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明代の中葉、古文辞復興の気運が高まり、李夢陽(一四七二〜一五二九)・何景明(一四八三〜一五二一)が中心となった前古文辞派と、王世貞(一五二六〜一五九〇)・李樊竜(一五一四〜一五七〇)が主導した後古文辞派が一世を風靡して文学復興の大きなうねりとなった。殊に後古文辞派は日本の江戸時代の学問と詩壇に大きな影響を与えたが、中国では次代の公安派の性霊説によって批判され、やがて明末清初の銭謙益(一五八二〜一六六四)によって摸擬剽窃と徹底的に批判されることになる。そうした中で、前古文辞派の一人に数えられる徐禎卿(一四七九〜一五一一)は、明代を通じてその詩風が多くの人々に慕われ、銭謙益には『列朝詩集』で「標格清????、摛詞婉約、絶えて中原傖父の槎牙奡兀の習に染まらず、江左の風流、故より自ら在り」と評され、清代では神韻説を唱えた王士禎(一六三四〜一七一一)に「古澹」と高く評価された。徐禎卿は江南の呉、今の蘇州の出身で、李夢陽は陝西省慶陽の出身である。銭謙益は『列朝詩集』でまた、江南時代の徐禎卿は白居易や劉禹錫を好んでいたが、北京で李夢陽や何景明らと交わると、それまでの詩風を改めたと言う。確かに、徐禎卿は呉では「文章煙月」に代表される六朝風の一見華やかな詩を作っていた。そして科挙に及第したのち、武宗の正徳元年(一五〇六)江南・瀟湘の旅で言志の文学への志向を強く持ち、その文学意識を反映させた詩を李夢陽に贈ることになる。徐禎卿の言志志向は、官界に身を置き、李夢陽と交流するようになってからであるが、「中原傖父の槎牙奡兀の習い」に染まらず、江南で培った「標格清????、摛詞婉約」の詩風を保ちえたのは、徐禎卿の詩の本質的な部分で李夢陽とは異なる宿命的なものがあったと考えられる。ところで、二人が初めて会ったのは、弘治一八年(一五〇五二月、二七歳の徐禎卿が進士に及第した年である。死去する三三歳までの六年ほどの交遊であったが、徐禎卿は臨終のさいに、自分の詩文集の序を書いてくれるよう李夢陽に遺言するほど、親しく交遊した。 本稿では徐禎卿が李夢陽と交流するようになった経緯と、二人の交遊の様子を二人の詩を通して探ってみたい。なお定本として『徐迪功集』(『四庫全書』電子版)、『徐禎卿全集編年校注』(范志新編年校注、人民文学出版社)、『空同集』(『四庫全書』電子版等を使用する。\n一、交遊の始まり\n二人が会うことになったのは、「歌吟」を好む李夢陽が、呉郡の徐禎卿が「歌吟」を善くすると聞き、かねてより会いたいと思っていたところ、科挙を受験しに徐禎卿が上京したからであった。だが、交遊の前にちょっとした行き違いがあった。その辺の事情は李夢陽の手紙「徐氏に与えて文を論ずるの書(与徐氏論文書)」(『空同集』巻六一)に記されている。僕は西鄙の人なり。知識する所無く、顧かえって独り歌唫を喜ぶ。第ただ常に歌吟を善くするものに侍するを得ざるを以て憂う。間ひそに呉下の人に問うに、呉下の人皆曰く、吾が郡の徐生なる者、少わかくして歌吟を善くして、異才有りと。蓋し心竊かに郷往す。之を久しくして、足下来たりて進士に挙げらるるを聞き、愈いよ益ます喜び、一朝侍するを得んと計る。(僕西鄙人也。無所知識、顧独喜歌唫。第常以不得侍善歌吟憂。間問呉下人、呉下人皆曰、吾郡徐生者、少而善歌吟、而有異才。蓋心竊郷往。久之、聞足下来挙進士、愈益喜、計得一朝侍也。) 手紙は、李夢陽が西鄙の人で、知識する所がない、と書き出される。後段では、会った時に「鄙薄」と思われないかと心配もしている。徐禎卿の詩を予め読んで感銘を受け、会うことを楽しみにしていた。が、徐禎卿は使者を通じて、皮日休(八三三〜八八三?)と陸亀蒙(?〜八八一)のように詩を唱和したい、と告げた。李夢陽は驚いて息もできず、返す言葉もなく、冗談を言っているのではないのか、と思ったのだった。前さきに陸子淵に過よぎる。子淵足下の文を出だして僕に示す。読むこと未だ竟おわらざるに、巻を撫して歎じて曰く、佳きかな、鏗鏗乎として古の遺声ならんや。方に足下に伏謁するも、会かならず足下僕を以て鄙薄とせざらん。幸い使をして臨教せしめて曰く、竊に自ら下に附きて事を執らんと欲す、即ち日休・亀蒙が輩の如く走るを之れ願うと。僕之を聞きて悚息し敢て一語を出だして応えず、意おもうに足下戯れしかと。(前過陸子淵。子淵出足下文示僕。読未竟、撫巻歎曰、佳哉、鏗鏗乎古之遺声耶。方伏謁足下、会足下不以僕鄙薄。幸使使臨教曰、竊欲自附於下執事、即如日休・亀蒙輩走之願也。僕聞之悚息不敢出一語応、意者足下戯耶。) 陸子淵は陸深(一四七七〜一五四四)である。徐禎卿は故郷の呉にいるとき、文徴明(一四七〇〜一五五九)と東洞庭・西洞庭の詩を唱和し、また文徴明とともに沈周(一四二八〜一五〇九)の「落花詩」に唱和して詩を楽しんでいた。まさに皮日休と陸亀蒙が唱和した風流の伝統を受け継いでいたのである。徐禎卿は「皮日休や陸亀蒙」のように詩を唱和することを望んだが、李夢陽は拒んだ。その理由を述べたのが「除氏に与えて文を論ずるの書」である。その手紙では、まず唱和について次のように言う。唱和とは、例えば『周易』に「鳴鶴陰に在り、其の子之に和す」とあるように、和者が元の「詩」と「心的に同一」であるかどうかにかかっている。「心的に同一」であれば、声が同じであれば応じあい、気が同じであれば求めあい、好みが同じであれば互いに留まり、情が同じであればともに成しとげ、欲が同じであればともに赴くことができる。それは何故かと言うと、「心的に同一」であれば「思い」が「素直に感じられ心に入ってくる」からである、と。周易に言う有り、曰く、鳴鶴陰に在り、其の子之に和すと。故に人同じきを祥とする莫く、異なるを不祥とする莫し。故に声を同じくする者には応じ、気を同じくする者には求め、好みを同じくする者には留まり、情を同じくする者には成り、欲を同じくする者には趨る。何となれば則ち入ることに感ずればなり。(周易有言、曰、鳴鶴在陰、其子和之。故人莫祥於同、莫不祥於異。故同声者応、同気者求、同好者留、同情者成、同欲者趨。何則感於入也。)「鳴鶴」は、よい言葉であるなら遠くにいる人でも感動し、応じて和す、近くにいる者は言わずもがな、ということである。