員が賛成\nの態度であり(大橋は「病気」とのみ記載)、このうち\n七月一二日に柴田と会見した中野は、「実に大讃\n(ママ)\n成、三\n宅雪嶺モ加ヘテホシイ、又松野ヤ小泉ハ馬鹿バイ、徳富、\n中野、柴田デヤロウヨ」と述べており\n( (\n6 (\n、政治結社東方会\nの機関誌『東大陸』誌上でともに健筆を振るっていた岳\n父である三宅の参加を提案している。また、中野が松野、\n小泉といった政民両党の領袖を「バカ」と批判した背景\nには、両党の連立内閣樹立を目指した協力内閣運動に挫\n折し、既成政党を見限って以後の中野の心情が反映して\nいる。\n2 防共協定強化同志会における中野の活動\n蘇峰と柴田の働きかけの結果、一九三七(昭和一二)\n年九月三日、「日独防共協定強化同志」の会合が開催され、\n「宣言」を可決した。この有志の団体は、イタリアの防\n共協定加入後である一九三八年二月二二日、「日独伊防\n共協定強化同志(会)」と改称している(以下、改称前\n後を合わせて「同志会」と表記\n( (\n7 (\n)。次頁の表1 は、\n一九三八年五月一日時点における同志会のメンバーであ\nる。一九三七年九月三日の会合には一五名が集まり、う\nち六名は七月時点で柴田が訪問した人物と重なっている。\n社会大衆党を除く政党の領袖、財界人、メディア業界人\nが名を連ねているが、会合などの出席回数からは、蘇峰\nと柴田に加えて、小原直、安保清種、緒方竹虎、田中都\n吉の積極的な関与を窺うことができる。なお、一九三九\n年二月一日時点の同志会のメンバーは表1の人物に加え、\n望月圭介(衆議院議員、政友会、元逓信大臣)、武者小\n路公共(宗秩寮総裁、元ドイツ駐箚特命全権大使、子爵)、\n永井柳太郎(衆議院議員、民政党、元逓信大臣)、頼母\n木佳吉(衆議院議員、民政党、報知新聞社長)であり\n( (\n7 (\n、\nまた、表1で使用した資料より、上田碩三(同盟通信社\n編集局長、常務理事)、安倍源基(警視総監)、金光庸夫\n(衆議院議員、政友会、元拓務大臣)が同志会のメンバ\nーか、もしくは何らかの関係を持っていた。なお、同志\n会の「本部」は電通ビル内に設置され、柴田が事務処理\nを担当しており\n( (\n7 (\n、改称したのちも電通ビル内に事務所を\n設置することが決定されていることより\n( (\n7 (\n、電通社長光永\n星郎の積極的な関与を窺うことができる。\n同志会の「宣言」は蘇峰が起草しており、表1に掲出\nした人物の連名によって発表されたようである。その内\n78\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n1937.10.13\n実行\n委員会\n1937.11.3\n講演会登壇\n(東京)\n1937.11.12\n講演会登壇\n(大阪)\n1937.11.14\n講演会登壇\n(福岡)(※)\n1938.2.22\n会合\n(※)\n1938.11.24\n防共協定\n祝賀会(※)\n1939.1.18\n新年交歓会\n(※)\n1939.4.30\n日独関係団体\n合同晩餐会(※)\n1940.2.28\n伊大使\n送別会\n〇〇〇〇\n〇〇〇〇〇〇〇\n〇〇〇〇〇〇\n〇〇\n〇〇〇〇〇\n〇〇〇\n〇〇〇〇\n〇\n〇〇\n〇〇〇〇\n〇〇〇〇〇\n〇〇〇\n〇〇〇〇\n〇〇〇〇\n〇\n〇\n〇\n〇〇〇〇\n〇〇\n〇\n〇\n〇〇〇〇〇\n(2) 会合などの出席者については以下を参照。「日独防共協定強化宣言」・「防共協定強化運動」・「日独\n防共協定の一周年記念事業」・「防共強化同志集ふ」・「記念日を前に祝賀宴」・「防共同志会交歓会」・\n「昼も夜も歓迎宴 独新聞使節」・「伊大使の送別会」(『東京朝日新聞』1937 年9 月4 日付朝刊・10\n月2 日付朝刊・10 月14 日付朝刊、1938 年2 月23 日付朝刊・11 月25 日付朝刊・1939 年1 月19 日\n付朝刊・5 月1 日付朝刊・1940 年2 月29 日付朝刊)、「日独防共協定強化運動 全国に大反響」・「防\n共協定記念晩餐出席名士」(新聞『大民』第2・8 号、1938 年5 月1 日・12 月1 日)。\n(3) 〇印は該当の会合などへの出席が確認できる者。(※)は〇印を付した人物以外の出席者がいる可能\n性のある会合など。\n79\n中野正剛の教育実践と運動\n出典:「 日独防共協定強化運動 全国に大反響」(新聞『大民』第2号、1938年5月1日)4頁。\n注 :( 1)肩 書きは以下を参照。①秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)、②秦\n郁彦編『日本陸海軍総合事典[第2 版]』(東京大学出版会、2005 年)、 ③『日本経済新聞九十年史』\n(日本経済新聞社、1966 年)、④『昭和電工五十年史』(昭和電工株式会社、1977 年)、⑤『大東文\n化大学七十年史』(学校法人大東文化学園、1993 年)、⑥『サッポロビール120 年史』(サッポロ\nビール株式会社、1996 年)、⑦福川秀樹編著『日本陸海軍人名辞典』(芙蓉書房出版、1999 年)、\n⑧信夫隆司「中村房次郎と松尾鉱山」(『総合政策』第3 巻第1 号、2001 年7 月)など。\n表1 日独伊防共協定強化同志会(1938年5月・新聞『大民』掲載順)\n氏名肩書き(1938 年5 月現在)\n1937.9.3\n会合\n(宣言可決)\n1937.10.1\n実行\n委員会\n頭山満右翼浪人、大民顧問〇\n徳富猪一郎(蘇峰) 貴族院議員、帝国芸術院会員〇〇\n野間清治報知新聞社社長〇\n安保清種海軍予備役大将、元内閣参議、元海軍大臣、男爵〇〇\n植村澄三郎元大日本麦酒取締役\n平生釟三郎貴族院議員、日本製鉄株式会社会長、陸軍省事務嘱託、元文部大臣\n簗田????次郎元中外商業新報社長〇\n有田八郎貴族院議員、元外務大臣〇\n松井石根陸軍大将、内閣参議、元中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官\n緒方竹虎朝日新聞社専務兼主筆〇〇\n松野鶴平衆議院議員、政友会幹事長\n小坂順造貴族院議員(同成会)、長野電気社長、信越窒素肥料社長、信濃毎日新聞社会長〇〇\n安達謙蔵衆議院議員、国民同盟総裁、元内務大臣\n小原直貴族院議員、元司法大臣〇〇\n小泉又次郎衆議院議員、民政党幹事長〇\n伊藤文吉貴族院議員、日本鉱業社長〇\n光永星郎貴族院議員、日本電報通信社社長〇\n後藤文夫貴族院議員、元内務大臣〇\n藤原銀次郎貴族院議員、王子製紙会社社長\n井坂孝東京瓦斯株式会社社長、三井銀行取締役\n松平頼寿貴族院議員、大東文化学院総長、伯爵\n大橋新太郎満鉄監事、大日本麦酒会社会長、日本工業倶楽部会長\n中野正剛衆議院議員、東方会会長〇\n小山松寿衆議院議長(立憲民政党)\n永田秀次郎貴族院議員、拓殖大学学長、帝国教育会会長、元拓務大臣\n森矗昶日本電気工業株式会社社長、昭和鉱業株式会社社長、昭和肥料株式会社社長\n田中都吉中外商業新報社長、元外務次官、元ソ連駐箚特命全権大使〇〇\n高石真五郎大阪毎日新聞主筆兼主幹\n岩永裕吉同盟通信社社長\n正力松太郎読売新聞社社長\n矢野恒太第一生命社長、第一相互貯蓄銀行頭取〇\n中村房次郎松尾鉱業株式会社社長、満州化学工業株式会社監査役〇\n柴田德次郎大民社社長〇\n80\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n容は、共産主義は「現代に於ける世界の一大呪詛にして\n一大害悪であ」り、「北支事件」はコミンテルンが背後\nから国民党政府を操作しているために起こったとし、日\n本は共産主義と「正面衝突をなしつゝある」ため、「日\n独防共協定締結の大精神を昭明にし」て実行していくこ\nとは、「我が国家経綸の上に於て最大急務」であるとい\nうものであった\n( (\n7 (\n。「宣言」の起草と同時期、蘇峰は中国\nで抗日を使嗾し、日本の「皇室中心主義を破壊せんとす\nる」ソ連とコミンテルンによる共産主義の拡大にはドイ\nツと連携して対抗するといった「宣言」と同様の内容に\n加えて、「日独同盟締結」と対米融和を先行させ、その\n後に対英接近を進めるべきとして対英交渉の可能性も主\n張していた\n( (\n7 (\n。このため、反共産主義に焦点を絞った強化\n同志の「宣言」は、対英関係を意識的に除外して同志を\n糾合することを企図した文章であったと考えられる。こ\nの点を鑑みれば、防共協定を拡大した日独伊三国同盟の\n締結により英ソに対抗するという方針を早期に掲げてい\nた東方会\n( (\n7 (\nの会長である中野の同志会への参加は、外交構\n想における蘇峰との差異を含みながら、反共という大枠\nの中で行われたものであったと考えられる。\n同志会の活動は、表1にあるように、講演会やイベン\nトの実施が主であった。このうち防共協定の成立記念日\nを祝賀するため、一九三八年一一月二四日、東京會舘に\nて開催された日独伊防共協定記念祝賀会には三五〇余名\nが参集した\n( (\n7 (\n。また、一九三八年二月二二日の会合では、\n陸軍参謀本部第二部第五課(ソ連情報)課長川俣雄人中\n佐よりロシアに関する講話を聴いた後、来日予定のイタ\nリア親善使節団の歓迎会開催などを申し合わせている\n( (\n7 (\n。\nこのような同志会の活動のなかで中野が関与したもの\nとして目を引くのは、一九三七年一一月に同志会が主催\nした東京、大阪、福岡での講演会への登壇である。