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政治\n\nキーワード:明治維新/天皇親政/公議/明治太政官政\n\nはじめに\n近年の明治維新史研究では、「公議」が重要視されている。「公議」を重視する代表的論者の三谷博氏は、最近の\n著作『維新史再考』(NHK出版、二〇一七年)で次のように述べている。\n・(幕末)政治課題を集約する象徴は、「公議」「公論」、および「王政」であった。幕末十年の政治動乱はこの\n二点を軸に展開……「公議」「公論」という語をキイワードとして重視する(四~五頁)\n・王政復古を実現した時、新政府の指導者(は)……全国政権を天皇の下に統一し、「公議」を体現しうる国\n制を設けようとする点で、大まかな合意はあった……議政官下局…公議所……新政府は、その寄合い所帯とい\nう性質上、政府の内部でも、諸藩との関係でも、決定を「公議」・「公論」に拠るほかはなかった(三〇六・\n三一四・三一六頁)\n幕末維新の政治課題は、「公議」と「王政」(天皇親政)の二点であった。明治新政府はとくに「公議」を体現する\n20\n「国制」の創出を図って、議政官下局や公議所を創設した。政策決定は「公議」に依拠せざるを得なかった、とい\nう主張である。しかし、一般書ということから、「公議」の内実や「国制」の具体的な内容までは論じていない。\nまた、最新の明治維新論である北岡伸一『明治維新の意味』(新潮社、二〇二〇年)は、次のように主張してい\nる。\n明治維新のキーワードは公議輿論だった……(公議輿論が)明治維新となり、五箇条の御誓文となり、憲法制\n定、議会開設となり、政党政治の発展となった。明治維新はたしかに民主化であった(三二八頁)\n明治維新による立憲国家の成立をもたらしたのは「公議輿論」である、と「王政」には触れずに「公議」を特記し\nている。\n筆者は、拙稿\n( ( (\nで論じたように明治維新における「公議」と「王政」は並列関係ではなく、「公議」は「王政」に\n従属するものであり、「王政」という天皇親政が優位を占めていたと理解している。なお、筆者は天皇親政とは、\n「天皇が国家意思の最高・最終的決定権を掌握するという政治理念」と捉えている(前掲拙稿)。\n本稿はこうした観点から、王政復古で誕生した明治新政府は、「公議」をどのように位置づけ、どのように制度\n化しようとしたのか、ということを官制(太政官制)のなかで検討することを課題とする。具体的には天皇親政の\nもとでの「公議」機関の変遷、および「公議」の内実を究明する。\n「公議」の制度化については、主に公議所や集議院を対象として、稲田正次氏の古典的研究後、近年では山崎有\n恒・寺島宏貴・奥田晴樹・湯川文彦氏らの研究が挙げられる\n( ( (\n。公議所と集議院は、山崎氏が議員の思想や活動まで\n踏み込んで詳細に分析し、寺島氏は旧幕府の公議所との関連で論じ、天皇親政下の「公議」機関としての位置を明\nらかにしている。しかし、両氏とも公議所・集議院に求められた「公議」の内実と「公議」機関の廃止との関連に\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n21 つ\nいては、不鮮明と言わざるを得ない。\n奥田氏と湯川氏は、「公議」機関を議事機関としてとらえ、公議所・集議院以外の議事機関も対象としている。\nとくに、奥田氏の著書は一般書ではあるが、議事機関に関する最も詳細な記述となっている。しかし、議事機関を\n奥田氏は「政治制度」としての実現、湯川氏は立法の「現実適合性付与」という観点からそれぞれとらえており、\n天皇親政との関連性は希薄と思われる。\nこうした研究状況を踏まえて、対象時期は王政復古の慶応三(一八六七)年から太政官制の最後の改定となった\n明治八(一八七五)年までとする。そして、「公議」という文言が官制(職制・事務章程)において、どのように\n使用され、制度化されていたのかを明らかにし、天皇親政を理念とする明治政府における「公議」の意味を考察す\nる。\n一 太政官代三職制と「公議」\n1\n 公議政体論\n幕末における諸政治勢力の最大公約数的な政体構想が公議政体論であり、その構想は慶応三年七月の薩土盟約に\n示されていることは、現在定説となっている。そこで、周知のことではあるがこの薩土盟約を素材として、公議政\n体論のなかで「公議」がどのように位置づけられているのかを確認する。\n薩土盟約\n( ( (\nは、前文で「王政復古」による「政権一君ニ帰ス」ことを「大条理」とし、「制度一新、政権朝ニ帰シ、\n諸侯会議、人民共和」(傍線は引用者・勝田で以下同じ)をめざすものであると言う。そして、具体的な構想を次\n22\nの二項目で提示する。\n①「天下之大政ヲ議定スル全権ハ朝廷ニ在リ、我皇国ノ制度・法則、一切ノ万機京師之議事堂ヨリ出ヲ要ス」、\n②「議事院上下ヲ分チ、議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣庶民ニ至マテ、正義純粋ノ者ヲ選挙シ、尚且諸侯モ自ラ其職掌\nニ因テ上院ノ任ニ充ツ」。すなわち、「大政」を「議定」する「全権」を有するのが朝廷である。朝廷内に議事堂\n(院)を設け、「制度・法制」を「議定」する。議事堂は上下二院制とし、上院は公卿と諸侯、下院は「陪臣庶民」\nから「議事官」を「選挙」する、という「公議」政治の採用である。公卿や「庶民」をも含む、諸侯会議より広範\nな「公議」機関としての議事院構想である。\n土佐藩と薩摩藩で議事院創設の合意はなったものの、議事院(とくに上院)の内実(構成)までも一致していた\nわけではない。土佐藩の議事院構想について福岡孝弟は、慶応三年一一月九日の越前江戸藩邸で次のように述べて\nいる。「今後の見込は、何れに議事院を開らき、上院下院を分ち、上は摂政公初内府公主宰に而、明侯御加り、下\nは諸藩士より草莽輩迄も出役に相成\n( ( (\n」。上院は「摂政」(二条斉敬)と「内府」(徳川慶喜)が主宰し、諸侯のうち\n「明侯」が参加するというように、上院には摂政や徳川慶喜を含むものとしている(この構想は慶喜の同意を得て\nいる)。\nこれに対し薩摩藩では、大久保利通が議事院について一二月五日付の蓑田伝兵衛宛書簡で、次のように述べてい\nる。「太政官ヲ設ケ、三職被置総督議定参与、人材御登庸賢侯有志公卿官武無差別、所謂衆議粹出、議事院ノ法ニ\n倣而、参与ノ職ニハ堂上地下之差別なく、陪臣草莽トいえとも人傑を以御抜擢\n( ( (\n」。「総督」・「議定」(有志公卿と賢\n明諸侯)・「参与」(身分にかかわらない「人傑」)の三職を設け、三職会議は「議事院ノ法」に倣って「衆議」を\n「粋出」するものとしている。\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n23 王\n政復古クーデターで設置される三職のなかで「議定」と「参与」は、議事院の議官(「議定」が上院、「参与」\nが下院)に想定されている。そして、一二月八日の大久保・西郷隆盛・岩下方平連名の岩倉具視宛「王政復古に関\nする建言書」で、「太政官代三職之公論ヲ以、大政を議せられ候\n( ( (\n」と述べているように、三職会議を「太政官代」\n(議事院)と称している\n( ( (\n。