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のっけから不吉な物言いとなってしまったが、本稿がここで扱おうとしているのは、まさにそういう話なのである。『諸国百物語』中の一篇「豊後の国何がしの女房、死骸を漆にて塗りたる事」では、若くして亡くなった女房が、夫の存在を通じてなおこの世に在り続けようとし、それが遂に果たせなかったという出来事が語られている。本論は、この女房の心の在りようを追いながら、彼女の願望がなぜ叶わなかったのかという理由について考察してゆきたい。失敗の原因を知ることは、成功への道を辿るために必要な過程である。彼女と同様に、人生の総体に関わるような切なる願望を抱く人がいるとすれば、前車の轍を踏まぬために彼女から学ぶところは大であろう。すなわち、本稿は、この女房の特殊な事例を俯瞰し、これを倫理思想として考える観点から、失敗の構造自体を明らかにすることを目的とするものである。\n ところで、本論に入る前に、まずはこのテキストの思想史的な位置づけについて少し触れておきたい。出版物が著しく普及したわが国の近世において、早くから確立したジャンルの一つにいわゆる「諸国話」ものがある。これは、各地で起こった奇怪な事件に取材し、それらをまとめた短編集の総称で、文学史上よく知られたものとしては、『宿直草』や井原西鶴の『西鶴諸国ばなし』などがあげられる。\n 「諸国話」は、形式の上では『日本霊異記』を嚆矢とするわが国の説話集の系列に位置づけられようが、そのモチーフが従前とははっきり異なっている点にこそ、思想史的な意義を認めるべきであろう。『日本霊異記』の書名が正しくは『日本国現報善悪霊異記』であるように、古くから編まれてきた説話集の多〈は、〈因果の道理〉を説明するための「仏教説話」\nであった。これらは、民衆を教化する目的で、仏教思想の側から口承文学として流布されてきたのである。\n ところが、戦国時代および安土桃山時代における社会と価値観の大転換を経た後、近世の人々は、もはや中世的な世界観の中に安住することはできなくなってしまった。自己の運命を切り開くために自らの実力だけを頼みとする下剋上の風潮は、あらゆる現象の説明に〈因果の道理〉を用いていたかつてのありようを否定したからである。もちろん、〈因果の道理〉\nがただちに効力を失ったわけではなく、曹洞宗の僧である鈴木正三 (1579~1655) が〈因果の道理〉を主軸として仏法と世俗倫理との融合をめざしたように、依然として〈因果の道理〉が民衆における道徳観の一翼を担い続けたことも確かである。\n しかしながら、近世の人々は、自己の生を〈宿世〉として仏のはからいに全て委ねるのではなく、そこに自助努力の余地があることを当然として受け止めていた。これは思想史の上では画期的な変化であったといえる。中世的世界観においては、逃れることのできない〈宿世〉をなぞることこそが生の営みであった。たまさかに自らの〈宿世を見る〉ことがあったとしても、すでに定まった〈宿世〉自体を動かすことはできない。人は、仏にすがり善業を積み、よりよい後世を願いながらも、自らの〈宿世〉をなぞり続けるほかはなかったのである。\n しかし、近世において戦乱の無い日常というものが現出するに及び、人々は世俗倫理への関心を強め、たとえば朱子学の受容に見られるように、彼岸ではなくこの人倫世界に生の意味を求めてゆく。これは、彼らが〈因果の道理〉にかわる (あるいは、これを補完する) 新たな世界観を獲得しようとしていたことを示している。このような姿勢で近世の人々が自己の生を見つめるとき、それは定められた〈宿世〉ではなく、自己が構築する〈物語〉として感得されるに至ったのである。\n 〈因果の道理〉は全ての人を包含する理ではあるが、それゆえ自らの業に拠る〈宿世〉自体は全く個人のものであり、他者の〈宿世〉は本質的に自己とは関わりのないものであった。一方、〈物語〉は自己の生の総体を説明するものであり、自ずから一貫性を備えていること、ならびにそれが現世における他者の誰かとの間で共有されていることを必須の条件とする。自己と他者とが共有する〈物語〉は、その両者が相成す人倫世界の中に限っていえば、まさに共有されているという事実をもって道理たる資格を有する。〈因果の道理〉のように世界の全てを貫いていなくとも、自己を取りまく特殊な人倫世界の中で確かに成り立つ道理であるならば、自己にとって、その〈物語〉は普遍性という点で〈因果の道理〉に劣るところがない。すなわち、人の生とは、自己の〈物語〉を紡ぎながらもその中に他者の生を繰り込み、他者の〈物語〉をそれと認めつつもその中へ自己の〈物語〉を重ねてゆく相互的な営みなのであり、換言すれば、近世の人々は世俗の人倫世界を舞台に、自他が持ち合う〈物語〉の中を生きていたといえる。\n 「諸国話」は、こうした人々の新しい要求に応えうるような〈物語〉を孕んだ話の数々を提供したのである。そこには、〈因果の道理〉とは異なり、自らの思い做しによって生きる人物像があった。書物を読むことが可能な文化圏にいる読者にとって、まだ見ぬ異郷あるいは辺境地域の不思議な出来事は彼らの知的好奇心を煽り、その中で語られる〈物語〉を、読者は自らの〈物語〉と重ねつつ辿ることができたのである。ここにおいて、近世の人々は、受動的に僧より「因果を畏るべし」という教説を与えられる「聴衆」から、〈物語〉を自分に重ねあわせ自己をとりまく人倫世界を知的に拡充してゆく積極的な「読者」へと変貌したのであった。「諸国話」を読むということは、〈宿世〉の内にとどまりきらない自他の生のありようを是認することなのである。\n 本稿では、上で述べた「諸国話」の特徴をよく窺い知ることのできる『諸国百物語』のうち、「豊後の国何がしの女房、死骸を漆にて塗りたる事」という話を取りあげ、〈物語〉が構築されてのち壊れてゆく過程を内在的に辿りつつ、その〈物語〉を一個の倫理思想としてとらえる視点から考察を加えてゆくことにしたい。\n\n\n"}]}, 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幸せな人生はいかにしてつくられるのか : 夫婦という倫理思想の〈物語〉をめぐって
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (4.9 MB)
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|
Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2021-12-25 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 幸せな人生はいかにしてつくられるのか : 夫婦という倫理思想の〈物語〉をめぐって | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | A Creation of a STORY of what sort of happy life we should lead : Clarifying an Ethical Thought of Connubiality | |||||
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言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
著者 |
吉原, 裕一
× 吉原, 裕一× Yoshihara, Yuichi |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 201201075524413160 | |||||
書誌情報 |
国士舘哲学 en : Kokusikan tetsugaku 巻 25, p. 3-31, 発行日 2021-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学哲学会 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | ISSN | |||||
収録物識別子 | 1343-2389 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA11475264 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 150.21 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 152 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
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キーワード | ||||||
物語 倫理 諸国百物語 |