この\n三回の講演会のうち、概要が判明するのは一一月三日に\n東京で開催された「日独防共協定強化大講演会」(於日\n比谷公会堂)である。この講演会の司会は柴田が務めて\nおり、蘇峰や中野などが登壇した\n( (\n7 (\n。講演冒頭の柴田の挨\n拶は、対中軍事行動は中国を裏で操る「共産主義を標榜\nするコミンテルン」を「殲滅」する「人道擁護の一大聖\n戦」であるとして、これに勝利するためには日独防共協\n定強化が必要であると訴えており\n( (\n8 (\n、先述した同志会の「宣\n言」に合致している。蘇峰による「世界外交の一転機」\nと題する講演についても、共産主義と日本の「皇室中心\n主義」は両立しないものであり、また抗日に向かって中\n81\n中野正剛の教育実践と運動\n国を使嗾している共産主義を批判する点は、前述した蘇\n峰の考えと同一である。変更点は、共産主義を利用して\n抗日を使嗾するイギリスの存在を誇張したことである。\nまた、ドイツとの協力とアメリカへの接近により、牽制\nしつつイギリスとの交渉を行うという外交構想に関して\nは、九月以降の枢軸結合の進行と日独伊三国防共協定締\n結(一一月六日)に至る状況\n( (\n8 (\nに加えて、ルーズベルト大\n統領による日独伊、特に日本の侵略を非難した、いわゆ\nる「隔離演説」(一〇月五日)の影響をおそらく受けた\nことから対米接近の論調が消えている。講演の最後には、\n「国民使節」として独伊を訪問する中野への「全幅の助力、\n全幅の同情」を蘇峰は訴えた\n( (\n8 (\n。日独伊防共協定締結が目\n前となった時点において、蘇峰は日独伊三国同盟締結を\n進める中野の対外硬の主張に接近していた。\n中野の演題は「日独伊の提携を強化せよ」であり\n( (\n8 (\n、内\n容の詳細は不明だが、英ソへの対抗を目的とした日独伊\n三国同盟締結を主張したと推測される。中野がムッソリ\nーニ、ヒトラーと会見するため、首相近衛文麿の手紙を\n携えて訪欧の旅に出たのは、講演会の八日後である一一\n月一一日であった\n( (\n8 (\n。\n三 新聞『大民』への「中野正剛」署名講演録・\n論説の掲載\n1 新聞『大民』の概要\n柴田は蘇峰との防共協定強化運動を進める過程におい\nて、自らが社長に就任した大民社より、運動の機関紙と\nしてタブロイド版新聞『大民』を一九三八年四月一五日\nに創刊した。同新聞に掲載された中野署名の講演録・論\n説について分析する前に、少し長くなるが新聞『大民』\nの概要を記しておきたい。\n新聞『大民』第一号・一頁には、柴田の論説「大民創\n立廿五周年」や「青年大民団規約」が掲載されており、\n一九一三年に結成された青年大民団の理念を受継ぐ新聞\nであることが示されている。一方、三頁は同志会のメン\nバーである海軍予備役大将安保清種が「発起人総代」と\nなり開催した、特命全権大使バウルッチ侯爵率いるイタ\nリア使節団の「歓迎国民大会大晩餐会」の特集記事とな\nっている\n( (\n8 (\n。当初は月刊であったが、一九三九年二月一一\n日発行の第一一号より原則日刊紙となった。新聞『大民』\nは、日本初のタブロイド型日刊紙とされている\n( (\n8 (\n。日刊紙\n移行の際、題字の箇所に「信條 排共産主義 排反動主\n82\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n義 排独善主義」を印字するようになった。「排共産主義」\nは、「自由主義デモクラシーの頽\n(カ)\n敗に乗じて、国家組織\nを攪乱し、国民意識を紊して、国粋文明を破壊せんとす\nる共産主義の絶滅によって、国際的秩序を調整し、又国\n家的国民組織の善美を期する」ためには「防共」では「尚\n足り」ず、共産主義の「排撃壊滅」を目的とした「防\n共枢軸の加強推進」が必要であるとの主張であり、「排\n反動主義」は「反動としての国粋運動若くは便宜的国\n家主義、便宜的国民主義運動」を排して「日本国民特\n有の精神を顕揚する」こと、「排独善主義」は「自由主\n義デモクラシー」において「組織、統制を敬遠する傾向」\nを生む「主我独善主義」を排斥するという主張であっ\nた\n( (\n8 (\n。また、新聞創刊当時、大民社の仮事務所が電通ビル\nに置かれていたことより、同志会と同様、電通社長光永\n星郎の協力姿勢を窺い知ることができる(日刊紙に移行\nする際、事務所は京橋区銀座に移転\n( (\n8 (\n)。\n主筆となる坂口二郎は、一九三八年二月二六日の日記\nに「(柴田より―引用者)日独伊防共強化同志会の機関\n紙発行につき相談があったので、大いに協力したい希望\nを述べて置く」と記した\n( (\n8 (\n。坂口は萬朝報の編集局長や田\n中義一内閣嘱託として施政方針演説の起草を行うなどの\n経歴を持っており、また国士舘において政治学や政治思\n想史の講義(一九二九、三四年)を行うなど、新聞『大民』\n創刊以前より柴田と親交があった\n( (\n9 (\n。坂口は、蘇峰が日独\n防共協定強化運動を開始する際に柴田より運動について\n説明を受けて「大賛成」と応じており\n( (\n9 (\n、蘇峰らが出席す\nる同志会の会合へ出席し、同志会主催による「(日独防\n共協定締結―引用者)一周年記念祝賀会」の「接待役」\nを務めるなどしていた\n( (\n9 (\n。坂口が同志会の運動と新聞『大\n民』の創刊に参画した理由として、柴田や蘇峰とかねて\nから親密であったこと\n( (\n9 (\n、「新聞創刊の野心」を抱いてい\nたこと\n( (\n9 (\nに加えて、浜口民政党内閣の幣原外交を「国際主\n義に傾倒して、追随外交に堕する自由主義政治」と批判\nし、政友会に対しては、日本の国体に適合した「自由主\n義デモクラシーに依る自由主義コレクテイヴイズムの政\n治」のもとでの国権・国益を確保する自主的外交、すな\nわち「対外硬策を執る国民主義外交の発揚」を求めた姿\n勢\n( (\n9 (\nが関係していると考えられる。ベルサイユ・ワシント\nン体制に順応した協調外交を批判し、政友会による対外\n硬を主張する坂口の考えは、枢軸の結合強化を主張する\n防共協定強化運動への関与につながった。坂口が防共協\n定強化を推進する姿勢は、一九三八年八月~一二月、新\n83\n中野正剛の教育実践と運動\n聞協会派遣の独伊親善新聞使節団の一員として渡欧した\n事実からも窺うことができる\n( (\n9 (\n。先述した新聞『大民』の\n信條の「排独善主義」は坂口のいう「自由主義コレクテ\nイヴイズムの政治」に対応しており、坂口の思想が反映\nされている。\nなお、同志会の機関紙として創刊された新聞『大民』\nではあったが、日刊紙への移行後、大民社の経営に対す\nる資金援助を行っていた同志会の岩永裕吉、緒方竹虎、\n小坂順造と柴田・坂口との間で編集上の方針について意\n見が分かれ、岩永らより将来的な資金援助が確約できな\nいことを宣告されている\n( (\n9 (\n。大民社と同志会との間には、\n軋轢も存在した。\n一九三九年一一月三日現在の大民社の陣容は、社長柴\n田、主筆坂口(福岡日日新聞社顧問東京連絡部監督)、\n客員長谷川光太郎(日本証券新聞、元国民新聞編集局長)、\n外交三好貞雄(元報知新聞社)、営業花田半助(柴田と\n同様、財団法人国士舘役員をめぐる紛糾では法人理事と\nしての職務執行停止仮処分を受ける\n( (\n9 (\n)であり、社員は\n三六名であった。新聞『大民』は朝刊のみの発行、紙面\n数は四頁、発行部数一二、〇〇〇部、購読料一カ月五〇\n銭であり、「四面を大陸版として大陸(主として各派遣軍)\nに送る」とした\n( (\n9 (\n。陸軍との関係について、「坂口日記」\nには、「『大民』に対し昨今両日、陸軍情報部からの注文\nがあった。毎日二百部づゝを配布して欲しいと云ふので\nある」(一九三九年六月二日条)、「正午丸の内会館で徳\n富先生、柴田社長と共に陸軍情報部長松村中佐並に藤田\n中佐招待の午餐会に出席」(一九四〇年四月一六日条)\nという記載があり\n(\n(10 (\n、大本営陸軍報道部(当時、松村秀逸\n中佐は報道部長、藤田実彦中佐は陸軍省軍務局付報道部\n員)との密接な関係が窺える。また新聞『大民』では、\n日刊紙に移行した直後である第一二号以降、社告として\n中国・満州に赴いている兵士と大陸への開拓移民からの\n手記を継続的に募集しており、前者は「必ずや銃後の国\n民を感動奮起させるものと信じます」という考えによっ\nていた\n(\n(10 (\n。これらより、日刊紙移行後は日中戦争に対する\n戦意高揚を目的として、陸軍と大民社は結び付いていた\nと考えられる。さらに、大民社とドイツ大使館との関係\nも密接であったようであり、新聞『大民』編集局には大\n使館の「綱島氏」が「要談」などのために訪問しており、\nまたヒトラーの演説全文が大使館より送付され紙面に掲\n載されたようである(掲載紙は国士舘史資料室未所蔵\n((10 (\n)。\n第八一四号(一九四一年一〇月四日発行)の発行部数\n84\n国士舘史研究年報2019 楓厡\nは八千部であり、一九三九年一一月時点より四千部減少\nした\n(\n(10\n(\n。なお、戦争の長期化に伴って新聞『大民』は思う\nように発行できなくなっていった。一九四四年の「坂口\n日記」には、「用紙減給の通知」について社長柴田と話\nし合ったこと、警視庁から呼び出された坂口が新聞統制\nに関する届出を要求されたこと、印刷工場の職工の欠勤\nや空襲によってページ数減少や臨時休刊を余儀なくされ\nたことが記されている\n(\n(10\n(\n。