よい言葉とは、民を治めるのによい作用を及ぼす言葉である。手紙ではそれを逐一歴代の唱和の例を挙げて説明する。「卿雲」の歌は昔舜が皐陶・岳牧等と賡和(唱和)したものだが、当時は一回歌い一回和していた。その後、召の康公が成王に従って巻阿のほとりに遊び、王の作歌に和して、康公が賢人を求め良士を用いるように戒める詩「巻阿」を作った。これによって王は「戚戚」と心が動かされた。草木が動くのは風が入り込んで動かすか\nらであり、そうしてさまざまな音が生まれる。人の歌も心に入ってさまざまに唱和される。孔子は歌を聴いてすぐれたものがあると必ずもう一度歌わせて、そのあとで合唱した。歌が良かったので繰り返させ和したのである。李夢陽はこれらの事例を挙げて、君(徐禎卿は)は鳴鶴の訓を忘れ、虞周賡和の義を捨てて之に法らず、孔子反和の旨に背いて自ら皮日休・陸亀蒙等に倣って唱和し、さらに唱和に慣れない者にまで強要する。それは過りだと言う。昔、舜、股肱・卿雲の歌を作り、即ち其の臣皋こう陶よう・岳牧等歌に賡こう和わす。是の時に当たりては一たび歌いて一たび和す。足下以て奚いかん為と為す者ならんや。其の後、召の康公成王に従って巻阿の上ほとりに遊び、王が歌を作るに因りて、歌を作り以て王に奉ず、即ち王戚戚として入いるなり。足下亦た諸これを風に観んか。瀏瀏焉として、其れ草を被むること木の若し。渢渢溶溶乎として、草木の風に入るなり。故に其の声輷ごう礲ろう轟ごう砰ほうとして、徐じょしつ疾形あらわれ、小大生ず。且つ孔子は何人なるや。人と歌いて善ければ、必ず反りて後和す。何となれば則ち未だ耳に入らざればなり。今足下鶴鳴の訓を忘れ、虞周賡和の義を舎すてて之に式のっとらず、孔子反和の旨に違いて、自ら皮陸の数子に附きて、又其の入らざる所を強う。僕窃かに謂えらく、足下過れり。(昔者、舜作股肱、卿雲之歌、即其臣皋陶岳牧等賡和歌。当是時一歌一和。足下以為奚為者耶。其後、召康公従成王遊巻阿之上、因王作歌、作歌以奉王、即王戚戚入也。足下亦観諸風乎。瀏瀏焉、其被草若木也。渢渢溶溶乎、草木之入風也。故其声輷礲轟砰、徐疾形焉、小大生焉。且孔子何人也。与人歌善矣、必反而後和。何則未入耳。今足下忘鶴鳴之訓、舎虞周賡和之義弗之式、違孔子反和之旨、而自附於皮陸数子、又強其所弗入。僕窃謂、足下過矣。) 列挙される事例は、政治的な、あるいは道徳的な事項である。唱和は、遊びで連作するようなものではない、というのである。手紙はこの後李夢陽の文学観が述べられる。\n二、李夢陽の「文学観」\n李夢陽は、詩の根本原理と詩の効用を簡潔に定義する。詩は志を宣のべ、詩は人の道が調和を得るように働くものだと。夫れ詩は志を宣べて道和する者なり。(夫詩宣志而道和者也。)「志」とはすでに見た唱和の事例から、政治や社会を善くしようという意志である。詩に詠われることによって和が得られるのは、唱和の効用である。では、詩そのものは、どうあるべきか。李夢陽は、詩が詩であるために大切なことを「貴」、忌むべきことを「不貴」として次のように言う。故に宛を貴びて嶮を貴ばず、質を貴びて靡を貴ばず、情を貴びて繁を貴ばす、融洽を貴びて工巧を貴ばす。故に曰く、其の楽を聞きて其の徳を知る。故に音おんなる者は、愚智の大防、荘詖簡侈は、浮孚の界分なりと。(故貴宛不貴嶮、貴質不貴靡、貴情不貴繁、貴融洽不貴工巧。故曰、聞其楽而知其徳。故音也者、愚智之大防、莊詖簡侈、浮孚之界分也。)「貴」と「不貴」とをそれぞれ対応させると次のようになる。宛柔らかでゆったり嶮ゴツゴツとけわしいしている質質素で飾らない靡華麗に飾り立てる情情がある繁説明的で繁雑である融洽調和がとれて工巧技を誇り調和がとれやわらいでいるていない詩はもともと「楽器」の伴奏に合わせて歌われた。その楽も勿論「宛・質・情・融洽」に適うものでなければならない。詩も楽も「貴」の条件に適えば「その徳を知る」ことができる。『礼記』「楽記」以来の伝統的な考え方である。李夢陽はさらに一歩を進めて、「音」は愚と智とを明確に分かつものであり、荘(つつしんでうやうやしい)と詖(心がねじけておもねる)、簡(簡素)と侈(奢侈)は、浮(浮薄)と孚(真実)の界分(境界)だと言う。音おんによって、つまり楽器の音や詩の音によって、「智」を働かせ「荘・簡」の真実を実現させなければならない、と。やはり、詩は政治や社会のためにあり、遊びのためにあるのではないのだ。ついで李夢陽は詩を遊びの具とした詩人たちを次のように批判する。元(稹)白(居易)、韓(愈)孟(郊)、皮(日休)陸(亀蒙)の徒に至りては、詩を為りて始めて聯を連ねて闘押し、累累として数千百言なるも相下らず、此れ何ぞ市に入りて金を攫つかみ、場に登りて戯を角きそうに異ならんや。彼の冠冕珮玉を覩みるに、腕を縮め竿を投ぜずして走る者有らんか。何となれば、其の君子に非ざるを恥ずればなり。(至元白韓孟皮陸之徒、為詩始連聯闘押、累累数千百言不相下、此何異於入市攫金、登場角戯也。彼覩冠冕珮玉、有不縮腕投竿而走者乎。何也、恥其非君子也。)詩の唱和については厳羽の『滄浪詩話』にも言及されている。厳羽は、和韻は最も人の詩に害があり、古人は酬唱はしても次韻はしなかった。和韻・次韻の風は元稹・白居居、皮日休・陸亀蒙から盛んになり、宋代では技巧を闘わせ、何度も往復して和する者が出た、と言う。\n李夢陽はさらに時代を遡って、先に述べた詩における「貴」「不貴」について触れ、詩を「争う者は士の屑」だと言う。三代より下りて、漢魏最も古に近し。郷さきに繁・巧・嶮・靡の習いをして、誠に情・質・宛・洽を貴びて、莊詖・簡侈・浮孚、意義殊に大高下無からしむるは、漢魏の諸子の先じて之を為さざるならんや。故に曰く争う者は士の屑なり。然れども予独り夫の昌黎の数子を従えるを怪しむなり。代而下、漢魏最近古。郷使繁巧嶮靡之習、誠貴於情質宛洽、而莊詖簡侈浮孚、意義殊無大高下、漢魏諸子不先為之邪故曰争者士之屑也。然予独怪夫昌黎之従数子也。)李夢陽の批評は実に手厳しい。「争」からの流れで、李夢陽は兵法書に喩えをとって、詩の社会貢献の具体的な作用に言及する。請う足下と論戦せん。世の善戦と称するは、孫武・司馬・穰苴が輩に非ざらんか。然れども特に世俗の論のみ。何となれば則ち、此れ変詐の兵なればなり。荀子の所謂乱昏????の国に施し、而る後に可なる者なり。