上院は公卿と諸侯としており、徳川慶喜の無条件参加は認めておらず、また、摂関制の\n廃止を意図しており、当然上院への摂政登用は否定する。慶喜の処遇をめぐっては今後、登用(土佐藩や越前藩な\nど)か排除(薩摩藩)かで激しい対立が生じることとなる。\nまた、議事院設立の方式についても土佐藩と薩摩藩は異なっていた。福岡は、「有名諸侯」の「会同」で決議し、\n「簾前」の「誓約」で確定する。確定事項を他の諸侯に「垂問」し、欠席諸侯には朝廷より「通達」し、「違背者」\nは「追討」する(前掲の福岡発言)と言う。後藤象二郎も一一月二五日に松平慶永に次のように述べている。\n上京諸侯を被召、意見御尋に相成、其御答之御次第、御簾前之御誓ひに相成候はヽ、夫に而大本相定可申候、\n夫より議事院等之事に相成、種々条目に至り、公議可相立儀と被存候\n( ( (\n土佐藩は、上京諸侯の会議で議事院設立を決議し、天皇の面前で「誓約」して確定する、という方式である。一\n方、薩摩藩は諸侯会議には諮らずに、クーデター参加者に議事院設立を直前に示して、クーデター方式で「叡慮」\nとして発令することであった。\nこのように、公議政体論では、「公議」政治を体現するものとして、上下二院制の議事院が構想されたが、上院\nと下院の権限については、明確な規定はなされていない。そして、議事院の議官として、上院は「有志」公卿と諸\n侯(「明侯」・「賢侯」)、下院は公家・藩士から「草莽」も想定されていた。公議政体論とは、藩体制を前提とする\n政体構想であったのである。\n24\n2\n 王政復古クーデターと「公議」\n慶応三年一二月九日、薩摩藩と岩倉具視の主導で薩摩・土佐・安芸・越前・尾張五藩の軍事力を動員して、クー\nデターが決行された。「王政復古」が宣言され、幕府や摂関制を廃絶し「仮ニ総裁、議定、参与」の「三職」を置\nいて、「万機」を行うがその際は「至当ノ公議ヲ竭」せ、というのが「叡念」である、という「王政復古の大号令」\nが朝廷内(宮・堂上宛)に発令された。\nここに、仮の「公議」機関として、議事院としての三職会議(三職制)が創設された。しかし、三職のそれぞれ\nの職掌、二院制として構想された三職会議(議事院)の上・下院の権限や議事規則などは明文化されていない。\nクーデター直後の三職会議の様子を見ていこう。\n一二月九日に最初の議事院(三職会議)として開かれた、小御所会議(徳川慶喜の辞官納地問題が議題)の内容\nを大久保利通は次のように記している。\n小御所御評議、越公容堂公大論公卿を挫き傍若無人なり、岩倉公堂々論破不堪感伏、君公御議論、容堂公云々\n御異論、不得止予席を進ミ云々及豪論候、後藤中を取而論\n( ( (\n発言者は議定の松平慶永(「越公」)・山内豊信(「容堂公」)・島津茂久(「君公」)、および参与の岩倉具視・大久保\n利通(「予」)・後藤象二郎である。議定と参与が同じ議場で議論しているのである。上院(議定の諸侯)と下院\n(参与の公家・藩士)の区別はなされていない。\nこのことは、中根雪江「丁卯日記」でも確認できる。同日記は発言者について次のように記す。「中山殿より\n……叡旨之趣御発言……土佐侯大声を発して……公も又諄々として……弁論し給ひ……大久保一蔵席を進んで申陳\nし……岩倉卿……論弁を極められ…尾侯……答へらる、薩侯……答へられ……藝公……象次郎……論じて止ます\n(\n(1\n(\n」。\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n25 議\n定は慶永・豊信・茂久のほかに中山忠能・徳川慶勝(「尾侯」)・浅野茂勲(「藝侯」)が挙げられ、参与(岩倉・\n大久保・後藤)と同席している。\n一二月一三日の議事院(三職会議で議題は「王政復古の大号令」の修正問題)も「丁卯日記」は、「宮家」と\n「武家」の議定・参与はそれぞれ別に「議論」し、まとまったならば「官武一席」に評議していたと記している\n( (\n1 (\n。\n「宮家」と「武家」は別個に「議論」したが、最終的には議定と参与は同席しており、上下院の区別はなされてい\nない。\nこうした状況において、議定の山内豊信は一二月一二日に「議事ノ体」の開始(諸侯会議の開催)と三職会議の\n規則制定の建議(福岡孝弟の起草)を行う。建議は次のように言う。\n僅ニ三四藩ト謀リ……朝廷大変革御基本被為建……新ニ三職被立置、官武一途議事ノ意ヲ輿シ候儀幾乎御創業\nノ功ニ斉シク、実ニ御盛挙不過之ト奉存候……然ルニ……聊更始一新ノ意ヲ闕キ、此儘ヲ以日ヲ重子候テハ\n……注目偏ナルヘカラス、早ク議事ノ体ヲ起シ、召ノ諸侯大ナル者ヲ会シ、其未タ来会セサル者ハ急ニ之ヲ召\nシ、且三職評議ノ規則ヲ建テ……朝廷之意、実ニ公明正大ニシテ偏固ナラサル所以ヲ顕ハスヘシ\n(\n(1\n(\n三職を設置したことは「官武一途」で「議事ノ意」を興すことに「幾乎」(いくらか)「功」があったが、「僅ニ\n三四藩」で「建」てたことは、「一新ノ意」を欠いて「偏」っている。そこで、「公明正大」であることを「顕ハ\nス」ために、「議事ノ体」(諸侯会議)を開催するとともに、三職会議の「規則」を定めるべきである。\n山内豊信は、「三四藩」(実際は五藩)による議事院設立は偏ったものであると批判し、「公明正大」を表すため\nに諸侯会議の早期開催を要求している。土佐藩は前述のように、上京諸侯の会議での議事院創設を唱えており、諸\n侯会議を議事院の上に置く最高会議と位置づけていた。諸侯招集令は一二月一八日、「御下問之義被為在候ニ付、\n26\n迅速上京可有之\n(\n(1\n(\n」と出されている。そして、小御所会議(議事院)が議定と参与の同席で行われたことから、上下\n院の区別などを明確とする「規則」の制定を求めたのである。\nこの山内建議を受けるかたちで、一二月一五日に土佐藩参与の後藤象二郎と福岡孝弟が「三職評議ノ規則」に関\nする建議\n(\n(1\n(\nを提出している。同建議は冒頭で次のように言う。\n今般、大変革ヲ以、更始一新ノ御制度被為建候ニ付、三職被立置、太政官議事所御設ケニ相成、天下ノ公議ヲ\n執リ、御政務被遊候御旨趣ニ候ヘハ……仮ニ御規則相立、上ノ議事所、下ノ議事所御取分ケニテ、官武一途、\n公平簡易ヲ旨トシテ、御大政相始リ候様可被仰付ト奉存候、右ニ付、三職分課ノ次第ヨリ、諸藩士被召出ノ次\n第相立不申テハ紛雑可仕候……公議ヲ執ルヲ主トシ、被召出候者ハ貢士ト被命\n三職を設けて「議事所」を開設したことは、「天下ノ公儀」を採って「政務」を執行するという「旨趣」であり\n(「王政復古の大号令」で表明された趣旨)、「議事所」は上・下の二院制とする。そして、「公議ヲ執ル」ことを\n「主」とする貢士を設ける。このように「公議」採用が「議事所」と貢士であるとし、次いで検討を要する事項と\nして、「大政改革」・「議事所規則」・「三職差等分課」・「徴士貢士差別」・「諸侯会同盟約」など一六項目を列記して\nいるが、具体的な提議は「議事所規則」のみである。\n「議事所規則」では、上・下「議事所」の構成員と権限を次のように規定している。「上ノ議事所」は、総裁(親\n王)・議定(公卿・諸侯)・上の参与(公卿)で構成され、天皇は臨時の出席となる。「下ノ議事所」は徴士・貢士\n(諸藩士)と下の参与となっている。そして、議事の進め方については。まず、「上ノ議事所」から「下ノ議事所」\nに議案を下問し、「下ノ議事所」はそれを審議し、「上ノ議事所」に「建議」する。