それでも一九四四年末までは発\n行を続けており\n(\n(10\n(\n、国士舘史資料室所蔵分のうち最も時代\nが下るものは、一九四四年一一月七日発行の第一七四八\n号である。また、新聞『大民』の信條は、第一七一三号\n(一九四四年九月二五日発行)時点では「皇道宣揚 東\n亜振興 米英撃滅」であった。「坂口日記」によれば、\n一九四四年二月六日に柴田と坂口が蘇峰より「大民信条\n更新について誨へを受け」ていることから、同時期に蘇\n峰のアドバイスのもとで信條を更新したと思われる\n(\n(10\n(\n。\n2 「中野正剛」署名の講演録・論説\n次頁の表2は、新聞『大民』に掲載された「中野正剛」\n署名の講演録・論説の一覧である。なお、注にある所蔵\n状況により、中野が新体制運動に関与し、大政翼賛会常\n任総務を務めた時期である一九四〇(昭和一六)年八月\nから翌四一年三月については新聞『大民』の欠落が多く、\nこの時期における中野との関係は明らかにできないこと\nを断っておきたい。\n表2における新聞『大民』掲載記事の概要より中野の\n主張を見ると、日米開戦前は中国における列強とりわけ\n英ソ勢力の排除、中国に対する交戦権の行使と租界接収、\n日独伊三国同盟締結、独ソ不可侵条約締結後の反英への\n純化=北守南進論を主張し((A)~(D))、開戦直前\nには即時南進、対英米強硬外交、「官僚奴隷体制」「官僚\n封建主義」を否定して国民感情を汲んだ「本当の全体主\n義」の構築((E)、(F))を、開戦後には国民の徹底抗\n戦を実現するための政治理念、経済施設の必要性と戦時\n体制・統制経済担当者への批判を述べている((G)、\n(H))。以上は、社会大衆党と東方会との合同が流産し\nた後の一九三九年五月、新綱領・新運動方針決定と党規\n約改正を行い、国家主義政党から運動体へと変容した東\n方会が展開した「国民運動」の目標であった\n((10 (\n。\n表2によって新聞『大民』への掲載の仕方に注目する\nと、(A)、(B)は、中野が衆議院議員を辞職(一九三九\n年三月)したのち、国民運動によって党勢を拡大しよう\n85\n中野正剛の教育実践と運動\nとした東方会\n(\n(10\n(\nの第一回大会における中野の演説「日本の\n動向を決定せよ」を再構成したものである。新聞『大民』\nには、中野が国民運動について述べた部分は省略され、\n世界情勢の分析と対外硬を主張した部分が掲載されてい\nる。同演説の全文は、一九三九年六月、『旬刊講演集』\n第一七巻第一六輯として発行されており、同年七月には\n「時論 日本の動向を決定せよ」の題名で東方会の機関\n誌である『東大陸』第一七巻第七号に掲載された。この\n二つは、五月二〇日の五相会議において日独伊防共協定\n強化の内容の意見一致をみるまでに会議が六〇数回開催\nされたことを述べた箇所が、一九三八年九月一六日付外\n務省令(防共協定強化交渉の経過を外務省発表以外禁止)\nに抵触したため、該当箇所を削除する処分を受けた\n(\n(10\n(\n。し\nかし、新聞『大民』における(A)、(B)には五相会議\nに関して述べた部分は掲載されていないため、検閲を通\n過している。なお、(A)、(B)のタイトルには、五月\n二一日の東方会全体会議で決定された国民運動の当面の\n目標のうち、第三、四番目に掲げられた目標が使用され\nている\n( (\n11 (\n。\n一方、中野の演説内容を掲載した新聞『大民』が発禁\nになった例が、(E)の(11)、(14)、(15)である。\n(E)は、一九四一年九月一三日、日比谷公会堂で行わ\nれた演説「ルーズヴェルト・チャーチルに答へ日本国民\nに告ぐ」を新聞『大民』記者がまとめた上で連載したも\nのであり、第八一〇・八一三・八一四号(一九四一年九月\n三〇日・一〇月三日・一〇月四日発行)が「一般安寧」\nを乱すとして発禁になった\n( (\n11 (\n。この直前、九月二四日に中\n野が発行した「半紙九枚刷」の同名の印刷物が、「只英\n米トノ開戦ヲ期シ武力南進ヲ主張シタルハ、徒ラニ国民\nヲシテ政治不信ノ念ヲ抱カシムルノミナラズ"}, {"subitem_textarea_value": "、帝国ニ領\n土的野心アルガ如キ感ヲ与ヘ、国交上極メテ悪影響アリ\nト認メラルヽニ因リ禁止」(読点引用者、以下同じ)と\nして発禁処分を受けていた。印刷物の内容は、日ソ中立\n条約が存在するもとで独ソ戦が開始された現在、日本\nは時間稼ぎの英米の和平工作に惑わされて「陸軍当局\n者の所謂戦略的要求の絶対性を喪失してはなら」ず、蘭\n印の資源確保のため南進すべきであるというものであ\nり\n( (\n11 (\n、日米交渉を継続していた政府にとっては看過でき\nないものであった。\nこの中野の演説概要が発禁となったのち、新聞『大民』\n第八一〇号(九月三〇日発行)は、「帝国ノ外交方針ニ\n関シ、国民ニ疑惑ノ念ヲ生ゼシムル虞レアル記事」とさ\n86\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n概要備考\n・ 対英米仏協調外交、英の背後にいるユダヤ系資本、英米仏ソの武力干渉\nを批判。\n・ 中国への援助遮断、東亜新秩序建設のため日独伊三国同盟締結を主張。\n・ 日中が交戦状態にあることを声明し、交戦権行使による租界接収を主張。\n・ 東方会第1 回大会(1939.6.2、於日本青年館)にお\nける演説「日本の動向を決定せよ」の一部。\n・ 演説全文は、『旬刊講演集』第17 巻第16 輯(東京\n講演同好会、1939 年6 月)として出版。\n・『 東大陸』第17 巻第7 号(1939 年7月)に「時論 \n日本の動向を決定せよ」として掲載。\n・ 検閲により、『旬刊講演集』31 頁の一部、『東大陸』\n46 頁の一部削除。\n・ ベルサイユ・ワシントン体制、\n・\n日本の対英米協調外交を批判。\n・蒋介石を援助する英ソを批判。\n・ 日本の指導のもとでの日中融合による「東亜新秩序」建設、日中戦争を\n終結させるため武力南進を主張。\n・(A)「備考」に同じ。\n・ 中国に対する交戦権行使を明示し、対中援助を封じるため租界接収・沿\n岸封鎖断行を主張(日中が交戦状態にあることを明示しなかった有田・ク\nレーギー協定批判)。\n・ 反英・排英運動によるアジア諸民族の協力獲得を主張(平沼内閣の運動\n弾圧声明を批判)。\n・ 対英米協調外交を批判、日独伊三国同盟の締結と南進論を主張。\n・「 東亜民族大会」(1939.7.31、於日比谷公会堂)で\nの演説。\n・ 演説は、「反英運動と軍事同盟」として『東大陸』\n第17 巻第9 号(1939 年9 月)に掲載。\n・ 新聞『大民』掲載の講演録は、『東大陸』掲載講演\n録の簡略版。\n・「 国民の総意を把握」し「迅速果敢の行動」を可能とする「現代的独裁」\nが必要。\n・ 東アジア問題では「排英」徹底が必要(有田・クレーギー協定批判、軍\n事力による租界接収・大陸沿岸の英仏艦隊の武装解除を主張)。\n・ 独ソ不可侵条約が締結された現在、日独伊三国同盟締結と日ソ国交の調\n整により、「排英一途」への方向転換が必要。\n・「 大日本不動の方針」(『東大陸』第17 巻第10 号、\n1939 年10 月)と同一文章。\n・論文は9 月13 日脱稿。\n・対英米強硬外交、即時南進を主張。\n・ 東方会による「愛国運動」「愛国言論」への弾圧・抑圧を批判。\n・「 官僚政治」批判、国論の高揚・民意調達による「全体主義」構築の必要性。\n・ 演説「ルーズヴェルト・チャーチルに答へ日本国\n民に告ぐ」(1941.9.13、於日比谷公会堂)を新聞『大\n民』記者がまとめたもの。\n・ 検閲により、(11 )・(14 )・(15 )を掲載した新聞『大\n民』第810・813・814 号は発禁。\n・ 演説概要は、『東大陸』第19 巻第10 号(1941 年\n10 月)に掲載、検閲により9 頁目削除。\n・『 ルーズヴェルト・チャーチルに答へ日本国民に告\nぐ』(東方会宣伝部、1941 年10 月)として出版。\n・大東亜共栄圏建設のため即時軍事行動が必要。\n・対米交渉中止、即時南進を主張。\n・「 官僚奴隷体制」「官僚封建主義」を批判、国民感情を汲んだ「本当の全\n体主義」構築のため「日本精神」再生を主張。\n・ 演説「危機坐視するを許さず」(1941.12.2、於日比\n谷公会堂)を新聞『大民』記者がまとめたもの。\n・ 長期戦完遂のため、大東亜共栄圏建設、南方の資源確保、国民を結合し\nた「全国民の戦闘体形」が必要。\n・ 上記の指導原理は、「明治維新の精神」に基づき、大御心に沿った「人間\n主義」・「道義国家」によるべきである。\n・ 東方会の目標は国体・民族性より発する精神を国民運動により広めること。\n・「 総蹶起国民大会」(1941.12.17、於国技館)におけ\nる演説を新聞『大民』記者がまとめたもの。\n・ 同演説は、『此一戦 国民は如何に戦ふべきか!』(東\n方会、1942 年1 月)として出版。\n・ 日独伊三国同盟のもと英米ソとの徹底抗戦を主張。\n・ 徹底抗戦実現のため国民を能動的に生産増大に向かわせる必要。このた\nめ全国民を躍動させる政治理念と経済施設が必要。\n・「 時論」(『東大陸』第20巻第10号、1942年10月)\nとほぼ同一文章。