僕常に謂おもえらく、兵は六韜より善きは莫し。仁以て之を漸みちびき、義以て之を断ち、礼以て之を治め、信以て之を駆り、勇以て之を合し、知以て之を行い、蓄うるは之これ神幽、而して動くは之これ霆撃。故に尚父之を得て武王を佐たすけ、天下に王たり。夫れ詩は固より是くの若きのみ。(請与足下論戦。世称善戦、非孫武司馬穰苴輩乎。然特世俗論爾。何則、此変詐之兵也。荀子所謂施于乱昏????之国、而後可者也。僕常謂兵莫善於六韜。仁以漸之、義以断之、礼以治之、信以駆之、勇以合之、知以行之、蓄之神幽、而動之霆撃。故尚父得之佐武王、王天下。夫詩固若是已。)詩は天子を輔佐するためにある。より良い社会を実現するためには、仁義礼知信勇が必要である。詩はそれらを詠うためにある。それには神幽を蓄え稲妻のようにすばやく動かねばならぬ、と言う。呉(蘇州)に生まれ育ち、沈周や文徴明などの文人の間で才能を発揮した徐禎卿には、詩によって社会を良くしようという意識はなかった。中国の長い文学史のなかで、政治性のない文学は稀であり、李夢陽の詩観はむしろ普通のことであった。詩で政治社会を風刺したり、困窮する庶民の悲哀を代弁したりすることが、中国の伝統的な考え方だった。弘治十八年(一五〇五)というこの年に、李夢陽が詩の社会貢献を念入りに説くのには理由があった。李夢陽は陝西省慶陽の人で、先の手紙の冒頭に「僕は西鄙の人なり。知識する所無し」と言うように、西陲の一寒村の出身で、庶民的な生活の中で育った。父は読書人ではあったが最下級に属していたため、李夢陽は、読書人の世家などという束縛もなく、素朴に、愚直に、時には粗暴に育った。弘治六年(一四九三)に陝西郷試の解元となり、翌年進士に及第し、戸部主事となった。科挙の受験勉強で詩の伝統を学んだことも容易に想像できよう。そして持ち前の庶民の素朴さから、素朴で自然な詩への憧れが、やがて復古の主張へと結実してゆく。詩論において「質」や「情」を貴び「靡」「繁」を忌避するのはまさしく素朴・簡素化のあらわれである。「呉歌」を好んだというのも、庶民の素朴を愛するがためである。「真詩は乃ち民間に在り(今真詩乃在民間)」(『空同集』巻五一「詩集自序」)という主張もこれに所以する。李夢陽は、進士に及第して官僚になると、もともとの庶民的な愚直・粗暴さも相まって、不正を許さない豪胆さを発揮するようになる。弘治十八年(一五〇五)、あたかも徐禎卿が進士に及第した年であるが、戸部主事の李夢陽は、張皇后の兄の寿寧張鶴齢の不法を糾弾し、三月、錦衣衛の獄に下されたが、孝宗の庇護によって四月十六日出獄した。のち道で張鶴齢と出会ったとき、怒って馬の鞭で張鶴齢の歯を二本折ったという逸話も残っている。この年、孝宗は政治を刷新すべく良策を朝野から募った。李夢陽は仕途以来政治の混沌を目の当たりにしていたことから「孝宗皇帝に上る疏稿(上孝宗皇帝疏稿)」(『空同集』巻三八)を撰し奉った。そこには、現今の政界には「二病・三害・八漸」がある、「二病」は「元気の病」と「腹心の病」である、前者は大臣を指し、後者は宦官を指す。病を療治するのは困難であるが、療治しなければ命がない、と言う。だが、孝宗はその五月に崩御する。跡を継いだのは十五歳の武宗で、劉瑾ら宦官八人が輔佐をし、八虎の専制時代が始まる。\n三、徐禎卿の「文学観」\n李夢陽は唱和して詩を「争う者は士の屑」とまで言っていた。二人が会った時、唱和について当然話題になった。が、徐禎卿は十分に説明できなかったようで、後に「李献吉に与えて文を論ずるの書(与李献吉論文書)」を寄せて次のように言っている。足下より書を奉ぜられて幸こう甚し。尋ついで已に口復せるも、卒卒として猶お愚臆を既つくさず。(足下奉書幸甚。尋已口復、卒卒猶不既愚臆也。)そこで改めて手紙を書いて自分も音楽が好きで古を信じている、と言う。僕少わかきより声詩(=音楽)を喜び、????ほぼ六芸の学に通ず。時人近世の辞を観るに、悉く是に詭そむく。唯だ漢氏のみ遠く古を逾えず、遺風流韻、猶お未だ艾つきず、而して郊廟閭巷の歌、誦すべき者多し。僕以おも為えらく是くの如きは猶お古に叛そむかざるべし。乃ち其の性情の愚を攄のべ、窃かに作者の義に比す。今時人喜んで下に趨るも、率ね古を信ぜず。之と言いて尽ことごとくは解せず。故に久しく其の説を輸いたさざるは、恐らくは伯牙の笑う所と為らん。(僕少喜声詩、????通於六芸之学。観時人近世之辞、悉詭於是。唯漢氏不遠逾古、遺風流韻、猶未艾、而郊廟閭巷之歌、多可誦者。僕以為如是猶可不叛於古。乃攄其性情之愚、窃比於作者之義。今時人喜趨下、率不信古。与之言不尽解。故久不輸其説、恐為伯牙所笑。徐禎卿は若い時から声詩(=音楽)を好んだこと、漢代は古から遠く隔たらず、古の遺風流韻も尽きず、郊廟閭巷の歌にも誦すべきものが多い、それは愚直なまでに性情を抒のべ、古代の作者の節度に適うからだと言う。今時の人は古を好むと言いながら古を信じることなく、古の真の良さを説明しても理解してくれない、とも言う。「郊廟閭巷の歌」とは、曲調に乗せて歌う詩である。李夢陽が徐禎卿を認めたのが「呉声」を能くするからであったし、徐禎卿も「声詩」を好むと言う。またともに古を好んで信じ、漢代が古の遺風を継承しているという認識も一致している。二人が真に交際ができたのは、出会いの初めから好みが一致したからである。徐禎卿は二〇歳のときに『談芸録』を著わしている。詩の定義から始まり、詩の理想や、詩の生まれる由縁等が体系的に論じられている。和刻本もあり、江戸時代にはよく読まれた。その『談芸録』にも以下のように言う。魏の詩は門戸なり。漢の詩は堂奥なり。戸に入りて堂に升るは、固まことに其の機なり。而して晋氏の風は、之を魏に本づく。然れども迹を魏に判つ者は何ぞや。故に知る門戸は定程に非ざることを。(魏詩門戸也。漢詩堂奥也。入戸升堂、固其機也。而晋氏之風、本之魏焉。然而判迹於魏者何也。故知門戸非定程也。)魏の詩は門戸であり、漢の詩は堂奥である。戸に入り堂に上ることが、まさに詩を学ぶ要諦である。晋氏の詩風は、魏に本づいているが、しかし詩の軌跡は魏とは明らかに違っている。 この段に到るまでに、『談芸録』では、古代の詩の本質と、古の詩と音楽の歴史を述べている。古詩の基本的な認識である。