次いで、「建議」を受けた「上\nノ議事所」では、議定が「覆議」(くりかえし評議する)して総裁が「断」ずる。\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n27 こ\nのように、国家意思決定権は「上ノ議事所」が掌握し(最終決定者は総裁であり、天皇は臨席のみとなってお\nり、未だ天皇親政理念は表明されていない)、「下ノ議事所」は「建議」機関とされている。なお、これまで議事院\nとしてきたが、これからは建議に用いられている議事所と表記する。\nこの後藤・福岡建議が出された同じ一五日、「参與之儀、自今堂上向、上ノ参與ト称シ、諸藩士、下ノ参與ト称\n候事\n(\n(1\n(\n」、と参与の上下の区別がなされている。上下の参与が設けられたことは、議事所も上下二院制となったと考\nえられる。では、いつから実質的な二院制となったのであろうか。一二月一八日、王政復古を外国に通告する布告\n文を議題とする議事所(三職会議)が開かれた。大久保利通の日記や「丁卯日記」に拠れば、上下二院制のもとで\n行われたのかは不明である。\n二院制が確認できるのが、一二月二三日の三職会議(議題は徳川慶喜の辞官納地問題)である。大久保はこの会\n議について、「是迄於小御所御評議之節ハ、下参與一同列席ニ而候處、此御評議より越土公より言上之旨有之、列\n席無之候事\n(\n(1\n(\n」、と下の参与が議定らと「列席」できなくなった、と蓑田伝兵衛(藩庁)に報告している。「丁卯日\n記」も「(徳川領地の返上論は)上院に盛ん……(返上を)非とするの議、下院に専ら也\n(\n(1\n(\n」、と上下の二院制で行わ\nれた様子を記している。そして、翌日には上院の議定(公卿の中御門・正親町三条・長谷・万里小路)の「返上\n論」に対し、下院の下の参与(安芸・越前・尾張藩士)が三職会議とは別に個別に「百方手を尽し」強硬に反対を\n申し入れている\n(\n(1\n(\n。論戦の結果、「議定職中ニおひて中山卿始メ動き候而、勢不得止\n(\n(1\n(\n」、と「返上」の文字は削除され\nる。\n三職会議(議事所)の最終決定権は上院(上の議事所)の議定が掌握し、下院(下の議事所)は上院の下問に応\nじる機関である、という後藤・福岡建議の主張通リに運営されているようである。下院への下問については、翌慶\n28\n応四(一八六八)年一月二日の三職会議でも行われている。中根雪江『戊辰日記』は、同会議で会津・桑名藩上京\n問題と王政復古外国通告問題の二議案を、「下院へ御下け衆議之處\n( (\n2 (\n」と記している。\n「公議」政治を体現するものとして、薩土盟約の議事院(上下二院制)は、王政復古クーデターで三職制(議事\n院・太政官代)として創出された。議事院は当初未分化であったが、慶応三年一二月末には、上下議事所として動\nき出したのである。そして、「公議」とは、「官武一途」というように、公家(「官」)と諸藩(「武」)の意思を意味\nしていた。ところで、一二月末までに就任した参与は、『幕末明治 重職補任』に拠れば三一名に達している。そ\nの内訳は、公家九名、藩主一名、藩士二一名である\n( (\n2 (\n。前述のように大久保利通は「参与ノ職ニハ陪臣草莽トいえと\nも人傑を以御抜擢」と言っていたが、「草莽」からの登用はみられなかった。\n3\n 三職七科・三職八局と「公議」\n議事所(太政官代)として、三職会議が動き始めた慶応四年一月三日、山内豊信は徳川慶喜も加えて「朝廷ノ御\n規則」を制定することが、「今日ノ急務」であるという建議を行った\n( (\n2 (\n。議事所規則をはじめとする「朝廷ノ規則」\nは未整備であったのである。この山内建議の同日、鳥羽・伏見の戦いが始まり、翌四日には嘉彰親王(仁和寺宮)\nを征討大将軍に任ずる勅命が出された。そして、七日には議定・参与と在京の諸侯が小御所に招集され、徳川慶喜\n追討令が「叡慮」として発令された。一一日には諸侯に対し次のような沙汰書が出されている。\n兼テ被召設候儀ハ、全公平ノ衆議ヲ可被為採思召之所、豈図ランヤ突然干戈ニ至リ、終ニ大令被発候通ニ付、\n各国力相応人数引纏、速ニ上京可有之御沙汰候事\n( (\n2 (\n前年一二月一八日の諸侯招集令(前述)は「公平ノ衆議」を採るためであった。しかし、「突然」の戦乱(「干戈」)\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n29 に\nよって慶喜追討令が出されたので、軍隊(「人数」)を引き連れて上京せよ、という率兵上京の命令である。鳥\n羽・伏見の戦いは、諸侯を「公平ノ衆議」を採る最高会議の構成員から、軍事力を提供する存在に変えたのであ\nる。「公議」採用のための諸侯会議は中断され、以後開催されることはなかった。\n諸侯会議が中断されるなか、一月一七日に三職の職掌などを定めた「三職分課\n( (\n2 (\n」(三職七科制)が制定されてい\nる。前述の後藤・福岡建議の具体化であった。まず、三職の職掌と分課は次のように定められた・\n総裁は「万機ヲ総裁シ、一切ノ事務ヲ決ス」、議定は「事務各課ヲ分督シ、議事ヲ定決ス」、参与は「事務ヲ参議\nシ、各課ヲ分務ス」である。分課では、神祇・内国・外国・海陸・会計・刑法・制度の七課(科)となっている。\n後藤・福岡建議は、軍務・用度、外国、制度の四課を挙げていたので、神祇・内国・刑法の三課が追加されてい\nる。\n「万機ヲ総裁シ、一切ノ事務ヲ決ス」とされた総裁ではあるが、政務を分担する各課(七科)の議決権は、「議事\nヲ定決スル」とされた議定にある。これは、十二月の三職会議(議事所)で見たように、「上ノ議事所」の議定が\n会議の決定権を掌握していたことの明文化である。「三職分課」は総じてすでに開かれ、議定が決定権を握ってい\nた三職会議に基づいて、作成されたものと考えられる。総裁の名目的規定や天皇に関する規定が全くないことも、\nこのことに関連するであろう。\nしかしながら、「三職分課」で新たに登場した規定も存在する。副総裁と徴士・貢士である。副総裁は、各課の\n人員を示す達のなかで、総裁(熾仁親王)の次に記されている。したがって、職掌は明記されずに議定三条実美\n(外国事務総督兼任)と同岩倉具視(海陸・会計事務総督兼任)の名前が挙げられているのみである。副総裁の設\n置経緯を示す史料は見当たらず、その意図は不明と言わざるを得ない。総裁の熾仁親王が東征大総督に兼任で就任\n30\nするのは、後述のように二月九日である。九日以後の副総裁設置ならば、総裁の出陣による京都不在に対応する措\n置であろうが。\nまた、一月二五日に木戸孝允が同月二七日に大久保利通が、それぞれ「総裁局顧問」に任じられている\n( (\n2 (\n。「総裁\n局」は、その後の二月三日の三職八局制(後述)で設置される部局であるが、すでに登場しているのである。「総\n裁局」は三職八局制以前に設けられていたのか否か不明である。\n次に、徴士・貢士に移ろう。両者とも名称のみならば、すでに後藤・福岡建議で「下ノ議事所」の構成員として\n掲げられていたが、「三職分課」で詳細にその規定がなされている。徴士は諸藩士や「都鄙有才」から「選挙抜擢」\nし、参与に任じて「下ノ議事所」の「議事官」、もしくは各課の掛とする。「選挙ノ法」は「公議」によって「抜\n擢」するものとする。