\n・ 新聞『大民』のタイトル「長期戦と和平謀略」は、\n「時論」における小見出しのひとつ。\n・柴田德次郎との邂逅、創立期国士舘の思い出。\n・学問の意義。\n・現状の戦時体制・統制経済を運用する為政者を批判。\n・対英米戦勝利に向けた「天下国家の根本的改革」の必要性。\n・ 国士舘25 周年記念式(1942.11.4、於国士舘)での\n講演を新聞『大民』記者がまとめたもの。__\n87\n中野正剛の教育実践と運動\n表2 「中野正剛」署名の講演録・論説(新聞『大民』掲載)\nタイトル掲載号数発行年月日掲載頁\n(A)「日独伊同盟活用」(1)~(8) 107 ~ 114 号1939.6.5 ~ 6.10,6.12 ~ 6.13 1 頁\n(B)「東亜諸民族の自主的結盟」(1)~(4) 122 ~ 125 号1939.6.22 ~ 6.24,6.26 3 頁\n(C)「東亜民族結盟と日本の使命」(1)~(4) 161 ~ 164 号1939.8.7 ~ 8.10 1 頁\n(D)「大日本不動の方針」(1)~(6) 199 ~ 204 号1939.9.20 ~ 9.23,9.25 ~ 9.26 3 頁\n(E)「英米首脳に答へ日本国民に告ぐ」(1)~(17) 799 ~ 805,807 ~ 816 号\n1941.9.16 ~ 9.20,9.22 ~\n9.23,9.26 ~ 9.27,9.29 ~\n10.4,10.6 ~ 10.7\n1 頁\n(F)「危機坐視するを許さず」(1)~(15) 867,869 ~ 873,875 ~ 883 号\n1941.12.8,12.10 ~ 12.13,\n12.15,12.17 ~ 12.20,12.22\n~ 12.25,12.27\n3 頁\n(G)「国民総蹶起の秋」(1)~(9) 886 ~ 892,894 ~ 895 号1942.1.1,1.3,1.5 ~ 1.9,1.12\n~ 1.13 3 頁\n(H)「長期戦と和平謀略」(1)~(8) 1117 ~ 1124 号1942.10.3 ~ 10.4,10.6 ~\n10.11 1 頁\n(I)「死地を踏んで善士」(1)~(2),(4)~(5),(7) 1184 ~ 1185,1187 ~ 1188,\n1192 号\n1942.12.23 ~ 12.24,12.27,\n12.29,1943.1.5 1 頁\n注) 国士舘史資料室所蔵の新聞『大民』は、第1 号~第258 号(1938 年4 月15 日~ 1939 年11 月30 日)、第457 号~第507 号(1940\n年8 月1 日~ 1940 年9 月30 日)、第708 号~第1263 号(1941 年6 月2 日~ 1943 年3 月31 日)、第1365 号~第1366 号(1943\n年7 月29 日~ 7 月30 日)、第1713 号(1944 年9 月25 日)、第1748 号(1944 年11 月7 日)。\n88\n国士舘史研究年報2019 楓厡\nれた(E)・(11)を掲載したことにより即日発禁とな\nった。記事の該当部分は、独ソ戦が開始された現在、三\n国同盟のもと「日本は直ちにドイツと共に起上るべきで」\nあり、英米との摩擦を回避しようとすべきではないと主\n張した箇所であり\n( (\n11 (\n、先の概要版と同じ文脈のため発禁と\nなった。また、新聞『大民』第八一三・八一四号(一〇\n月三日・一〇月四日発行)は、発行日が異なるものの、\nどちらも一〇月四日に発禁となっている。(E)・(14)、\n(15)は、一九四〇年九月から翌四一年六月まで継続\nした、外交による重要資源確保を企図した第二次日蘭会\n商の話題で連続している。その内容は、外交交渉を長期\n化することは英米に時間的猶予を与えるものであり、陸\n軍報道部発表にあるように「帝国の軍事的立場を日に悪\n化するもの」であるため、直ちに南進すべきことを訴え\nていた。(E)・(14)が掲載された第八一三号の発禁\nの理由は「帝国ノ外交措置ヲ誹謗攻撃セルモノニシテ、\n政治不信ノ気運ヲ醸成スル虞レアリト認メラルヽニ因リ\n禁止」、(15)が掲載された第八一四号は「武力南進ヲ\n主張セルモノニシテ、対外政策遂行上重大ナル不利ヲ招\n来スル虞レアリト認メラルヽニ因リ禁止」であるが、両\n紙とも一〇月四日に発禁となっていることから、同日発\n行の第八一四号の発禁理由に重きが置かれていたと考え\nられる\n( (\n11 (\n。演説概要と同様、南進策の主張は日米交渉を継\n続していた政府にとって看過できない内容であり、この\nため新聞『大民』は発禁処分を受けたといえる。ちなみ\nに、『東大陸』第一九巻第一〇号に掲載された演説概要\nについては、「獨逸ニ策応シテ断乎南進ヲ強調シ」たと\nする部分(九頁)の削除を受けている\n( (\n11 (\n。また、別途発行\nされた講演録(一〇月五日発行)については発禁等の処\n分を受けていない。この理由は、講演録では新聞『大民』\n掲載記事における「敵の心臓に向つて一当て当てて南進\nするならば、それでわれ〳〵の残念さは慰せられると言\nつてゐた。どうだ、早く行かうではないか。早く行かな\nければ機会がなくなる\n( (\n11 (\n」といった、武力南進をことさら\nに強調する表現を省略することによって、その主張のト\nーンが抑えられているためと考えられる\n( (\n11 (\n。なお、(E)\nより後の時期は中野署名の講演録・論説は発禁等の処分\nを受けていない。これは、日本政府が対米開戦に傾斜し\nていく過程において、アメリカ批判や日本が自存自衛の\nため戦争に訴えるとする内容の記事が検閲対象から外さ\nれ、対米開戦を宣伝・誘導するため掲載可能になった状\n況が関係していると考えられる(一〇月三日「対外関係\n89\n中野正剛の教育実践と運動\n記事取締要綱」改訂、同月七日各庁府県警察部長宛通達\n( (\n11 (\n)。\n『東大陸』への掲載や講演録が出版されたにも関わら\nず、新聞『大民』に同じ演説を掲載しているパターンは、\n(C)、(G)も同様である。(G)は、中野の演説を新聞\n『大民』記者が文章化したものである。また、(C)は『東\n大陸』に掲載された講演録の簡略版となっている。(G)\nは文章が簡潔で読みやすく、東方会から出版された講演\n録『此ノ一戦 国民は如何に戦ふべきか!』と読み合わ\nせても演説内容を余す所なく伝えていることから、東方\n会や中野より原稿や音源の提供を受けていた可能性が考\nえられる。さらに、『東大陸』に掲載された論説を分割\nして新聞『大民』で連載した(D)、(H)は『東大陸』\n掲載の文章とほぼ同一であり、(D)については『東大陸』\nに掲載された小見出しごとに新聞『大民』に分割して掲\n載しており、誤字の箇所も一致している。(H)につい\nては、新聞『大民』に掲載するに当り、『東大陸』掲載\n文章を短くまとめている箇所が多い。いずれにしても、\n(D)、(H)については、『東大陸』掲載の同時期に東方\n会や中野より原稿の提供を受けている可能性が高い。\n(I)は、一九四二年一一月四日、国士舘創立の日に\n開催された「国士舘二五周年記念式\n( (\n11 (\n」における中野の講\n演を新聞『大民』記者がまとめたものである。連載全七\n回のうち、国士舘史資料室における新聞『大民』の所蔵\n状況により、二回分の内容を知ることはできない。判明\nする講演内容は、先に示した柴田との邂逅や国士舘が麻\n布区笄町にあった頃の思い出の他、①学問の意義につい\nて、②戦時体制運用者の現実感覚欠落に対する批判、③\n「物質を受け持って居る」商工大臣岸信介が講演にて「非\n常に精神論を強調」したことへの批判、④為政者は「至\n誠」を持って各種対策に当たるべきであること、⑤豊臣\n秀吉とヒトラーを比較して明らかなように、日本人リー\nダーにはユーモアと余裕があること、⑥柴田の人間性お\nよび金策について、⑦「矛盾に満ちた社会」の変革、余\n裕を持って対英米戦争に勝利するための「天下国家の根\n本的改革」を行うためには、実体験の苦労に基づいて\n「烈々たる魂を養ひ、さうして己を無にして人に及ぼす」\nことが必要であること、というものであった。以上は、\n国士舘における講演の前後に開催された長期戦完遂講演\n会(一〇月一〇日、帝都日日新聞社主催、於共立講堂)、\n講演「天下一人を以て興る」(一一月一〇日、於早稲田\n大学大隈講堂)、講演「国民的必勝陣を結成せよ」(一二\n月二一日、於日比谷公会堂)と共通する部分があるが、__\n90\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n③は各講演にて繰り返された批判であり、「国民的必勝\n陣を結成せよ」では東条政権打破を呼号し、これに聴衆\nが熱狂したことから、以後、政府は中野の演説を禁止す\nるに至った\n( (\n12 (\n。国士舘に対する中野の思いが述べられたの\nは、①、⑦である。\n①に関して、中野は「将来職業の如何を問はず、国士\nであらねばならぬ。諸君は必ずしも政治家ではないかも\nしれぬが、日本国民は或意味において、総て政治家でな\nくてはいかぬ」と訴えたように、国士舘生が「政治家」\nたることを求めた。中野のいう「政治家」とは、「職域\n奉公―自分の仕事だけして居れと言ふ」政府の求める態\n度ではなく、戦時経済、戦争、政治に対する関心を持ち、\n「自己の為すこと如何が、人間に影響する、政治に影響\nするものであると云ふ確信を持」った人物のことであっ\nた。