先王之を宮徴に協かなえ、之を簧絃に被らしめ、之を郊社に奏し、之を宗廟に頌し、之を燕会に歌い、之を房中に諷す。蓋けだし之を以て以て天地を格ただし、鬼神を感ぜしめ、風教を暢べ、庶情に通ずべし。此れ古の詩の大約なり。(先王協之於宮徴、被之於簧絃、奏之於郊社、頌之於宗廟、歌之於燕会、諷之於房中。蓋以之可以格天地、感鬼神、暢風教、通庶情。此古詩之大約也。)先王は詩に宮徴の曲をつけ、あまねく笛や弦楽器で演奏できるようにし、郊社のまつりで演奏したり、宗廟で先祖をたたえたり、宴会で歌ったり、房中でそれとなく諭したりした。これは思うに、詩によって、天地のあるべき姿を正しく認識させ、霊的な存在の鬼神をも感動させ、道徳・教化をひろく行きわたらせ、人のもろもろの情に通じさせることができるからだ、と。さて、前節で李夢陽が「宛・質・情・融洽」を貴んでいたことを見たが、『談芸録』にも同様なことが述べられている。情は心の精なり。情に定れる位無く、感に触れて興る。既に中に動けば、必ず声に形あらわる。故に喜べば則ち笑啞を為し、憂うれば則ち吁歔を為し、怒れば則ち叱咤を為す。然れども引きて音を成すは、気寔まことに佐たすけを為し、音を引きて詞を成すは、文寔に功に与あずかる。蓋し情に因りて以て気を発し、気に因りて以て声を成し、声に因りて詞を絵かざり、詞に因りて韻を定む。此れ詩の源なり。(情者心之精也。情無定位、触感而興。既動于中、必形於声。故喜則為笑啞、憂則為吁歔、怒則為叱咤。然引而成音、気寔為佐、引音成詞、文寔与功。蓋因情以発気、因気以成声、因声而絵詞、因詞而定韻。此詩之源也。) 情は心の精粋であり、情には一定の在り処はなく、物に触れて興る。情が心の中で動くと、必ず「声」になって現れる。そこで嬉しくなると笑い声となり、憂えると嘆き声となり、怒ると叱咤の声となる。しかし、単発的な声がさらに規則的な「音(音素)」になるには、「気」が輔佐し、「音(音素)」が集まって「詞(言語)」となるには、「文(文彩)」が必要である。情に因って気が発せられ、気に因って声が生まれ、声に因って詞が美しくなり、詞によって韻が定まる。これが詩の本源である。しかし、情は不安定であり、気も均一に働かずに偏ることがある。詞も気分に任せて妥当なものが選択されないことがあり、才は奢りやすい。ではどうするか。然れども情は寔に実に眑渺たり、必ず思に因りて以て其の奥を窮め、気は????弱有り、必ず力に因りて以て其の偏を奪い、詞は妥帖なり難く、必ず才に因りて以て其の極を致し、才は飄揚なり易く、必ず質に因りて以て其の侈を禦ぐ。此れ詩の流なり。是れに繇よりて観れば、則ち知る、詩とは乃ち精神の浮英、造化の秘思なるを。(然情寔実眑渺、必因思以窮其奥、気有????弱、必因力以奪其偏、詞難妥帖、必因才以致其極、才易飄揚、必因質以禦其侈。此詩之流也。繇是而観、則知詩者乃精神之浮英、造化之秘思也。情は必ず「思(思考すること)」に因ってその深奥を窮め、気は必ず「力(強弱の力)」に因ってその偏奇をなくし、詞は必ず「才(才分)」に因ってその至境をきわめ、また才は飄揚し易いので、必ず「質(質朴)」に因ってその奢侈を防ぐ。これが詩の本流である。以上のことから、詩とは精神が外に現れる花であり、造化の秘めやかな思いであることがわかる。徐禎卿は、『談芸録』の冒頭で詩しの理りは宏こう淵えんなり、談だんずること何なんぞ容よう易いならん。其その妙みょう用ようを究きわむれば、略りゃくして言いう可べし。(詩理宏淵、談何容易。究其妙用、可略而言。)と、詩の理は宏淵であるが、その妙用を窮めれば、詩の本質やその芸術性を大略論じることができると言う。また、詩の理想の形は古代にあり、それらの詩の理を極めていくと、詩とは「玄鬱の思を宣べ、神妙の化を光あきらかにする所以の者である」という。「卿雲」「江水」は、雅頌の源を開き、「烝民」「麦秀」は、国風の始はじめを建つ。其の事迹を覧るに、興廃存するが如く、彼の民情を占うに、困こんじょ舒目に在り。則ち知る、詩とは、玄げん鬱うつの思を宣のべ、神妙の化を光あきらかにする所以の者なりと。(卿雲江水、開雅頌之源、烝民麦秀、建国風之始。覧其事迹、興廃如存、占彼民情、困舒在目。則知詩者、所以宣玄鬱之思、光神妙之化者也。「玄鬱の思」は、心の奥底に隠れた思い。「神妙の化」は、自然の不可思議な移り変わり。「玄げん鬱うつの思を宣のぶ」は、創作面よりみた詩の認識であり、「神妙の化を光にす」は、詩のもつ効用を言う。この二方向からの詩の認識は、時代によって変遷があった。詩の政治社会での効用を重視すれば『詩経』大序に代表される「言志」説となる。また「思いを宣ぶ」という「思い」を政治社会への思いに傾くと、李夢陽の「言志」ともなる。「思い」が「情に傾けば「縁情」説となる。徐禎卿は詩の社会性を認めても、作詩において社会性や道徳性に偏ることはない。『談芸録』を著した二〇歳の徐禎卿は豊かな蘇州で自由に、師や友と芸術に浸っていた。科挙落第の悲しみは詠っても、社会を平和にするために詩はある、とは思いもしなかった。李夢陽が会いたいと言った時に、徐禎卿は「皮日休や陸亀蒙が唱和したように詩を作りあおう」と言ったのは、ごく当然の反応であった。だから李夢陽と会ったとき、詩の社会性・道徳性についても明確に答えられなったのである。徐禎卿は科挙に及第しても「貌寝」だったことから疎外されたり、官界の情勢を知るにつけ、李夢陽の言う「詩は志を宣べて道の和を追究する」ものであることに同調し、交遊を通じてそれに適う詩が作れるようになったのである。\n四、京師での交遊\n徐禎卿は三三年の生涯で、科挙に及第した二八歳から亡くなるまでの五年間、李夢陽と交遊した。徐禎卿には、李夢陽との交遊を示す詩が一九首、文は三篇ある。一方、李夢陽には徐禎卿との詩は九首、文は三篇である。徐禎卿の、李夢陽と関係する詩文を年ごとに見ると以下のようである。(文)は手紙文である。弘治十八年秋「喜玄敬献吉見過」「答献吉餽蕨之作」「晩過献吉斎所」「与李献吉論文書」(文)計詩三首、文一篇正徳元年一月「人日柬李員外出陪郊祀」「答献吉」「席上答献吉」「署中贈顧与成別因酬李子」「重別李子」「酬李員外贈古鏡歌」「発潞河寄懐李子」「往歳中秋、与献吉子容、幽吟於月下。