「公議」と言っても政府内の「公議」でしかない。これに対し貢士は次のような規定になっ\nている。\n諸藩士、其主ノ選ニ任セ、下ノ議事所ヘ差出者ヲ貢士トス、則議事ニ輿リ、輿論公議ヲ執ルヲ旨トス\n貢士は「與論公議ヲ執ルヲ旨」として、諸藩から選出し(四〇万石以上の大藩は三名、一〇~三九万石の中藩は\n二名、一~九万石の小藩は一名)、徴士とともに「下ノ議事所」の「議事官」するものである、すなわち。「公議」\n採用として位置づけられたのが貢士であり、その「公議」として想定されていたのは各藩の意思であった。戊辰戦\n争の勃発により、前述のように「公平ノ衆議」を採るための諸侯招集が断念された状況下、各藩の意思を集約する\n必要から貢士が制度化されたのである。政府はこれまで上下の議事所を一体として、公武の「公議」機関として位\n置づけてきた。ここに貢士と徴士を「議事官」とする下の議事所を、「公議」機関として特化し、藩の意思を「公\n議」としたのである。それは、公家が「公議」から除かれたことを意味するであろう。\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n31 上\nの議事所が下の議事所に下問して裁決するという、慶応三年一二月の後藤・福岡建議はここに基本的に実現\nし、「公議」に基づく議事制度がスタートする。一月二八日に東征が決定された経緯について、中根雪江『戊辰日\n記\n( (\n2 (\n』は次のように記している。\n此日(二七日)於官代……下参與不残御呼出に而、岩倉殿被申聞候……関東御征伐之大兵を被挙候御決評なり\n……右に付熟考之上見込通りも有之候はゝ明朝申達様御演達有之(一一九頁)\n廿八日今日於官代関東御征伐御決定之議事有之、下参與之面々意見御尋に付出席之上、座中中根雪江より及御\n答候……御征伐当然之御儀たるへき……衆議大同小異に而遂に御決評と相成(一二三頁)\n一月二七日、副総裁岩倉具視が「官代」(議事所)に下参与を呼び出し、「関東征伐」(東征)の「見込」提出を求\nめた。翌二八日に「官代」で東征の「議事」を開き、下参与の意見が「大同小異」であることから東征を「決評」\nしているのである。下の議事所の「公議」を聴取し、上の議事所での決定である。\nそして、二月三日に「親征」の令が発せられる。この経緯について中根雪江『戊辰日記』(一五〇頁)は次のよ\nうに記す。\n主上今日巳刻太政官代へ行幸被為在、御親征之儀被仰出之、御垂簾に而群議被為聴、下参與之向へも御下問有\n之、何も奉畏候段御請申上候\n天皇が「太政官代」(上の議事所)へ「行幸」(臨席)し、「親征」についての「群議」を聞き、下参与へも下問し\n了承を得て、「親征」の令を発している。後藤・福岡建議で天皇の上の議事所への出席は「臨時」とされていた。\n天皇は一二月九日の第一回小御所会議に出席したが、その後の議事所への出席は確認されない。「臨時」の出席の\n最初の事例である。\n32\n天皇親臨のもとで「親征」が発令された二月三日、三職七科制から三職八局制\n( (\n2 (\nに改編されている。総裁局の新設\nである。前述のように「総裁局」という名称は、木戸を「総裁局顧問」に任じた一月二五日にすでに現れていた\nが、官制上に初めて明記された。総裁局は、総裁・副総裁・輔弼・顧問・弁事・史官で構成されているが、職掌は\n記されていない。「万機ヲ総ヘ、一切ノ事務ヲ裁決ス」という総裁と同じ権限を持つ副総裁をトップとしているこ\nとから、八局のなかでは最も中核を占める局であった。前述のように、その局の顧問に木戸と大久保が就任してい\nたのである(二月二二日には大久保に代わって小松帯刀が、新たに後藤象二郎が就いている)。\n総裁の有栖川宮熾仁親王が、二月九日に東征大総督となって二月一五日に出陣する。以後の実権は副総裁の三\n条・岩倉が握ることになる。また、輔弼には中山忠能と正親町三条実愛が就いている。岩倉・中山・正親町三条・\n大久保・後藤という、王政復古クーデターを決行した人物が、政府の中枢を担う体制となったのである。\n三職八局制は、このように総裁局の新設をもたらしたのであるが。「公議」の観点からも無視できない重要な改\n編であった。それは、三職七科制で「公議」機関として特化された下の議事所の改編である。下の議事所の「議事\n官」であった、徴士・貢士のうち貢士の規定は、ほぼ同文(「下ノ議事所ヘ差出ス者ヲ貢士トス、則議事官タリ輿\n論公議ヲ執ルヲ旨トス」)であるが、徴士は次のように改定されている。\n諸藩士及都鄙有才ノ者、公議ニ執リ抜擢セラル則徴士ト命ス、参與職各局ノ判事ニ任ス、又其一官ヲ命シテ参\n與職ニ任セラル者アリ\n徴士は、「参與職各局ノ判事ニ任ス」と これまでの下の議事所「議事官ニ在リ」という語句が削除されている。\nすなわち、下の議事所から徴士が外され、「議事官」は貢士のみとなったのである。換言するならば、「公議」機関\nである下の議事所で、貢士だけを「輿論公議ヲ執ル」官員とする制度となったのである。\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n33 こ\nの改編を経た二月一〇日、次のような貢士選出方法の達が出された。\n一大藩 三員 一中藩 二員 一小藩 一員\n右ハ、今般王政御一新被為仰出、輿論公議ヲ執リ候御趣意ヲ以、各藩ヨリ貢士トシテ、太政官ヘ指出候様被仰\n付候絛、其御趣意ニ相基キ、国々国論ニモ可相代者、人選有之、指出候様御沙汰候事\n( (\n2 (\n王政復古による「輿論公議ヲ執」る「趣意」のもと、各藩から貢士を差し出すという「趣意」に基づき、今後は各\n藩とも「国論」(藩論)を代表する「者」を貢士として人選するようにせよ。「輿論公議」を各藩の意思とし、その\n「公議」を具現化するものとして貢士を位置づけたのである。したがって、三月二九日には次のような達が出され\nている。\n各藩ヨリ貢士指出候御趣意ハ、先達テ御沙汰之通候處、主人議定或ハ参與等被仰付置候藩々ハ、勤役中其儀ニ\n不及候、尤在勤中タリトモ、貢士指出度輩は、勝手次第ニ相心得候儀被仰出候事\n( (\n2 (\n藩主が議定もしくは参与である藩は、必ずしも貢士を選出する必要はないと言う。貢士は、あくまでも藩論(「公\n議輿論」)を採るための官員とされたのである。前述のように一月一一日に「公平ノ衆議」を採るための諸侯会議\nは中断されていた。諸侯に代わるものとして貢士が位置づけられたのである。\nこのように、貢士が藩論(「公議輿論」)代表者となる一方、徴士については次の達しが二月一一日に出されてい\nる。\n自各藩、徴士被仰付候者ハ、奉命即日ヨリ朝臣ト相心得、勿論旧藩ニ全ク関係混合無之御趣意ニ候間、此旨厚\n相心得可申事\n( (\n3 (\n徴士は「奉名」した即日から「朝臣」であり、「旧藩」には「全ク関係混合」がないものとする「趣意」を心得よ。\n34\n徴士は「公議輿論」である藩論から切り離されたのである。\n二 政体書と「公議」\n1\n 五か条の誓文と宸翰\n王政復古の大号令では天皇の名が見えず、最初の官制である「三職分課」やその改編である三職八局制において\nも天皇は明文化されていない。王政復古とは、天皇親政の登場であると筆者はとらえており、拙稿\n( (\n3 (\nで王政復古と天\n皇親政の関係を考察した。明治天皇が即位したのは満一四歳であり、王政復古の時点では元服前であった。