このような「政治家」になるために必要なのが学問\nであり、学問では、先ず「己れの性質を突き詰めて究む」\nることが大事であり、これが実現すれば他者の性質や他\n者が利用している物の性質が分かり、順次、社会、国家\nのことも理解されてくること、学問をする上で尊いこと\nは、この「己れの心の中にたづね入つて」「人間の真の\n性情」である「誠」に到達することであると訴えた\n( (\n12 (\n。限\n定的な職域奉公ではなく、自己の内面の探求から社会、\n国家について考える国士としての政治家になるようにと\nいう中野のエールであった。なお、「職域に立ちながら\n自己の立場を掘り下げて国家全体の感覚に浸ること」の\n重要性を訴えた「職域奉公論」や、「至誠」を出発点と\nして己の性、人の性、物の性を尽くして万事に精通す\nることにより、「天地の化育に参加して人世を救済する\nことが出来る」といった『中庸』の教えは、国士舘に\nおける講演の直後に行われた早稲田大学での講演「天\n下一人を以て興る」においても述べている\n( (\n12 (\n。\n⑦は、官僚統制を一貫して批判し、国民の意志を結集\nした政治の実現を目指した中野の思想を反映したものだ\nが、ここで中野は江戸時代の儒者太宰春台が著したとさ\nれる『産語』の一節を引用している。すなわち、「肩背\nを傷め\n(ざ脱)\nれば、善買と成る能はず、糞水を掬ぜざれば、善\n農となる能はず、死地を踏まざれば、善士となる能はず、\n筋脈を断たざれば、善工と為る能はず」だが、『産語』\nでの文章とは順番が異なる\n( (\n12 (\n。文意は「肩や背中を痛めな\nければ、優れた商人となることはできない。糞尿の汲み\n取りをしなければ、優れた農夫となることはできない。\n死線を越えなければ、優れた兵士となることはできない。\n91\n中野正剛の教育実践と運動\n筋肉や血管を傷付けなければ、優れた職人となることは\nできない」であり\n( (\n12 (\n、新聞『大民』連載時のタイトル「死\n地を踏んで善士」もここから付けられた。中野の主張は、\n戦時体制運用者の現実感覚が欠落していることに対する\n批判の延長線上にあるものだが、とりわけこの文章を国\n士舘における講演で引用したのは、『産語』が松下村塾\nのテキストとして使用されたものであり、松下村塾で学\nぶ品川弥二郎の求めに応じ吉田松陰が与えた文章であっ\nたためと思われる\n( (\n12 (\n。\n同講演において、中野が麻布区笄町時代の国士舘を回\n顧し、講師である自分と学生たちとの間には「魂と魂の\n接触を感じた」と述べたことについては、第二章第三節\nでふれた。このように述べたあと、中野は「吉田松陰先\n生の松下村塾などと謂ふものは、あの笄町の國士館の\n前身ぐらゐのものであつたらうと思ふ。大なるはその\n建物に非ず、その中に包まれたる精神である」と述べ\nている\n( (\n12 (\n。以上は、一九四〇年一〇月、世田谷区成城町に\n設立され、中野が主宰した振東塾(新体制運動支持のた\nめ、政治結社東方会を改組した文化団体振東社に付属す\nる錬成道場\n( (\n12 (\n)の開講にあたって述べた次の一節、「松陰\n先生は礼儀を寛洪にして、真心の門戸を開くといふやり\n方であったが、それで先生が話されると門下生達は覚え\nず膝乗り出して感激し、膝と膝、肩と肩が摺れ合つたと\n云ふ\n( (\n12 (\n」の延長上における言葉であった。塾生への訓戒と\nしても、中野は「われ〳〵と魂の接触をせられ」たいと\n述べたという\n( (\n12 (\n。中野が主宰した振東塾は、高等小学校ま\nたは国民学校卒業以上の一八歳以上の者を対象として、\n「邦家未曽有の難局に処して挺身艱難の先に立ち、以て\n護国の礎石たる可き志士仁人の錬成を行ふ」ため一定期\n間合宿を行うとしたが\n( (\n13 (\n、中野が「こゝで諸君と起臥を共\nにし、同じ環境の下に書を講じ、学を研\n(究)\nめ憂ひを同じく\nし、憤りを同じくし、悲しみを同じくし、悦びを同じう\nすることが、これが本当の挙国一致とか、全体主義とか\nの心境を会得する所以ではないだらうか」と述べている\nように、指導者と塾生との合宿という「魂の接触」によ\nり、「本当の挙国一致とか、全体主義とかの心境を会得\nする」ことを目的にしていた。この直後に、強権的な官\n僚統制を批判しつつ、「機械的に組立てゝ、全体の統一\nと云ひ、統合と云ふが、それは形式だけのことで、其の\n根柢に何の精神も動いてゐない。それだけでは機械組織\nであつて、有機組織にはなつて居ない。其の機械組織も\n単なる模型であつて、運転の力を欠くものである\n( (\n13 (\n」と述__\n92\n国士舘史研究年報2019 楓厡\nべているように、振東塾は大政翼賛会常任総務に就任し\nた中野が、政治運動によらず教育によって官僚統制を克\n服するために採用した手法であった。中野は、大政翼賛\n会を脱会後、政治結社東方会を再建するが、翼賛選挙後\nの一九四二年五月、翼賛政治会に入会し、再び東方会を\n思想団体東方同志会に改組した。政治性を否定した東方\n同志会が採用した運動方法は、中央幹部と地方組織の中\n核的指導者を養成する振東塾での「全国指導者錬成会」、\nおよび全国支部の拡大強化方法の一つとしての「移動振\n東塾」の開催であり\n( (\n13 (\n、以上の教育実践を行う過程におい\nて、中野は創立期の国士舘を回顧していたのである。\nおわりに\n本稿では、青年大民団(のち大民倶楽部、大民社)と\n国士舘との関係から、中野の教育実践と運動を見てきた。\n最後に分析結果をまとめ、課題を述べておきたい。\n麻布区笄町時代の国士舘(国士舘の世田谷移転は\n一九一九年一一月四日)への恒常的な出講と「国士館巡\n回夏期講演会」という多くの人々を対象にした教育に中\n野が関与した理由としては、早稲田騒動を契機として中\n野が既存の高等教育に限界を感じたことがあり、その前\n提には修養と困苦に基づく国民エートス形成によって国\n家を改革しようとした、精神教育を重視する中野の思想\nがあったと考えられる。また、中野の大政翼賛会常任総\n務就任や翼賛政治会入会によって、東方会が政治性を否\n定したのち、官僚統制を克服するために中野らが採用し\nた方法は振東塾での教育であった。「魂の接触」を理想\nに掲げて教育を実践する中野は、その理想に照らし合わ\nせながら麻布区笄町時代の国士舘を回顧していた。\n蘇峰と柴田が進めた日独防共協定強化運動は、中野自\n身が進めた東方会による国民運動との差異を含みつつ、\n協力的な関係のもとで進められた。防共協定強化同志会\nへの参加と新聞『大民』への中野署名の講演録・論説掲\n載の事実からは、防共協定強化運動に対する中野の協力\n姿勢を窺うことができる。一方、中野が既成政党によら\nない国民運動を推進したのに対し、新聞『大民』の主筆\nである坂口二郎は、政友会による「国民主義外交」を主\n張していた。新聞『大民』には、「信條 排共産主義、\n排反動主義、排独善主義」の大枠に沿って、中野をはじ\nめとした防共協定強化同志会の人々を含む様々な人物の\n論説などが掲載されていることから、国士舘の歴史だけ\n93\n中野正剛の教育実践と運動\nではなく、日中戦争以後の排外運動や右翼運動を分析す\nる際の好個の資料であり、今後の本格的な分析が望まれ\nる。また、防共協定強化同志会の活動については、防共\n協定強化運動開始時期の早期性や各種団体を動員して展\n開された政府支持の大規模な大衆的運動に比べて規模が\n小さかった点などが指摘されているが\n( (\n13 (\n、本格的な分析対\n象とされてこなかった。表1に示した政財界、メディア\n業界、陸海軍のメンバーからなる同志会の人脈的な広が\nりとその活動の歴史的な意味については、別途分析が必\n要であろう。\nなお、新聞『大民』は陸軍との密接な関係のもとで\n発行された。この事実との関連で想定できるのは、国\n士舘と陸軍との関係の継続性である。本稿でふれた満\n洲大学の設立構想は、満州国における「満州鏡泊学園」\n設立(一九三二年一〇月)につながるが、設立に際し\nては関東軍の要人などとの会談を重ねており\n( (\n13 (\n、この時\nに陸軍首脳部との関係性が築かれたと思われる。また、\n戦後の国士舘大学において舘長柴田が統括し、柴田が\n担当する必修科目「実践倫理」の「訓育」指導を中心\nとして学生生活全般の指導・管理を行う学生課職員\n(一九六三年より「学生監」と呼称\n( (\n13 (\n)には、旧陸軍軍人\nが多く就任していたようである。満州鏡泊学園設立、日\n独防共協定強化運動および新聞『大民』を通じて形成さ\nれた陸軍との関係性は、戦後まで連続していることも想\n定できる。柴田死後の学園改革の質を見定めるためにも、\n以上のような国士舘の歴史を明らかにすることは決して\n「特殊な業務」ではないのであり、研究の進展を期したい。\n\n94\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n〈注〉\n(1) 「雑誌『大民』の発行」(一九一九年一〇月二〇日)、\n『国士舘百年史 史料編上』(学校法人国士舘、\n二〇一五年)七頁。\n(2) 「青年大民団清規」(一九一八年四月一日)、前掲\n『国士舘百年史 史料編上』四〇頁。\n(3) 中野の略歴については、猪俣敬太郎『中野正剛の\n生涯』(黎明書房、一九六四年)、有馬学「中野正\n剛」(臼井勝美ほか編『日本近現代人名辞典』吉川\n弘文館、二〇〇一年)を参照。