飛蓬一失、載離寒暑、今夕之夕、時異事非、対月挙觴、悵然有作」「九日期登大慈恩寺閣不果寄献吉」「秋日懐李郎中及辺熊二君子五首」計詩十首正徳二年春 「於武昌懐献吉五十韻」「寄献吉」「答献吉書」(文)「重与献吉書」(文)詩二首文二篇正徳三年 「酔後答李子」秋「贈別献吉」計詩二篇正徳四年 「感興懐献吉」計詩一首正徳五年 「過喬侍郎省中因懐献吉」計詩正徳元年(一五〇六)の「発潞河寄懐李子」が江南・瀟湘への旅の出発を詠う詩である。正徳二年(一五〇七)春の「於武昌懐献吉五十韻」は政治・政局を風刺する「言志」の意向の強い詩である。ここに到るまで、徐禎卿は詩作において様々な試みを行っている。具体的に作品を読んでみよう。李夢陽との交遊の様子がよく分かる。科挙に及第した年の秋、都穆(字玄敬、一四五九〜一五〇八)と李夢陽(字献吉)が訪ねてきた。嬉しくて作ったのが「玄敬献吉に過よぎらるるを喜ぶ(喜玄敬献吉見過)」である。宛宛蛛糸落宛宛として蛛糸落ち労労鵲語催労労として鵲語催す軒窓知客至軒窓客の至るを知り風雨送秋來風雨秋を送って来たる文接応徐論文は応徐の論に接し時憑衛霍才時は衛霍の才に憑る夜深雲月吐夜深うして雲月吐く矯首即蓬萊首こうべを矯あぐれば即ち蓬萊首聯は、蜘蛛が来ると親しい客が好い知らせをもって来る、鵲が鳴くとよいことが起こる予兆という諺を利用している。頸聯は、都穆と李夢陽の二人を、文学の面では応????と徐幹に喩えてその文学論に接することができたことを、武人の面では衛青と霍去病に喩えて今時その才が必要なことを言う。深夜、雨風が止んで雲間から月がのぞいた。頭を挙げると「蓬莱」が見えた。「蓬莱」は唐代の蓬莱宮に借りて明宮を言う。白居易の「長恨歌」に「蓬莱宮中日月長し」とある。都穆と李夢陽がもたらした良い知らせとは何だったのだろう。徐禎卿が館選を得られそうだという知らせだったのだろうか。首聯の畳語を連ねた対句、頸聯での比喩を見ると、よほど良い知らせだったようだ。都穆は徐禎卿と同じく呉の人で、唐寅(一四七〇〜一五二三)と莫逆の友であった。が、唐寅が科挙試験問題漏洩事件に連坐したとき、その事実を暴いたため唐寅に二度と会わないと言われ、呉中の人々からも疎んぜられたという徐禎卿は、結局「貌寝」のため館選を得られなかった。のち、徐禎卿を慰めるために李夢陽は蕨を贈った。それに答えたのが「献吉の蕨を餽おくるの作に答う(答献吉餽蕨之作)」である。佳人把芳蕨佳人芳蕨を把る日暮思何深日暮思い何ぞ深き遥憐持贈意遥かに憐れむ持ちて贈るの意知我白雲心知る我が白雲の心李夢陽が「蕨」を贈ってくれたのは、自分が伯夷・叔齊のように隠棲したいと思っていることを知っているから、と。互いを思いやる二人の情のこまやかさが窺える。ある時、徐禎卿は李夢陽を訪ねた。「晩に献吉の斎所に過ぎる(晩過献吉斎所)」(『迪功集』巻二)は、王維・孟浩然の風韻がただよう。端居聞子肅清修端居子が粛んで清修するを聞く吏散鴉啼省署幽吏散じ鴉啼いて省署幽なり芳草不知人独往芳草知らず人独り往くを空山何意鳥相求空山何の意か鳥相求む\n開軒歴歴明星夕軒を開けば歴歴たり明星の夕隱几蕭蕭古木秋几に隠よれば蕭蕭たり古木の秋自昔風塵堪吏隠昔自より風塵吏隠に堪う浮生莫遣有離憂浮生離憂有ら遣しむる莫かれ弘治一八年(一五〇五)五月に孝宗が崩御した。その年の秋、李夢陽は、官吏がみな帰り烏が啼くだけのひっそり静まり返った官署に端居し、身を粛しみ瞑想していた。頷聯は、李夢陽が知らないうちに、「人」自分が独り香しい草を踏み、「空山」ひっそりした官署に、「何の意か」何のつもりか「鳥」が侶を求めるように訪ねて行った、と。窓を開けると宵の明星がキラキラ輝き、机に凭れると古木を渡って寂しそうに秋風が吹いて来る。昔から役所勤めをしながら隠者となっていた者がいた、どうか浮き世で悲しむことがないようにと、徐禎卿は李夢陽を慰める。「蕭蕭古木秋」は、宋玉の「悲しいかな、秋の気たるや。蕭しょうしつ\n瑟として草そうもく木揺ようらく落して変へんすい衰す。(悲哉、秋之為気也。蕭瑟兮草木搖落而変衰)」を踏まえている。陳子龍等の『皇明詩選』で、轅文は「此れ王孟五言の佳境」、臥子(陳子龍)は「高(適)岑(参)の七言律詩此の境有り。廻風度雨、高舘張燈の如きの類」、舒章は「空に駕して独り秀ず」と評している。また清の王漁洋は「(七言律)畳字を以て益ます蕭散を見しめす者有り。王摩吉が漠漠たる水田に白鷺飛び、陰陰たる夏木に黄鸝囀る、徐昌????が・・・」と右の詩の頸聯を挙げている。孝宗の跡を継いだのは十五歳の武宗で、劉瑾ら宦官八人が輔佐し、これより所謂「八虎」の専制時代が始まる。李夢陽は弘治一八年の大晦日の夜に「俄に伝う天柱折れたりと、忽ち慈母を喪うが若し。帝本堯舜の姿、未だ履まずして清伉に転ず。(俄伝天柱折、忽若慈母喪。帝本堯舜姿、未履転清伉)と、孝宗を「慈母」に喩えて悼んでいる。\n五、江南・瀟湘への旅立ち\n孝宗崩御の後、李夢陽は戸部貴州司員外郎となり、翌年武徳元年(一五〇六)には戸部広東司郎中に昇った。徐禎卿は湖湘編纂外史の命を受け、二月四日、江南・瀟湘に赴くことになった。その前日のこと、李夢陽が餞別の宴を開いてくれた。初唐風の詩「献吉に答う(答献吉)」(『迪功集』巻二)。花発平章宅花は発く平章の宅鶯啼省樹春鶯は啼く省樹の春殷勤花鳥意殷勤なり花鳥の意愁殺独游人愁殺す独游の人徐禎卿にとって瀟湘への任務は気の進まないものだった。このころ李夢陽と関連のある詩には「席上献吉に答う(席上答献吉)」、「署中顧与成の別れに贈り因りて李子に酬ゆ(署中贈顧与成別因酬李子)」がある。別れを悲しみ、「都城諸同志に留別す(留別都城諸同志)二首」(『迪功集』巻三)その一では「酒に対して忽ち楽しまず、悵然として別離を懐う(対酒忽不楽、悵然懐別離)」とも言う。何でも言える間柄になっていたようである。出発の日は城隅まで人々が見送った。辺貢(字は廷実)への留別詩「辺子に留別す(留別辺子)」(『迪功集』巻三)では立ち去りがたい様子を畳語を連ねて描写する。(全十八句のうち十句)。握手一為嘆手を握って一たび嘆を為し忽忽従此辞忽忽として此ここ従より辞す駆車何迢迢車を駆ること何ぞ迢迢たる迢迢復遅遅迢迢復た遅遅匪我車輪遲我が車輪の遅きに匪あらず行子有所思行子思う所有り登高望河水高きに登りて河水を望めば河水何瀰瀰河水何ぞ瀰瀰たる褰裳欲涉之裳を褰げて之を涉らんと欲するも俛首以踟蹰首こうべを俛たれて以て踟蹰す友と別れる悲しみを、清らかに、漢代古詩の風をもって詠う。