元服は\n慶応四年一月一五日であり、「三職分課」の二日前であった。この元服前後からようやく、天皇親政に関わる文言\nが現れてくる。最初の例が慶応四年一月一〇日の王政復古を外国に通告する「国書」である。ここで、「天皇」は\n「内外政事」を「親裁」すると表現され、この「国書」は一月一五日に六カ国(仏・英・伊・米・孛・蘭)に手交\nされた。そして、国内に向けて最初に天皇親政の理念が示されたのは、二月二八日に天皇が在京都の諸侯を学問所\nに招集して発した、次の詔書である。\n朕夙ニ天位ヲ紹キ、今日天下一新ノ運ニ膺リ、文武一途公儀ヲ親裁ス、国威之立不立蒼生之安不安ハ、朕カ天\n職ヲ盡不盡ニ有レバ、日夜不安寝食甚心志ヲ労ス、朕不肖ト雖モ列聖之餘業、先帝之遺意ヲ継述シ、内ハ列藩\n萬姓ヲ撫安シ、外ハ国威ヲ海外ニ輝サン事ヲ欲ス\n( (\n3 (\n(後略)\n天皇が「公儀ヲ親裁ス」という文言が、在京諸侯に示されたのである。ここでは、「公議」ではなく「公儀」と\nなっている。しかし、後述の宸翰には「公義」と記されていることから、「公儀」や「公義」も「公議」と同じ意\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n35 味\nで使用されているとみなされる。なお、『戊辰日記』(二二四頁)所収の「詔書」では、この箇所は「親裁を以万\n機を断決す」となっている。総裁の職掌である「万機ヲ総へ、一切ノ事務ヲ採決ス」という、最終決定権は天皇に\n所属するという天皇親政の表明である。この表明後の三月九日、天皇は「太政官代」(上の議事所)に出席し、三\n職に蝦夷地問題を下問している。\nこうした経緯を経た三月一四日、「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ」を第一条とする五か条の誓文とその\n趣意を説く宸翰が出される。誓文は、天皇が公卿と諸侯を率いて「天地神明」に誓い、公卿らに誓約を求めてい\nる。「万機公論ニ決スベシ」とあっても、前述のようにその二週間ほど前に「公儀(議)ヲ親裁ス」という表明が\nなされていた。\n宸翰でも、「朝政一新……古列祖の盡させ給ひし蹤を履み治蹟を勤めてこそ、始て天職を奉して億兆の君たる所\nに背かざるべし、往昔列祖万機を親らし……私見を去り公義を採り、朕が業を助て神州を保全し、列聖の神霊を慰\nし奉らしめ\n( (\n3 (\n」と述べられている。「古列祖」が「万機」を「親ら」行ったことを「履み」、「治蹟」を「勤める」こ\nとが天皇の「天職」であり、「私見を去り公義を採」ることとすると言う。\n誓文と宸翰の両者からは、天皇が「公論」・「公義\n( (\n3 (\n(公議)」を採って、「万機」を親裁するという、天皇親政理念\nが指摘できる。後年ではあるが、誓文にも関係した福岡孝弟は「誓文ノ大精神ハ……天皇御親政ノ下ニ於テ公議輿\n論ヲ採納シ、天下ノ政治ヲ運用スルニアル\n( (\n3 (\n」と述懐している。\n誓文・宸翰が出された後の閏四月四日、誓文に「基」づいて天皇が「親裁」を行うという、次の「書附」が行幸\n先の大坂で公卿・諸侯に対して出された。\n御誠誓ニ被為基、已後屡浪華ニ行幸、官代ヲモ被為置、万機御親裁、内外之大勢御統被為遊候叡慮之旨、被仰\n36\n出候ニ付、上下厚ク奉体シ、各々其分ヲ可盡御沙汰候事\n( (\n3 (\n2\n 政体書と貢士\n五か条の誓文を「目的」として、閏四月二一日に「政体\n( (\n3 (\n」が制定される(布告文中では「政体」と記されている\nが、ここでは通称となっている政体書という名称を使用する)。\nまず。「天下ノ権力、総テコレヲ太政官ニ帰ス」、とこれまでの「太政官代」から「太政官」と表記している。こ\nれは、「太政官代」が議事所であったことから、政府の官職全体を示す呼称として「太政官」を用いたことを意味\nする。次いで、「太政官ノ権力ヲ分ツテ立法、行法、司法ノ三権トス」、と三権分立制を取り入れて太政官を七官に\n分ける。「立法」権の議政官、「行法」権の行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官、「司法」権の行法官である。\n七官のなかで三職八局制と同じ名称は、神祇・外国・会計・刑法の四官であり、軍務は軍防の改称であるので、\n七官のなかで五官は継承となる。新設は、議政官と行政官であり、この二官が最も重要な位置を占める官職とな\nり、総裁局と内国局は姿を消している。\n議政官は上・下の二局制をとり。上局は「政体」・「法制」などを決議し、下局は上局の「命」(下問)を受け、\n「租税」や「駅逓」の章程など一二項目の「条件」を「議」(審議)して上局に上申する。上局は従前の上の議事\n所、下局は下の議事所を引き継ぐものとなっている。上局には議定と参与、下局には弁事二名を議長とし、貢士を\n議員としている。\n行政官は、新設の輔相(二名の議定が就任)と弁事(八局制の総裁局に設けられていた官員で一〇名)などで構\n成されている。輔相の職掌は。天皇を「輔佐」して、議政官の「議事」を天皇に「奏宣」(申し上げる)し、国内\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n37 事\n務を「督」(統率)し、宮中を「総判」する。この職掌から見ると、行政官は消滅した総裁局と内国局の後継と\nして設けられたのであろう。\nこのように政体書によって、三職のなかでは総裁が廃止されている。これは、天皇が「万機」親裁するという天\n皇親政理念が表明されると、これまで「万機ヲ総へ一切ノ事務ヲ採決」するとされた総裁の必要性が無くなったこ\nとによる。行政官に「万機親裁」する天皇を「輔佐」する輔相を設けた所以である。\n存置された議定と参与は、両職とも議政官上局に所属する立法官となった。しかし、議定のうち二名は、前述の\nように輔相として行政官にも所属する。また、行政官の弁事は一〇名のなかで二名が議政官下局の議長となってい\nる。三権分立制を導入し、立法官と行法官の兼任を禁じているが、立法・行政の完全分立とはなっていない。後述\nするように立法・行政の混合により、議政官は廃止されることになる。\nそれでは、政体書によって「公議」はどのように位置づけられたのであろうか。政体書で「(議政官下局の)議\n員トス、議事ノ制ヲ立ツルハ、輿論公議ヲ執ル所以ナリ」、とされたのが貢士である。貢士規定の相違は、七科制\n以来各藩からの選出であったものが、府・藩・県より選出することになったことである。府藩県三治体制に基づ\nき、藩のみならず府県にも「輿論公議」の対象を拡大したのである。\n政体書での「公議」機関は、議政官下局(八局制の下の議事所の後身)となり、その議員である貢士が「輿論公\n議ヲ執ル」官員とされたのである。そして、天皇親政のもと国家意思決定プロセスは、議政官の議事(議政官下局\nの「公議」による審議を経て上局が決定)→行政官の輔相→輔相の奏宣→天皇の裁決と定められた。政体書と同日\n(閏四月二一日)、「毎日辰刻御学問所へ出御、万機之政務被為聞食候間、輔相ヨリ遂奏聞候様仰付候\n( __________(\n3 (\n」と、「万機」\nの政務は輔相の「奏聞」により天皇が親裁する、という布告が出される。