\n(4) 代表的なものとして、前掲猪俣『中野正剛の生涯』、\n中野泰雄『政治家 中野正剛』(上・下巻)(新光\n閣書店、一九七一年)、同『アジア主義者 中野正\n剛』(亜紀書房、一九八八年)。\n(5) 波田永実「中野正剛と大正後期の福岡市政界」(『福\n岡県史 近代研究編 各論(一)』財団法人西日本\n文化協会、一九八九年)一二九頁。\n(6) 木坂順一郎「中野正剛論(一)・(二)」(『龍谷法学』\n第三巻第二号・第六巻第一号、一九七一年一月・\n一九七三年一一月)、同「大正期民本主義者の国際\n認識」(『国際政治』第五一号、一九七四年一〇月)、\n兼近輝雄「中野正剛とファシズム思想(上)・(中)・\n( 下)」(『早稲田政治経済学雑誌』第一九六・\n二三二・二三四号、一九六五年一二月・一九七二年\n一〇月・一九七三年八月)、永井和「東方会の成立」\n(『史林』第六一巻第四号、一九七八年七月)、同\n「東方会の展開」(『史林』第六二巻第一号、一九七九\n年一月)、住友陽文「大正デモクラシー期『議会主\n義』の隘路」(『日本史研究』第四二四号、一九九七\n年一二月)、井上敬介「中野正剛と党外人」(井上\n『立憲民政党と政党改良―戦前二大政党制の崩壊』\n北海道大学出版会、二〇一三年)、神谷昌史「『維\n新の精神』とアジアへの視線―初期中野正剛のナ\nショナル・デモクラシーと中国観―」(『大東法政\n論集』第八号、二〇〇〇年三月)、同「第一次大戦\n後の世界秩序と日本の『改造』―改造同盟とその\n周辺」(武田知己・萩原稔編『大正昭和期の日本政\n治と国際秩序―転換期における「未発の可能性」を\n95\n中野正剛の教育実践と運動\nめぐって―』思文閣出版、二〇一四年)、松枝大貴\n「昭和戦前期における第三党に関する一考察―「革\n新政党」国民同盟を中心に―」(『慶應義塾大学大\n学院法学研究科論文集』第五七号、二〇一七年)。\n(7) 有馬学「『改造運動』の対外観―大正期の中野正剛\n―」(『九州史学』第六〇号、一九七六年九月)、同\n「東方会の組織と政策―社会大衆党との合同問題\nの周辺―」(『史淵』第一一四輯、一九七七年三月)、\n同「『東方時論』」(小島麗逸編『戦前の中国時論誌\n研究』アジア経済研究所、一九七八年)、同「戦争\n期の東方会」(『史淵』第一一八輯、一九八一年三\n月)、同「反復の構造―満洲事変期の『国民社会主\n義』―」(有馬学・三谷博編著『近代日本の政治構\n造』吉川弘文館、一九九三年)、同『帝国の昭和』\n(講談社学術文庫版、二〇一〇年、原本は二〇〇二\n年刊)、同『「国際化」の中の帝国日本 一九〇五\n~一九二四』(中公文庫版、二〇一三年、原本は\n一九九九年刊)。\n(8) 室潔『東條討つべし 中野正剛評伝』(朝日新聞社、\n一九九九年)。\n(9) 中野正剛「国士館廿五周年記念式 死地を踏んで\n善士(一)」(新聞『大民』第一一八四号、一九四二\n年一二月二三日)一頁。中野の講演を新聞『大民』\n記者がまとめたもの。なお、同講演が一一月四日\nに行われたことについては、一九四二年一〇月\n二二日付徳富蘇峰宛柴田德次郎書簡(徳富蘇峰記\n念館所蔵)による。\n(\n10\n) 前掲中野「国士館廿五周年記念式 死地を踏んで\n善士(一)」一頁。\n(\n11\n) 『人物シリーズ(1) 柴田徳次郎先生』(教育と産\n業経済研究会、一九七一年)二二~二三頁。\n(\n12\n) 前掲中野『政治家中野正剛 上巻』二二三頁。\n(\n13\n) 「青年大民団名簿」(一九一七年七月一日)前掲『国\n士舘百年史 史料編上』三一~三四頁。\n(\n14\n) 前掲中野『アジア主義者 中野正剛』七七~七八\n頁。\n(\n15\n) 前掲中野『政治家中野正剛 上巻』二一六頁、前\n掲中野『アジア主義者 中野正剛』二三〇~二三一\n96\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n頁。\n(\n16\n) 河野昭昌「早稲田騒動」(『早稲田大学史記要』第\n九号、一九七六年三月)。\n(\n17\n) 同前、一三五頁、早稲田大学大学史編集所編『早\n稲田大学百年史 第二巻』(早稲田大学出版部、\n一九八一年)八八六~九七一頁、増田弘『石橋湛\n山―思想は人間活動の根本・動力なり―』(ミネル\nヴァ書房、二〇一七年)七二~七六頁。\n(\n18\n) 前掲『早稲田大学百年史 第二巻』九一五~\n九一六、九三九~九四〇頁。\n(\n19\n) 『大民』第二巻第一〇号(一九一七年一〇月)六~\n一四、八七~九三頁。このうち「学校騒動問題大演\n説会記事」は、前掲『国士舘百年史 史料編上』\n三六~三八頁所収。なお、各人の肩書きについて\nは、「青年大民団名簿」前掲『国士舘百年史 史料\n編上』二九~三一頁、前掲中野『政治家中野正剛 \n上巻』二一六、二三五頁、前掲中野『アジア主義者 \n中野正剛』二三〇~二三一頁、佐々木久夫『佐久\n間惣治郎伝』( アートデイズ、二〇一一年)\n五七、六四頁参照。\n(\n20\n) 前掲佐々木『佐久間惣治郎伝』三八~四二、五二~\n五八頁。\n(\n21\n) 宮島貞亮「阿部先生を憶ふ」(『阿部先生の追憶』慶\n應義塾弁論部、一九三四年)一七頁。\n(\n22\n) 「国士舘報(講義近況)」(一九一八年一月一日)、「国\n士舘報(講義近況)」(一九一八年五月一日)、「授\n業科目(高等部)」(一九二四年七月)、「国士村便\nり(学科配当等)」(一九二一年四月一日)、前掲\n『国士舘百年史 史料編上』九八、一〇二、\n一八二、一九一頁。\n(\n23\n) 中野正剛「早稲田よりは日本の改革」(前掲『大民』\n第二巻第一〇号)九〇~九二頁。\n(\n24\n) H・リーツとドイツ田園教育舎運動については、川\n瀬邦臣「H・リーツの教育改革の思想」(H・リー\nツ著・川瀬邦臣訳著『世界新教育運動選書一四 田\n園教育舎の理想―ドイツ国民教育改革の指針―』\n明治図書出版、一九八五年)参照。同書は、リー\nツ『ドイツ国民学校』(一九一一年)を所収。\n97\n中野正剛の教育実践と運動\n(\n25\n) 「大正新教育」と国士舘の教育理念との関係につい\nては、平崎真右「国士舘の設立とその時代―私塾、\n大正、活学の系譜―」(『国士舘史研究年報 楓厡』\n第九号、学校法人国士舘、二〇一八年三月)参照。\n(\n26\n) 「国士舘設立趣旨」(一九一七年一一月)、「国士舘\n設立趣旨(含学科課程)」(一九一八年四月)、「国\n士舘開校式」(一九一七年一一月四日)、前掲『国\n士舘百年史 史料編上』八五~八九頁。\n(\n27\n) 前掲「青年大民団清規」(一九一八年四月一日)、前\n掲『国士舘百年史 史料編上』四〇頁。\n(\n28\n) 前掲「国士舘設立趣旨」(一九一七年一一月)、前\n掲『国士舘百年史 史料編上』八五頁。\n(\n29\n) 「是れ活学の大道場(「国士舘新築記念号」)」\n(一九一九年一〇月二〇日)、前掲『国士舘百年史 \n史料編上』九六頁。\n(\n30\n) 前掲神谷「『維新の精神』とアジアへの視線」一七〇\n~一七一頁。神谷は、中野正剛「大国大国民大人\n物」(『日本及日本人』第六一八号、一九一三年一一\n月一五日)をもとに論述している。\n(\n31\n) 前掲神谷「第一次世界大戦後の世界秩序と日本の\n『改造』」、中野正剛「改造同盟論」(『東方時論』第\n四巻第九号、一九一九年九月)八頁。\n(\n32\n) 前掲木坂「中野正剛論(一)」一七七頁。\n(\n33\n) 前掲中野「改造同盟論」一二~一三頁。\n( 34 ) 「中野正剛略年譜」(前掲猪俣『中野正剛の生涯』)\n七六四頁。\n(\n35\n) 前掲『国士舘百年史 史料編上』九七~一〇五頁\n所収の「国士舘報(講義近況)」、「国士舘講座(講\n義近況)」による。\n(\n36\n) 中野正剛「世界政策」(『大民』第二巻第一二号、\n一九一七年一二月)二七~三一頁。\n(\n37\n) 中野正剛「国士館廿五周年記念式 死地を踏んで\n善士(二)」(新聞『大民』第一一八五号、一九四二\n年一二月二四日)一頁。\n(\n38\n) 「国士舘巡回夏期講演会予告」(一九一八年八月一\n日)、前掲『国士舘百年史 史料編上』一〇六頁\n(\n39\n) 「柴田德次郎評『国士養成に専心する』」(一九二八\n98\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n年一二月一五日)、前掲『国士舘百年史 史料編上』\n八一頁。\n(\n40\n) 「国策研究会趣意」(『大民』第三巻第八号、一九一八\n年八月)六七頁。\n(\n41\n) 「国策研究会記事(付志士に激\n(ママ)\nす)〔抄〕」(一九一八\n年九月二二日)、前掲『国士舘百年史 史料編上』\n八六八頁。\n(\n42\n) 断腸生「国策研究会記事」(『大民』第三巻第一一\n号、一九一八年一一月)七三~七四頁。\n(\n43\n) 「国士舘報(講義近況)」(一九一九年九月一日)、前\n掲『国士舘百年史 史料編上』一〇五~一〇六頁。\n(\n44\n) 「国士村便り 創業復創業!〔抄〕」(一九二一年七\n月一日)、前掲『国士舘百年史 史料編上』二〇三\n~二〇四頁。\n(\n45\n) 「授業科目(高等部)」(一九二四年七月)、前掲『国\n士舘百年史 史料編上』一八二~一八三頁。