李夢陽は「徐禎卿に贈る(贈徐禎卿)」(『空同先生集』巻九)で、政府の恩沢の少ないのは義として劣る、別離は天命、と慰める。独処忽不悦独処忽ち悦ばす攬衣循東廂衣を攬かかげて東廂に循う樹木何修修樹木何ぞ修修たる春風起飄揚春風起って飄揚たり我友駕在門我が友駕して門に在り告言適江湘告げて言う江湘に適くと倉皇挈玉壺倉皇として玉壺を挈げ追送臨河陽追送して河陽に臨む顧瞻両飛鳧顧瞻す両飛鳧の並戯水中央並んで水の中央に戯むるるを翩翩厲羽翮翩翩として羽翮を厲まし鳴声一何長鳴声一に何ぞ長き奈何游客子奈何んぞ游客子一別永相望一別永く相望む時沢亮有周時沢亮として周る有り天命固其当天命固より其れ当たれり薄終義所劣薄きは終に義の劣れる所別離庸豈傷別離庸ぞ豈に傷まんや懿彼回路贈懿ああ彼路を回りて贈る慷慨申此章慷慨して此の章を申ぶ徐禎卿の「重ねて李子に別る(重別李子)」(『外集』)に言う。二月離亭芳樹紅二月離亭芳樹紅なり孤帆去国逢春風孤帆国を去って春風に逢う愁看楊柳路無盡愁えて看る楊柳路に尽くる無きを回首長川思不窮首を回らせば長川思い窮まらず沙燕何曽離並語沙燕は何ぞ曽て離れて並び語らん渚芽元自綻新叢渚芽は元より自から綻びて新たに叢むらがる従今且払朝華去今従り且らく朝華を払いて去る莫笑狂歌向楚中笑う莫かれ狂歌して楚中に向うを李夢陽はまた餞別として「古鏡」を贈った。この鏡は李夢陽がかつて緑瞳玄髪の老人からもらったもので、「九鼎を????湖の上で観、其の滲汁を掇ひろい、之を治めて鑑と為した」もので「青霞の鑑」\nという。「明鏡は形を照らす所以、往事は今を知る所以」、そこで徐禎卿に贈ったのだった(「古鏡を詒おくるの書」(詒古鏡書)『空同先生集』巻六一)。徐禎卿は「李員外の古鏡を贈るの歌に酬ゆ(酬李員外贈古鏡歌)」で「君が意気の特に相許すに感じ、爰に肝胆を披き清徹を照さん(感君意気特相許、爰披肝胆照清徹)と言い、最後に憐君至宝不自惜 君が至宝を自ら惜まざるを憐れみ何以報之嗟菲蔑何を以て之に報いるに菲蔑を嗟かん護蔵但使鏡莫欠護り蔵して但だ鏡をして欠くること莫からしめ与君交情世不絶君との交情世に絶たずと結んでいる。鏡を欠けさせ、交情を絶つようなことはしない、と。二人が心を通わせ支え合う親密な関係にあったことが伺えよう。\n六、旅の途中で\n江南・瀟湘の旅中、李夢陽を思う詩は九首作られている。正徳元年の中秋、昨年の月下の幽吟を思い出して詠った詩。「往歳の中秋、献吉・子容と月下に幽吟す。飛蓬一たび失い、載すなわち寒暑を離へたり。今夕の夕べ、時異なり事非にして、月に対して觴を挙げ、悵然として作有り(往歳中秋、与献吉子容、幽吟於月下。飛蓬一失、載離寒暑。今夕之夕、時異事非。対月挙觴、悵然有作)」。「飛蓬一失、載離寒暑」は曹植の「風は飄ひるがえりて蓬飛び、載すなわち寒暑を離へたり(風飄蓬飛、載離寒暑)」を踏まえる。「子容」は徐縉)。徐禎卿と同年の進士である。今夜中秋月今夜中秋の月清輝異往時清輝往時に異なる終知萬古色終に知る万古の色不受片雲欺受けず片雲の欺くを走魅応含涙走魅応に涙を含むべし潜蛟一奮潜蛟一にきを奮う遥憐沢畔客遥かに憐む沢畔の客千里正相思千里正に相思う同じ中秋の月でも今夜の月の清輝は去年と違う。万古の愁いを帯び、片雲に隠れることもなく愁いは募るばかり。愁いのために山に棲む魅もののけもきっと目に涙をため、濳蛟もひれを振るわせているに違いない。遠く沢畔をさまよう旅人(自分)は千里かなたの友人を思っている、と。頸聯の「走魅」は山にいる一本足の物の怪。『抱朴子』に拠れば、万物の老いたものは、その精はよく人の形に仮託して人を幻惑する、もし老いた魅もののけが来たら、後ずさりして離れ、その後ろ姿を見て一本足だったら魑で、二本あったら山の神だ、という。「濳蛟」は深い淵に潜む龍。同じく正徳元年、九月九日に大慈恩寺で会う約束をして果たせなかった無念を詠う。十六句の排律である。悵憶青蓮宇悵として憶う青蓮の宇今朝黄菊開今朝黄菊開く遥知遠公笑遥かに知る 遠公の笑うを不見白衣来見ず白衣の来たるを窈窕人天閣窈窕たり人天の閣崢嶸日月迴崢嶸として日月迴かなり山川紛楚望山川紛として楚を望み城闕動秋哀城闕動ややもすれば秋に哀しむ峴首羊公石峴首羊公の石淮陰戯馬台淮陰戯馬の台風烟那可即風烟那んぞ即つく可けん逸興杳難裁逸興杳として裁し難し強負登楼作強いて登楼の作を負い虚伝落帽才虚しく落帽の才を伝う此時遥独酌此の時遥かに独り酌み念爾重悠哉 爾\nなんじを念いて重ねて悠なる哉菊の花の開く今日、悲しく大慈恩寺を思う。「遠公」慧遠とも言うべきあなたは笑っているのであろうし、「白衣」在家の私の行けないことを知って残念に思っているであろう。「人天」衆生にある閣は美しく、その高い閣には日や月が懸かっていることだろう。前四句は「青蓮宇」「遠公」「白衣」と仏教用語を用い、大慈恩寺で李夢陽と会えないことを詠う。「青蓮宇」は大慈恩寺を指す。以下は自分のいる瀟湘を詠う。山川の多い楚を望み、城闕を見て秋を哀しむ。襄陽の峴首山には羊祜の堕涙碑があり、淮陰には項羽の築いた戯馬の台があるが、美しい景色を愛でることもなく、逸興を詩にすることもできない。自分は「登楼の賦」を作った王粲のような才能があると言われ、落帽の故事の孟嘉のような才能があると言われてきたが、それは枉げられて言われ、空しく伝えられたものである。今は遥か瀟湘の地で独り酒を酌み、あなたを思って悲しみを重ねている、と。徐禎卿は、王粲や孟嘉に喩えられて詩文の才を称えられていた。この詩は、『皇明詩選』の轅文の評に「太白・摩詰の境を合するに似たり。排律には罕まれなる体」とある。「秋日、李郎中及び辺・熊の二君子を懐う五首(秋日懐李郎中及辺熊二君子五首)」は、秋日に李夢陽と辺貢、熊卓を懐かしく想った詩である。其の一。秋興因高賦秋興は高きに因りて賦す\n雄才億省郎雄才省郎を億う山川思不極山川思い極まらず雲樹莾蒼蒼雲樹莾蒼蒼たり対酒知時變酒に対して時の変わるを知り看花感別長花を看て別れの長きに感ず如何霜後雁如何ぞ霜後の雁の猶未達瀟湘猶お未だ瀟湘に達せず高い所に登ったら必ず秋の興趣を賦し、才能ある人は都を思う。私もそうだ。山川を見るにつけ思いは極まらず、雲を衝いて青々と茂る木々をみては友人を懐かしく想う。酒を飲めば時勢の変化を嘆き、花を看ては別離の長さに悲しくなる。