\n38\n議政官下局の議員となった貢士に対して早速閏四月二九日、軍制・理財・東征の三項目について各自の「見込」\nを提出せよ、という「下問」がなされている\n( (\n3 (\n。そして、五月二四日に貢士は「貢士対策所」に建議せよ、という\n「貢士対策規則\n( (\n4 (\n」が制定される。「対策」とは建議を意味している。同規則によれば、貢士は政体書で定められた\n「租税」の章程など一二項目の「条件」について、毎月五・一五・二五日に「建策」を「対策所」に持参すること\nとされた。そして、建議にあたっては、「誇大空想之論」に渉ることなく、「時宜之適用」を主として「著実施行」\nできることが求められている。\n下局議員としての定期的な貢士活動のスタートである。『復古記』六(二二頁)に拠れば六月五日に「租税」の\n章程、一五日に「駅逓」の章程、二五日に「衣服」、七月五日に「造貨幣」、二五日に「定権量」の建議がなされて\nいるようである。しかし、定期的な「対策」も八月一日に「議事之体裁」の改正によって廃止される。以後は、上\n局からの「臨時」の「下問」に対する建議となる。\nこの間の五月二七日、諸藩の「留守居役」を廃し、新たに「公務人」を設置して貢士が担当する、という達が出\nされている\n( (\n4 (\n。このねらいは、貢士を「国論」(藩論)の代表を「職分」とする「公務人」として、「朝命ヲ奉シ、其\n藩論ヲ振起」させ、「朝廷之御趣意、諸藩之情実脈絡貫通」させるとあるように、朝廷(政府)と各藩の意思疎通\nを図ることにあった。\n五か条誓文で掲げられた「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ」という項目の内実は、政体書による官制にお\nいては、次のようにとらえられる。「万機」は、議政官上下局という「会議」で、上局の下問を受けた「公論」\n(「輿論公議」)を担う下局の貢士の議を経て、上局が決定し、最終的には天皇によって「断決」される、という天\n皇親政に基づく「万機」決定方式である。まさしく、「公儀(議)ヲ親裁」するものであり、「公議」とは具体的に\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n39 は\n「藩論」を意味していたのである。\n三 公議所と「公議」\n1\n 議政官の廃止\n八月二〇日、「公務人」は「公議人」と改称される。そこでは、「公議人」は「議員ニシテ、朝命ヲ奉承シ、藩情\nヲ達スルヲ旨」とするとある。これまでの「議員」は貢士であった。それが「公議人」となったのである。貢士の\n名称の実質的廃止となろう。議政官下局の議員は、貢士から公議人となったのである。\n各藩に公議人の選出が求められていた九月一九日、議政官が廃止される(議政官の行政官への合併)。通達文は\n次のように言う。\n議政、行政之分別ヲ以テ議事ノ制可被為立筈之處、自然実情ニ於テ議政亦行政之事ト相成、立法官、行政官ヲ\n相兼候様成行、遂ニ議事之制難相立候……姑ク議政官ヲ被廃、議、参両職並ニ史官共、其儘ヲ以テ行政官ニ入\nリ……別ニ議事之制取調候一局ヲ開キ、大ニ右制御興立可有之様被仰出候事\n( (\n4 (\n「議政」と「行政」の独立により「議事ノ制」を立てようとしたが、「実情」は両者が混合し、「議事之制」を立て\nることが困難となったことから「姑ク」議政官を廃止する。議政官上局の議定・参与・史官を行政官に移すとある\nが、議政官下局の貢士については措置が記されていない。貢士の後身である公議人は存置されたが、その所属先が\n消滅したのである。\n行政官が立法官を吸収合併するものであり、三権分立制の放擲である。通達文は「即時政体書変革ニハ不相成\n40\n候」と述べているが、明らかに政体書の「変革」であった(その後、翌二年四月一二日に議政官は復活するが、一\nカ月後の五月一三日に再び廃止される)。\n政体書体制での議事制度樹立が困難となったのである。「議事之制」を興すために別に「議事之制取調候一局」\nを設け、改めて議事制度樹立に向けての模索が始まる。「議事体裁取調方総裁」に山内豊信、「取調御用」に秋月種\n樹・福岡孝弟・大木喬任・鮫島尚信・森有礼・神田孝平(福岡は九月二七日に依願免職)が任命されている。\nこの二日後の九月二一日、行政官から改めて「議事之制」を「興立」することになったので、諸藩に「藩論」を\n一定して「公議振興」の尽力を要請する達\n( (\n4 (\nが出される。そこでは、冒頭に「議事院之儀ハ、広ク会議ヲ興シ、万機\n公論ニ決スルノ御旨趣ニシテ、最重大之挙ニ有之」と掲げられている。そして、これまで公議人を置いて「対策」\n(建議)を試みたが、「空文」に流れる「弊風」が生じたとする。今後は「国家実用之輿論公議」を興す必要があ\nる。「藩論」が未定であると、公議人が「徒ニ空論浮議ニ渉リ、一己ノ私見ヲ以テ衆説ニ雷同致ス」ことを理由と\nして、「藩論」の一定を求めている。\n「公論」とは、「私見」による「空理空論」の「衆説」ではなく、「国家実用」の「輿論公議」であるとし、一〇\n月二三日には、各藩公議人に「下問」に対しては「至正公平」の「定論」で奉答するよう要請する。そこにも、\n「議事之儀ハ……藩論ヲ一定シ大ニ国家実用ノ公議ヲ御興立被為有度思食\n( (\n4 (\n」であると述べられている。\n2\n 公議所の設立\n一一月一九日、議政官廃止通達(九月一九日)で触れられた「議事之制取調候一局」が、「議事体裁取調所」と\nして設立され、議政官廃止により所属先がなくなっていた公議人を管轄することにした\n( (\n4 (\n。各藩公議人に対しては、\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n41 一\n二月六日に次の達が出される。\n万民ヲ保全シ永世不朽之皇基ヲ確定スルハ、固ヨリ万機公論ニ出ルニ在テ、御誓文之大本ニ候、依テ当夏議政\n行政ノ御制度相立、各府藩県ヨリ徴貢士之法御設相成候儀、即御政体之通リニ候、然處春来兵禍引続候ヨリ御\n誓文之御趣意或ハ未タ周達セサルモ有之候處、当今追々四方鎮定……広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシトノ\n御趣意ヲ以、今般……東京旧姫路邸ヲ以、当分公議所ト御定相成、来春ヨリ開議致シ候様被仰出候間、各彼我\n之私見ヲ去リ公明正大之国典確立之處ニ熟議ヲ遂ケ、御誓文之御趣意致貫徹候様御沙汰候事\n( (\n4 (\n「万機公論ニ出ル」という五か条の誓文の「大本」に基づき、政体書で「議政行政ノ制度」により徴士・貢士が設\nけられたが、「兵禍」(戊辰戦争)により誓文の「趣意」は「周達」できなかった。ようやく「四方鎮定」(九月\n二二日会津藩、二三日米沢藩、二五日盛岡藩降伏)したことから、誓文の「趣意」によって来春、東京の旧姫路藩\n邸に「公議所」を開設することになった。「私見」を去って「公明正大之国典」を確立するため「熟議」するよう\nに。\n政体書による「公議」機関(議事制度)の樹立が困難となり、改めて「議事体裁取調所」によって創設されたの\nが「公議所」である。それは、「私見」ではない「公明正大」の「国典」を確立するため「熟議」する機関とされ\nたのである。\n一二月一〇日、公議所を翌年(明治二年)二月一五日に開設し、公議人は執政(藩主を補佐する藩政全般の責任\n者)・参政(執政に次ぐ藩政実務の責任者)のうちから一名とする、という布告が出される。