\n(\n46\n) 一記者「国士舘夏季講習会記事」、「第一回夏季講\n習会々員」(『大民』第八巻第九号、一九二二年九\n月)八六~九四頁。「国士舘夏季講習会記事」の抄\n録は、前掲『国士舘百年史 史料編上』二二〇~\n二二四頁所収。\n(\n47\n) 望月雅士「風見章の原点」(『早稲田大学史記要』第\n四四号、二〇一三年二月)二〇四~二〇七頁。\n(\n48\n) 「第三回国士舘夏季大講習会(講師及び科目)」\n(一九二四年七月一日)、「渋沢栄一宛国士舘書簡\n(夏季講座及び校舎落成報告)」(一九二五年八月\n一九日)、「第二回国士舘夏季文武大講習会(「大\n民」)」(一九三一年七月)、「第四回国士舘夏季文武\n講習会(「国士」)」(一九三五年七月)、前掲『国士\n舘百年史 史料編上』二三一、三七一~\n三七二、七一一~七一四頁、および「証(第五回文\n武講習会修了)」(国士舘総長水野錬太郎・国士舘\n専門学校長副島義一より柔道部星野貫一、\n一九三六年七月三一日)記載の講師一覧を参照。\n(\n49\n) 中野正剛『沈滞日本の更生』(千倉書房、一九三一\n年)八五~一一八頁。\n(\n50\n) 同前、一〇七~一〇八頁、中野正剛「洋々たる日\n99\n中野正剛の教育実践と運動\n本の前途」(『大民』第一七巻第七号、一九三一年\n七月)二~三頁。\n(\n51\n) 前掲中野「改造同盟論」一一頁。\n(\n52\n) 前掲室『東條討つべし 中野正剛評伝』二五~三四\n頁。\n(\n53\n) 「国士舘組織」(一九二六年)前掲『国士舘百年史 \n史料編上』二三八頁、柴田德次郎述・国士館編集\n部編『国士館と教育』(第六版、財団法人国士館、\n一九三〇年)七〇~七一頁。\n(\n54\n) 前掲『国士舘百年史 史料編上』八七三、八九五頁\nの注記を参照。\n(\n55\n) 「大民倶楽部都城支部発会式( 付規約)〔抄〕」\n(一九二三年八月八日)、「大民倶楽部熊本支部発会\n式〔抄〕」(一九二六年七月三一日)、前掲『国士舘\n百年史 史料編上』九〇四~九〇五、九一七~\n九一八頁。\n(\n56\n) 「大民倶楽部設立趣旨(付大民倶楽部規約・役員)」\n(一九二二年九月一六日)、「大民倶楽部規約(付役\n員一覧「大民要覧」)」(一九三二年四月)前掲『国\n士舘百年史 史料編上』八八二~八八三、九三七~\n九四〇頁、「満洲大学設立ニ関スル大民倶楽部願\n書」(一九三一年一二月)添付の「大民倶楽部規約」\n(『本邦学校関係雑件 第一巻』Ⅰ‐1‐5‐0‐3、\n外交史料館所蔵)。\n( 57 ) 「大民倶楽部事務分掌規程」(一九二三年五月一\n日)、前掲『国士舘百年史 史料編上』八九五頁。\n(\n58\n) 「大民倶楽部記事 本部便り(倶楽部理事会等)\n〔抄〕」(一九二三年六月一日)、前掲『国士舘百年\n史 史料編上』八九六~八九八頁。\n(\n59\n) 『大民』第一〇巻第六号・七号(一九二三年六月・\n七月)三七~三八・三一頁所収の「附録 大民倶楽\n部事務分掌規程」。\n(\n60\n) 「満洲大学設立ニ関スル大民倶楽部願書」\n(一九三一年一二月)、前掲『国士舘百年史 史料\n編上』六三五~六三七頁。\n(\n61\n) 前掲室『東條討つべし 中野正剛評伝』二五~三二\n頁。\n100\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n(\n62\n) 「徳富蘇峰宛上塚秀勝書簡(「熊本大民」改題仲介\n願)」(一九四一年一月二四日)、前掲『国士舘百年\n史 史料編上』九四九頁。\n(\n63\n) 拙稿「小坂順造と国士舘―両者を結び付けたもの\n―」(『国士館史研究年報 楓厡』第一〇号、学校\n法人国士舘、二〇一九年)五七頁。\n(\n64\n) 「日独防共強化国民運動提起経過」(一九三七年\n一二月一八日、徳富蘇峰宛柴田德次郎書簡、徳富\n蘇峰記念館所蔵)。\n(\n65\n) 一九二四年一一月以前には、蘇峰と柴田の関係性\nが構築されていたようである。「徳富蘇峰宛柴田德\n次郎書簡(「国民新聞」記事訂正願)」(一九二四年\n一一月一八日)、前掲『国士舘百年史 史料編上』\n二五五~二五六頁。\n(\n66\n) 「国士舘憲則」(一九三七年一月)、前掲『国士舘百\n年史 史料編上』七四四~七四五頁。\n(\n67\n) 徳富猪一郎『戦時概言』(民友社、一九三七年)二五\n~四一、六〇~六二、六八~七二、八〇~八五頁。\n(\n68\n) 前掲「日独防共強化国民運動提起経過」。肩書きは、\n菊池知之編著『新聞人坂口二郎 昭和編』(草文書\n林、一九九五年)三四二頁、秦郁彦編『日本近現\n代人物履歴事典』(東京大学出版会、二〇〇二年)、\n秦郁彦編『日本陸海軍総合事典[第二版]』(東京\n大学出版会、二〇〇五年)、森岡浩編『日本名門・\n名家大辞典』(東京堂出版、二〇一二年)などを参\n照。以下、肩書きについてはこれらを参照。\n(\n69\n) 前掲「日独防共強化国民運動提起経過」。\n(\n70\n) 表1で使用した各資料より、当初の名称は「日独\n(伊)防共協定強化同志」であったようだが、\n一九三九年一月一九日以降は「日独伊防共協定強\n化同志会」であり、「会」が付いている。\n(\n71\n) 「本紙と防共協定強化同志会」(新聞『大民』第一〇\n号、一九三九年二月一日)一頁。\n(\n72\n) 坂口二郎日記(以下、「坂口日記」)一九三七年一〇\n月一九日条、前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭和編』\n二一九頁。\n(\n73\n) 「ニュース縮刷版 防共強化同志集ふ」(『東京朝日\n101\n中野正剛の教育実践と運動\n新聞』一九三八年二月二三日付朝刊)一一頁。\n(\n74\n) 「日独防共協定強化宣言 民間有志会合」(『東京朝\n日新聞』一九三七年九月四日付朝刊)三頁、「日独\n防共協定強化運動 全国に大反響」(新聞『大民』\n第二号、一九三八年五月一日)四頁。\n(\n75\n) 前掲徳富『戦時概言』一〇~一三、二五~四一、六〇\n~六二、六八~七二、八〇~八八、九八~一〇〇頁。\n(\n76\n) 前掲永井「東方会の成立」一二八頁。\n(\n77\n) 「日、独、伊三ヶ国の防共協定祝賀会」(新聞『大\n民』第八号、一九三八年一二月一日)一頁。\n(\n78\n) 前掲「ニュース縮刷版 防共強化同志集ふ」。\n(\n79\n) 「(広告)日独防共協定強化大講演会」(『東京朝日\n新聞』一九三七年一一月一日付朝刊)一一頁。同\n広告に掲載されているプログラムは以下の通り。\n「司会者挨拶」(柴田德次郎)、「宣言朗読」(安保清\n種)、「世界外交の一転機」(徳富猪一郎)、「防共協\n定に醒めよ」(田中都吉)、「日独防共協定と時局」\n(安達謙蔵)、「日独防共協定に就て」(島田俊雄)、\n「日独防共協定一周年に際して」(小川郷太郎)、「日\n独伊の提携を強化せよ」(中野正剛)、「万歳発声」\n(頭山満)。なお、徳富蘇峰記念館のHPにて同講\n演会の写真が公開されている。\n http://www.soho-tokutomi.or.jp/photo70.html\n(\n80\n) 柴田德次郎「天地を裁断する見識の刃を執れ」(新\n聞『大民』第二号、一九三八年五月一日)二頁。\n(\n81\n) 徳富猪一郎「世界外交の一転機」(前掲新聞『大民』\n第二号)二~三頁。日独伊三国防共協定締結に至\nる経緯については、石田憲『日独伊三国同盟の起\n源』(講談社、二〇一三年)八四~九四頁。\n(\n82\n) 前掲徳富「世界外交の一転機」三頁。\n(\n83\n) 前掲「(広告)日独防共協定強化大講演会」。\n(\n84\n) 中野のイタリア・ドイツへの訪問については、前\n掲中野『政治家中野正剛 下巻』二七一~三三〇\n頁参照。\n(\n85\n) 柴田德次郎「大民創立廿五周年」・「固く結ばれる\n日伊防共協定 イタリア使節歓迎大晩餐会」(新聞\n102\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n『大民』第一号、一九三八年四月一五日)一・三頁。\nバウルッチについては、「防共の友を迎へ国民歓迎\n大会」(『東京朝日新聞』一九三八年三月四日付朝\n刊)二頁。\n(\n86\n) 『日本新聞年鑑 第一八巻』(日本図書センター、\n一九八六年、底本は『日本新聞年鑑 昭和一五年\n版』新聞研究所、一九三九年)一五頁。\n(\n87\n) 「『大民』の三信條」(新聞『大民』第一〇号、一九三九\n年二月一日)一頁。\n(\n88\n) 「『大民』本社の移転」(前掲新聞『大民』第一〇号)\n一頁。\n(\n89\n) 前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭和編』二二五頁。\n(\n90\n) 「坂口二郎略年譜」(前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭\n和編』)参照。\n(\n91\n) 前掲「日独防共強化国民運動提起経過」。\n(\n92\n) 「坂口日記」一九三七年一〇月二〇日条、一一月\n二五日条(前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭和編』)\n二一九、二二一頁。\n(\n93\n) 「坂口日記」一九三〇年二月一〇日条には、民友社\nにて蘇峰と「いろ〳〵新聞及び新聞記者のことに\n就いて話す」と記されており、以後、両者の関係\nは親密になったという。