雁はこの瀟湘に手る。叢菊両たび開く他日の涙、孤舟一えに繋ぐ故園の涙。(江間波浪兼天湧、塞上風雲接地陰。叢菊両開他日涙、孤舟一繋故園涙)頷聯は「春日李白を憶う(春日憶李白)」の頸聯。「雲樹」は友人を想うことを言う。渭北春天の樹、江東日暮の雲。(渭北春天樹、江東日暮雲。)頸聯は「春望」の頷聯。時に感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。(感時花濺涙、恨別鳥驚心。)尾聯は「月夜舎弟を憶う(月夜憶舎弟)」。戍鼓人行断ゆ、辺秋一雁の声。露は今夜より白く、月は是れ故郷のごとく明らかなり。弟有れども皆分散し、家の死生を問うべき無し。寄書長く達せず、況んや乃ち未だ兵を休めざるをや。(戍鼓断人行、辺秋一雁声。露従今夜白、月是故郷明。有弟皆分散、無家問死生。寄書長不達、況乃未休兵。)明代の詩は先人の詩句を利用することが多い。名句を踏まえながら更に新たな味を加えるなら問題はない。が、古文辞派の亜流には摸擬剽窃で終わる詩人も出た。古典を深く読み解き、味わうことができなければ良い詩はできない。徐禎卿は古典にも通じ、名句を自家薬籠のうちに精錬した感がある。紙を持ってきてはくれない、と。尾聯は友と長く別れたたままで、便りのないことを言う。 首聯の「雄才」は杜甫を、「秋興」は杜甫の「秋興」を指している。また各聯がみな杜甫の詩句を踏まえている。たとえば首聯は「秋興」の頷聯・頸聯江間の波浪は天を兼ねて湧き、塞上の風雲は地に接して陰「秋日、李郎中及び辺・熊の二君子を懐う」の其の二では借問関中友借しゃもん問す関中の友新詩近転多新詩近ごろ転うたた多からん風煙興難尽風煙興尽くし難く揺落意如何揺落意如何ん(首聯・頷聯)と近況を問い、其の三では未妨文字癖未だ妨げず文字の癖益簿書忙ただ益ます簿書忙しからん(頷聯)と李夢陽の繁忙ぶりを気づかっている。其の四は辺貢を思って、ともに詩を作り合いたいと言い、其の五では熊卓はどうしているかと心配する。\nおわりに\n徐禎卿と李夢陽の交遊は、「歌吟」を好むことが縁で始まった。弘治一七年、徐禎卿が科挙に合格した二七歳のときであった(第一節)。二人はともに古を信じて好み、古代では詩と音楽が一体になっていたという共通の認識があった(第二節・第三節)。詩の認識では、李夢陽は、「詩は志を宣べて道和する者」とし、詩の「宛・質・情・融洽」を貴んでいた(第二節)。一方、徐禎卿は、「詩とは、玄げん鬱うつの思を宣のべ、神妙の化を光あきらかにする所以の者」であり、詩を成立させるのは「情・気・詞・才」であるとした。さらに、「情」は「思」によってその奥を窮め、「気」は「力」によって「偏」を奪い、「詞」は「才」によってその極を致し、「才」は「質」によってその侈を禦ぐと言う(第三節)。二人は共に古を好んだが、李夢陽は詩の社会性・道徳性を重んじるのに対して、徐禎卿は詩の芸術性を重んじるという違いがあった。李夢陽は官界にあって不正を正そうと豪胆ぶりを発揮して錦衣衛の獄に下されるほどの行動派であった。徐禎卿は科挙に及第すると、それまでの生まれ育った温和な蘇州とは全く異なる荒涼とした官場に新たに身を置くようになり、李夢陽との交遊で古代・漢の詩風や、初唐風の詩を詠ったり、王維・孟浩然・李白・杜甫などの佳境を詠った。(第四節〜第六節)。徐禎卿は江南や瀟湘の旅で、李夢陽や友人をいつも気にかけていた。例えば「献吉に寄す(寄献吉)」に、豈是乗桴客 豈に是れ桴に乗る客棲棲楚水陽棲棲たり楚水の陽きた故人多放斥故人多く放斥せられ吾道転凄涼吾が道転うたた凄涼寵辱今如此寵辱今此くの如し沈憂不可忘沈憂忘る可からずと、自分は小さな筏に乗って楚の地方を旅しているが、京師にいる多くの友人が放斥されたと聞いてますます寂しい思いをしている、と言う。そうした中、李夢陽が草堂を築いたことを聞き荒村豺虎眠難穏荒村豺虎眠り穏やかなり難し好共滄江学釣魚好し共に滄江に釣魚を学ばんと、狼が跋扈する荒村で過ごすより、滄浪のほとりで共に隠棲しよう、と言う。徐禎卿は病気がちであったため政治的な行動を起こすことはなかったが、旅をして史跡を見、京師の政情を聞くにつけ、いっそう言志の詩を志向するようになった。武昌では、李夢陽を懐かしむ五十韻の詩を書いて送っている。この詩は、正徳帝武宗の即位や八虎の専横、怪異なな自然災害を事細かに詠ったもので、弘治・正徳の間の歴史を垣間見るようである。徐禎卿の政治への批判を読み取ることも可能であり、まさに経世の詩となっている。これは李夢陽との交流を通して得た新たな詩境である。呉の人々は徐禎卿が若いころの作を悔い改めて漢魏に趨ったため「邯鄲学歩」と誚ったというが、もともと徐禎卿は古代の詩を重んじ、魏詩は門戸、漢詩は奥堂と言っており、若いころの詩風を意識的に変えたわけではない。生まれ育った呉から、科挙に及第して京師に暮らすようになり、環境が変わり、官場を目の当たりにするなか、李夢陽との交遊を通して新たな詩境が加わったのである。環境が変れば詩風が変るのは、むしろ当然のことであろ\nう。そうした変化のなかでも、徐禎卿の詩は「標格淸????、摛詞婉約」であると、これまた銭謙益が説くところである。本稿で引用した詩でも、徐禎卿の詩は、端正で清らかで、柔らかでやさしい。徐禎卿は病気がちであったことから、若いころから「永遠の生命」にとらわれていた。仏教や道教を学び、湖南・瀟湘の旅から帰ってくると、王陽明に教えを乞うまでになる。徐禎卿自身は意識していなかったのであろうが、その詩は「永遠の生命」を託すべきものとして、その時々の思いが衒いなく詠われている。呉にいるときには自らの不運を厠に落ちる花びらに託して詠い、京師から江南への旅では庶民の思いを「楽府」に託し、江南・瀟湘の旅では政局の不条理を詠った。徐禎卿の詩は、過度に自己主張するのではなく、情と思いが偏りなくバランスがとれ、自然で美しい。それは、まさしく秋の夜、銀河がキラキラと輝いているような詩である。\n注\n(1)『列朝詩集』丙集「徐博士禎卿」に「其持論於唐名家独喜劉賓客、白太傅、沈酣六朝散華流艶、・・・登第之後、与北地李献吉游、悔其少作、改而趨漢魏盛唐、呉中名士頗有邯鄲学歩之誚。然而標格清????、摛詞婉約、絶不染中原傖父槎牙奡兀之習、江左風流、故自在也とある。