これまでの「公議」\n機関の公議人は、貢士に見られるように藩から選出するものであり、藩の主体性を重視して職務指定などはなかっ\nた。それに対し、「私見」をとらないとみなされた藩政責任者による、「公明正大」な「国典」を議論する「公議」\n42\n機関として、公議所は創設されたのである。\n明治二(一八六九)年二月二五日(一三日に開設予定日の延期が通達されていた)、次の公議所開設の詔書が出\nされた(実際の議事開始は三月七日からとなる)。\n朕将ニ東臨公卿群牧ヲ会合シ博ク衆議ヲ諮詢シ、国家治安ノ大基ヲ建ントス……公議所……速ニ開局シ……人\n情時勢ノ宜ニ適シ、先後緩急ノ分ヲ審ニシ順次ニ細議シ、以テ聞セヨ、朕親シク之ヲ裁決セン\n( (\n4 (\n広く「衆議」を「諮詢」して、国家治安の「大基」を立てるために公議所を開き、「細議」したことを天皇が「裁\n決」すると言う。公議所は「諮詢」(諮問)機関として、三職七科・八局制での下の議事所、政体書での議政官下\n局の後身として設立されたものである。\n議員となる公議人は、藩政の責任者であり藩論を代表する執政・参政から選出される。これは、政府と藩の意思\n疎通を図り。府藩県三治体制を徹底させる意図であった。ここでも、「公議」はあくまで藩論を意味していたので\nある。\n公議所開設前の一月一八日の「議行両官規則\n( (\n4 (\n」(前述のように議政官と行政官は合併されていたので「議行両官」\nとなる)に付された「議事座式」の「御学問所ヘ出御、萬機被聞食候ニ付、輔相議参御前ヘ参上可請宸断事」、開\n設後の四月二〇日の「諸官規則\n( (\n4 (\n」には「従前ノ規則ヲ改正シ又ハ新ニ法制ヲ造為スル等、重大之事件ハ其官ニ於テ\n決議ノ上、更ニ輔相ニ達シ天裁ヲ受ヘシ」と規定されている。輔相の輔弼による天皇の最高・最終的決定、という\n天皇親政が制度化され、「公議」機関である公議所にあっても、諮問機関として国政そのものに直接関与すること\nはできなかった。\n天皇親政のもとでの「公議」(議事院)の位置について、岩倉具視は一月二五日の輔相三条実美宛意見書で次の\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n43 よ\nうに主張している、周知の意見書ではあるが掲げておこう。\n一 議事院ノ事\n(前略)皇国ニ於テ公論ヲ採ルハ既ニ神代ニ昉マレリ……速ニ議事院ヲ設置スヘシ。抑大政維新ノ鴻業ハ……\n天下ノ公論ニ由テ成就ス……主上天資聡明英智ノ渉ラセラルルモ、猶御幼年ニ在ラセラレ御親ラ中興ヲ謀ラセ\n給ヒシト云ニ非ス。天下ノ公論ヲ聞食サセラレテ、其帰著スル所ヲ宸断ヲ以テ之ヲ定メ給フモノニシテ、実ニ\n公明正大ノ御盛業ナリ。是故ニ将来ニ於テモ議事院ヲ設置シ、施政ノ法度ハ衆議ニ附シタル上、廟議一決シ、\n宸裁ヲ経テ施行セバ、縦令異論百出スルモ容易ニ之ヲ変更スルコトヲ得ズ、此ノ如クナレバ、朝権自ラ重ク\n億兆之ヲ信シ、朝令暮改ノ誹謗ハ自然ニ弭止スヘシ、然ラザレバ……人心ノ乖離スルコト益ス甚シカラン、議\n事院ヲ設置スルハ五箇条御誓文ノ御趣意ヲ拡充スルニ存ルナリ\n( (\n5 (\n施政の「法度」は「衆議」に付し、「廟議」で決議し「宸裁」で最終的に決定して「施行」すれば、「億兆」(国民)\nはそれらを信じて、「朝令暮改」という批判は出なくなる。公議所は「衆議」に付す議事院として、「朝権」(朝廷\n=天皇の権威)を重くするために設立されたのである。公議所は、下問のほか議員や議員外からの議案について、\n三月七日から六月七日まで計一八回の会議を開いている\n( (\n5 (\n。\nなお、公議所が会議を開いた五日後の三月一二日、建白を取り扱う官庁として待詔局が設置されている。その設\n置布告には「言路」を「洞開」して「上下一致」するため、有志は「草莽卑賎」に至るまで「建言」するようにと\nある\n((5 (\n。\n44\n四 太政官制と「公議」\n1\n 職員令と集議院\n議政官の廃止、再設置、再廃止というように、ほころびを見せ始めた政体書に替わって、七月八日に制定された\nのが職員令\n( (\n5 (\nである(八月二〇日に改定される)。同令の草案を示した六月二三日の下問書\n( (\n5 (\nに、「旧名ノ名ニ拠テ更始\nノ実ヲ取リ斟酌潤飾」、とあるように「旧名」(律令制)に拠って太政官が設けられた。政体書の太政官は政府官職\nの総称であったが、ここでの太政官は古代と同様に配下に諸省を置く最高官である。明治太政官制の出発である。\n太政官には、天皇を「輔佐」し、大政を「紗理」(統轄)して官事を「総判」する左大臣と右大臣、大政に「参\n預」し可否を「献替」(善をすすめ悪をやめさせる)して宣旨に「敷奏」(意見を述べる)する大納言と参議が置か\nれる。そして、太政官のもとに執行機関である、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務の六省が置かれる。政体書\nでの三権分立の試みは、議政官の廃止に見られるようにすでに崩れ去っており、三権は太政官に一元化されたので\nある。\nこの太政官制のもとで国家意思は、八月七日の「太政官規則」に「小御所出御、大臣納言参議列坐、議事万機宸\n断之事\n( (\n5 (\n」とあるように、天皇臨席のもと左右大臣・大納言・参議が「議事」し、「宸断」で決定するとされた。天\n皇親政による意思決定である。そして、八月一〇日の三職(左右大臣・大納言・参議)の「誓約書」は次のように\n記している。\n万機宸断を以て施行すべきハ勿論たりと雖も、公論に決するの御誓文ニ基き、大事件は三職熟議し、諸省卿輔\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n45 弁\n官亦ハ待詔院集議院へ其事柄ニ依り諮問を経たる後、上奏宸裁を仰く可き事\n( (\n5 (\n天皇親政のもと「万機宸断」であるが、「公論に決する」という五か条の誓文に基づき、天皇の独断で「施行」す\nるのではなく、三職が「熟議」し、諸省や「待詔院」および「集議院」に「諮問」した後、上奏して「宸裁」を仰\nぐ、という「誓約」である。\n諮問機関として挙げられている、待詔院と集議院はともに職員令で設けられた官庁である。待詔院はそれまでの\n待詔局、集議院は公議所の改称である(七月八日に「公議所ヲ集議院ト改称可致」という達が出されている\n( (\n5 (\n)。待\n詔院は建白取扱いが職掌であるので、「公議」機関という観点から公議所の後身である集議院をみていこう。\n九月(日欠)、「集議院規則\n( (\n5 (\n」が制定されている。冒頭に三月の公議所開設の詔書を掲げ、第一条は「集議院ハ広\nク衆議ヲ諮詢シ、国家治安ノ大基ヲ建タマフ御心ニ體シ奉リ、億兆心力ヲ盡スノ場所ナリ、故ニ議事ハ詔書ヲ遵奉\nシ太政官ト心志ヲ合シ、専ラ政治ノ根本ヲ旨トシ、普ク時務ニ渉リ皇国内気脈睽離セサルヲ要ス」とある。この条\n文に公議所の継承と相違点が凝縮されている。すなわち、天皇が「衆議ヲ諮詢」して「国家治安ノ大基」を立てる\nための諮問機関である、という点は公議所と同じである。このように職員令での「公議」機関は、「衆議」を「諮\n詢」する集議院となったのである。\n相違点は、議事は詔書を「遵奉」して太政官と「心志」を合わせ、国内の「気脈」が「睽\nけい\n離り\n」(相反し離れる)\nしないことが必要である、という箇所にある。