前掲菊池『新聞人坂口二\n郎 昭和編』四八頁。\n(\n94\n) 「坂口日記」一九三七年一一月二七日条。坂口は、\n政治評論家の岩淵辰雄に対して新聞創刊の野心を\n告げたが、他人に口外したのはこれが初めてであ\nったと記している。前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭\n和編』二二一頁。\n(\n95\n) 坂口二郎「既成政党更生論―新々政友会論―」、前\n掲菊池『新聞人坂口二郎 昭和編』一九八~二一〇\n頁。初出は、『時局』一九三七年七月号。\n(\n96\n) 前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭和編』三四二頁。\n(\n97\n) 「坂口日記」一九三九年四月二〇日条、五月五日条、\n五月三〇日条、前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭和\n編』二四九~二五一頁。\n(\n98\n) 「副島・柴田裁判判決(理事職務執行停止仮処分の\n取消)」(一九四〇年四月一二日)、前掲『国士舘百\n103\n中野正剛の教育実践と運動\n年史 史料編上』七五五~七五八頁。\n(\n99\n) 前掲『日本新聞年鑑 第一八巻』一五頁、「『大民』\n同人」(前掲新聞『大民』第一〇号)一頁。\n(\n100\n) 前掲菊池『新聞人坂口二郎 昭和編』二五一、 \n二六七頁。\n(\n101\n) 「社告」(新聞『大民』第一二号、一九三九年二月\n一三日)四頁など。\n(\n102\n) 「坂口日記」一九三九年二月二〇日条、八月一八日\n条、一九四一年一月三一日条、前掲菊池『新聞人\n坂口二郎 昭和編』二四六、二五四、二七八頁。\n(\n103\n) 小林昌樹編『雑誌新聞発行部数事典』(金沢文圃閣、\n二〇一一年)一五九頁。\n(\n104\n) 「坂口日記」一九四四年三月八日条、四月一四日条、\n六月二四日条、七月七日条、七月二五日条、八月\n二九日条、一二月一日条、一二月七日条、一二月\n八日条、一二月二七日条、前掲菊池『新聞人坂口\n二郎 昭和編』三二〇~ 三二一、三二三~\n三二五、三二九、三三一頁。\n(\n105\n) 「坂口日記」一九四四年一二月二七日条、前掲菊池\n『新聞人坂口二郎 昭和編』三三一頁。\n(\n106\n) 「坂口日記」一九四四年二月六日条、前掲菊池『新\n聞人坂口二郎 昭和編』三一八頁。\n(\n107\n) 前掲永井「東方会の展開」一二四~一二九頁。\n( 108 ) 同前、一二二、一二四頁。\n(\n109\n) 『出版警察報』第一一八号(内務省警保局図書課)\n四六頁。外務省令については、中園裕『新聞検閲\n制度運用論』(清文堂出版、二〇〇六年)二六八頁\n参照。\n(\n110\n) 前掲猪俣『中野正剛の生涯』四二三頁。当面の目\n標は、「一、英ソ勢力の排撃 二、交戦権行使・租\n界撤廃 三、日独伊同盟の活用 四、東亜諸民族\nの自主的結盟 五、新政治体制の確立」。\n(\n111\n) 『出版警察報』第一四〇号(情報局第四部第一課・\n内務省警保局検閲課)一〇一、一八二~一八三頁。\n(\n112\n) 同前、一三四~一三五頁。\n(\n113\n) 同前、一〇一頁。\n104\n国士舘史研究年報2019 楓厡\n(\n114\n) 同前、一八二~一八三頁。 \n(\n115\n) 同前、二二三頁。\n(\n116\n) 同前、一八三頁。\n(\n117\n) 中野正剛『ルーズヴェルト、チャーチルに答へ日\n本国民に告ぐ』(東方会宣伝部、一九四一年一〇月)\n三八頁など。\n(\n118\n) 前掲中園『新聞検閲制度運用論』二九六~二九八\n頁。\n(\n119\n) 前掲一九四二年一〇月二二日付徳富蘇峰宛柴田德\n次郎書簡。\n(\n120\n) 前掲猪俣『中野正剛の生涯』四九七~五一五頁。\n(\n121\n) 中野正剛「国士館廿五周年記念式 死地を踏んで\n善士(四)・(五)」(新聞『大民』第一一八七・一一八八\n号、一九四二年一二月二七日・一二月二九日)各\n一頁。\n(\n122\n) 中野正剛「天下一人を以て興る」(『東大陸』第二一\n巻第一号、一九四三年一月)二九、三八頁。\n(\n123\n) 中野正剛「国士館廿五周年記念式 死地を踏んで\n善士(七)」(新聞『大民』第一一九二号、一九四三\n年一月五日)一頁。\n(\n124\n) 神谷正男『産語―人間の生き方 新版』(明徳出版、\n一九九七年)五四~五五頁。\n(\n125\n) 同前、一二~一三頁。\n(\n126\n) 前掲「死地を踏んで善士(二)」一頁。\n(\n127\n) 前掲猪俣『中野正剛の生涯』五七九~五八七頁、『戦\n前における右翼団体の状況 下巻(その一)』(公\n安調査庁、一九六五年)一一八~一一九頁。\n(\n128\n) 中野正剛『太閤秀吉』(東方同志会出版局、一九四三\n年)三頁。\n(\n129\n) 佐藤守男『中野正剛 附名演説選集』(霞ヶ関書房、\n一九五一年)四〇四頁。\n(\n130\n) 「振東塾則」(『東大陸』第一九巻第一一号、一九四一\n年一一月)七二~七三頁。\n(\n131\n) 前掲中野『太閤秀吉』七~八頁。\n105\n中野正剛の教育実践と運動\n(\n132\n) 前掲『戦前における右翼団体の状況 下巻(その\n一)』一三六~一三七頁。\n(\n133\n) 永井和「一九三九年の排英運動」(『年報・近代日\n本研究五 昭和期の社会運動』山川出版社、\n一九八三年)二一〇~二一一頁。\n(\n134\n) 漆畑真紀子「解題」(前掲『国士舘百年史 史料編\n上』)九八八~九八九頁。\n(\n135\n) 『ブックレット 国士舘100年のあゆみ』(学校\n法人国士舘、二〇一七年)四九~五〇頁。"}]}, "item_10004_version_type_20": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "菊池, 義輝"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "23689", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", "dateValue": "2021-05-15"}], "displaytype": "detail", "download_preview_message": "", "file_order": 0, "filename": "1884_9334_011_05.pdf", "filesize": 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本文 (2.0 MB)
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Item type | 一般雑誌記事 / Article(1) | |||||
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公開日 | 2021-05-15 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 中野正剛の教育実践と運動 : 青年大民団・国士舘との関連 | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | article | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文と資料紹介 | |||||
小見出し | 研究ノート | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
菊池, 義輝
× 菊池, 義輝 |
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書誌情報 |
楓厡 : 国士舘史研究年報 巻 11, p. 63-105, 発行日 2020-03-17 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1884-9334 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12479001 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 289.1 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 377.28 | |||||
NDC | ||||||
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主題 | 377.2136 | |||||
所蔵情報 | ||||||
識別子タイプ | URI | |||||
関連識別子 | https://www.kokushikan.ac.jp/research/archive/publication/annual/file/vol11.pdf | |||||
関連名称 | 楓厡:国士舘史研究年報 第11号 (2019) | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
中野正剛 青年大民団 国士舘 |