\n(2)拙論「徐禎卿の評価をめぐって」(『国士舘大学漢学紀要』一三号(二〇一一年三月)(3)注(1)\n(4)拙論「徐禎卿の『文章煙月』をめぐって」(『国士舘大学漢学紀要』一六号(二〇一四年三月)\n(5)拙論「徐禎卿の『於武昌懐献吉五十韻』について」(『国士舘大学漢学紀要』一七号、二〇一五年三月)\n(6)拙論「徐禎卿―江南時代の詩―」(『早稲田大学中国古典研究』第二七号、一九八二年一二月)、「徐禎卿の『文章煙月』をめぐって」(『国士舘大学漢学紀要』第一六号、二〇一四年三月)\n(7)拙論「明代徐禎卿の江南時代―文徴明との交流と洞庭唱和詩―」(『国士舘人文学』第三号(通巻四五号)、二〇一三年三月)、「徐禎卿の『落花詩』―二十代の自己を投影して―」(『中国文化』第七九号、二〇二一年六月)\n(8)『周易』中孚。\n(9)「卿雲」:『尚書大伝』巻一「虞夏伝」。「巻阿」:『詩経』大雅「生民之什」。この説は朱子の『詩集伝』に拠る。『論語』述而。)『礼記』「楽記」楽本篇第一に「凡音者、生人心者也。情動於中、故形於声。声成文、謂之音。是故治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。声音之道、与政通矣。」とある。『滄浪詩話』詩序に「和韻最害人詩。古人酬唱不次韻。此風始盛於元白皮陸。而本朝諸賢乃以此而闘工、遂至往復有八九和者。」とある。\n14\n『明詩』『明通鑑』等参照。\n15\n拙論「『談芸録』について」(『大東文化大学論文集』、一九八一年一二月)\n16拙論「徐禎卿の生涯―『明史』より見る―」(国士舘大学『漢学紀要』一四号、二〇一二年三月)『列朝詩集』丙集「都少卿穆伝」。宋玉「九辦」。\n20『皇明詩選』巻一〇に「轅文曰、此王孟五言佳境。臥子曰、高岑七言律詩有此境。如廻風度雨、高舘張燈之類。舒章曰、駕空独秀。」とある。\n21王漁洋『古夫于亭雜録』二七四に「七言律有以疊字益見悲壯者、如杜子美・・・。有以疊字益見蕭散者、如王摩吉漠漠水田飛白鷺、陰陰夏木囀黄、徐昌????開軒歴歴明星夕、隱几蕭蕭古木秋、王敬美・・・是也」とある。\n22『空同先生集』巻一五「乙丑除夕追往憤五百字」。辺貢、字廷実、歴城の人。『明史』巻二八七。\n24曹植の「朔風」。転蓬・乖別の嘆きを詠う。「載離寒暑」は、『詩経』小雅「小明」の詩句。\n25徐縉、字子容、洞庭西山(蘇州)の人。徐禎卿と同年の進士。『蘇州府志』巻八〇に伝がある。\n26『抱朴子』「登渉」。『皇明詩選』巻九に「轅文曰、似合太白摩詰之境。排律罕体」。\n28熊卓は、字は士選、豊城の人。弘治九年(一四九六)の進士。『列朝詩集』丙集に「熊御史卓伝」がある。\n32)注(7)の「徐禎卿の『落花詩』―二十代の自己を投影して―」(『中国文化』第七九号、二〇二一年六月)\n33「徐禎卿の『楽府』について」(『中国文化』四〇号、一九八二年六月)\n34『皇明詩選』巻一に轅文が言う「昌????如秋夜銀河、爛爛垂也」。\n"}]}, 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徐禎卿の官僚時代の詩 : 李夢陽との出会いと交遊
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
---|---|---|
本文 (1.4 MB)
|
|
Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
公開日 | 2022-09-02 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | ja | |||||
タイトル | 徐禎卿の官僚時代の詩 : 李夢陽との出会いと交遊 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | Xu Zhenqing(徐禎卿)’s Poems in his Official days : Met Li Mengyang(李夢陽)for the first time and keep company with him | |||||
言語 | ||||||
言語 | jpn | |||||
資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
著者 |
鷲野, 正明
× 鷲野, 正明 |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 200901005013161330 | |||||
書誌情報 |
国士舘人文学 en : Kokushikan journal of the humanities 巻 12, p. 131-150, 発行日 2022-03-15 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学文学部人文学会 | |||||
ISSN | ||||||
収録物識別子タイプ | PISSN | |||||
収録物識別子 | 2187-6525 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AA12519434 | |||||
論文ID(CRID) | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | 1520573947565452928 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 920.25 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 921.5 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
主題 | 徐禎卿, 李夢陽, 古文辞復興, 前古文辞派, 言志志向, 文学観 | |||||
注記 | ||||||
通巻54号 (国士館大学人文学会紀要からの通号) 雑誌変遷情報 : 国士館大学人文学会紀要→国士館大学文学部人文学会紀要→国士舘人文学 |