すなわち、集議院は太政官との一体性が求められたのである。\n太政官との一体性は、第二条で議案は「太政官ヨリ下スベシ」に現れている(集議院からの提案も認めている\nが、あくまで太政官の「公議」を経なければならないとされている)。公議所では議員や議員以外からの議題提起\nも認められていたことに対し、集議院は太政官の「諮詢」機関としての強化であった。\n46\n議員は、府藩県三治体制の徹底意図から、府藩県政の責任者(大参事・権大参事)から選出する(第六条)。公\n議所と同様、藩と政府との意思疎通という意図である(府県は政府直轄地)。ここでも「衆議」の対象となってい\nるのは、「藩論」に他ならなかった。なお、一〇月(日欠)に「集議院規則追加\n( (\n5 (\n」が出され、建白受理機関として\n建白取扱規則が定められている。\n集議院は、八月二七日に最初の会議を開き、以後一二月二日まで断続的に開会されたが、一二月二七日には「当\n分重大之議事無之ニ付閉院」するいう達が出されている\n( (\n6 (\n(「建言取扱之儀ハ可為是迄通事」と建白受理は継続とし\nている)。太政官の「諮詢」機関であることから、開閉会の主導権は太政官にあったのである\n集議院での「衆議」(「公議」)と「藩論」の関係は、翌三(一八七〇)年三月一四日に出された「弁官口達」に\n次のように示されている。\n昨年中差出シ候議員ノ内ニハ、藩政ニ預カラサルモノ……有之趣、右ハ藩論御採聴ノ御趣意貫徹イタサス不都\n合ノ事ニ候、此度議院御開キ相成候ニ付テハ、兼テ被仰出候通リ藩政向キ篤ト相心得候モノヲ選挙シ、藩論洞\n徹実地適用ノ議事相立候様厚ク相心得可申候事\n( (\n6 (\n藩政に関与していない議員がいることは、「藩論」を「採聴」するという集議院の「趣意」が「貫徹」できず「不\n都合」である。今後は、藩政に精通している者を「選挙」して、「藩論洞徹」して「実地適用」の議事が立つよう\nに「心得」よ。集議院で求められた「衆議」とは、「藩論」であったのである。\n集議院が再開したのは三年五月二八日であり、そこで下問(「諮詢」)されたのが「藩制」案であった。「藩制」\nは、府藩県三治体制の徹底のため、藩への統制強化による画一化を進め、中央集権化をめざすものである。集議院\nでの議論は、七月一日まで一二回にわたって行われたが、その内容は拙著に譲る\n( (\n6 (\n。集議院の議論を受けて一部修正\n明治維新と天皇親政(3) ―明治太政官制と「公議」―\n47 の\nうえ、「藩制」は九月一〇日に公布される。藩への統制を強める法案については、やはり「藩論」を「採聴」し\nなければならなかったのである。集議院が再開されたのは、「藩制」案の諮問のためであった。\n「藩制」公布と同日の九月一〇日、集議院に対し「閉院被仰出候事」という達が出された。そして、議員に対し\nては同日に「今般藩制被仰出走候ニ付テ一同帰藩被仰付候事\n( (\n6 (\n」という達が出されている。その後、集議院が再び開\nかれることはなかった。\n集議院は、「藩論」という「公議」を「採聴」する諮問機関であった。太政官政府は、藩への統制強化をもくろ\nむ「藩制」の実施には、「藩論」を「採聴」する必要があった。集議院の「閉院」は、「藩制」制定後は「藩論」と\nいう「公議」を考慮せずに政策を展開する、という太政官政府の方向を示すものであった。「藩制」制定後の明治\n三年一一月末、大久保利通の主導により、諸藩のなかでもとくに薩長両藩に依拠し、広く「藩論」を「採聴」する\nことなく、中央集権化を図る方針が決定される\n( (\n6 (\n。\n2\n 太政官三院制と「公議」\n集議院を設けた職"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorAffiliations": [{"affiliationNameIdentifiers": [{"affiliationNameIdentifier": "", "affiliationNameIdentifierScheme": "ISNI", "affiliationNameIdentifierURI": "http://www.isni.org/isni/"}], "affiliationNames": [{"affiliationName": "", "affiliationNameLang": "ja"}]}], "creatorNames": [{"creatorName": "勝田, 政治", "creatorNameLang": "ja"}, {"creatorName": "カツタ, マサハル", 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明治維新と天皇親政(3) : 明治太政官制と「公議」
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.5 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2023-05-18 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 明治維新と天皇親政(3) : 明治太政官制と「公議」 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | Meiji-ishin and the Personal Government of an Emperor(3) : The Meiji Dajokan system and Public opinion | |||||
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見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Article | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
勝田, 政治
× 勝田, 政治× KATSUTA, Masaharu |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 200901080899858141 | |||||
書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokushikan shigaku 巻 27, p. 19-59, 発行日 2023-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 210.61 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 312.1 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
明治維新 天皇親政 公議 明治太政官政 | ||||||
注記 | ||||||
明治維新と天皇親政(1) : 『国士舘人文学』 第11号 = 通巻53号 2021. pp.1-21 明治維新と天皇親政(2) : 『国士舘史学』 第26号 2022. pp.1-45 |