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(\n。\n一方で、百姓一揆では強訴などの領主への訴願行為のほかに、社会的制裁としての打ちこわしが行われた。ここ\nで打ちこわしの対象とされた人びとは、主に豪農や富商家、村役人層であり、それは富の独占・不正な商業行為に\n対する制裁や、領主への内通など百姓的世界から逸脱した行為に対する制裁を意味した\n( ( (\n。打ちこわしには、打ちこ\nわす側に強い正当性観念が存在し、ゆえに正当な理由の無い打ちこわしについては、損害賠償が求められることも\nあったとされる\n( ( (\n。\n従来の百姓一揆研究においては、打ちこわしが〈その後〉の社会における「掣肘」として、豪農や富商家、村役\n人層らの行動を規定したことが論じられてきた。例えば、世直し騒動では、打ちこわし後、各村において質物返還\nや米金の施行をめぐる村方騒動が展開したり、質物の無償返還が行われたことが明らかにされている\n( ( (\n。\nまた、近年の研究でいえば、今村直樹氏が明治一〇年(一八七七)阿蘇一揆後の地域社会における「付ケ火」を\n検討する中で、「このように「徳義」を重んじ、通俗道徳的であった富裕層の行動の有力な背景には、地域リー\nダーとしての自意識とともに、地域社会から求められた「あるべき富裕者」像を破ったときに向けられる、自宅へ\nの打ちこわしや「付ケ火」への危惧があったと考えられる。実際、阿蘇一揆で打ちこわしにあった富裕層の家屋で\nは、一揆の際に鉈などで傷つけられた柱が、そのままの形で後年まで残されていた事例が多い。これは、富裕層が\nかつての一揆で受けた不名誉な制裁を記憶する象徴として、地域住民への反省的な意味を込め、あえて残し続けた\nものではなかろうか」\n( ( (\nと述べている。\nここで今村氏は阿蘇一揆後の富裕層の行動を規定していた要素として阿蘇一揆の打ちこわしや「付ケ火」の影響\nを指摘するとともに、打ちこわし被害者の家で打ちこわしの跡が残されていることに積極的な意味を見出してい\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n131 る\n。こうした指摘は百姓一揆の意義や評価にとって重要な論点であり、私もそれを否定するものではない。しか\nし、百姓一揆の「掣肘」をめぐるこれまでの研究では、必ずしも打ちこわし被害者の〈その後〉の動向が具体的に\n明らかにされているわけではない点に注意が必要と思われる。\nもとより、これまでの研究では十分に掘り下げられてこなかったが、打ちこわし後の被害者と加害者との関係は\nどのようなものであったのか。打ちこわし被害者は〈その後〉どのような意識を抱えて生きていったのか。こうし\nた問いは、「掣肘力」としての打ちこわしの影響を論じる前提として問われて然るべき問題ではないかと考える。\nこの点で注目されるのは、保坂智氏の一連の研究である。保坂氏は百姓一揆の作法論のなかで、都市の打ちこわ\nしでは参加者が「正体を隠す出立」を行っていたこと、天保期には農村を舞台とする一揆においてもそれが確認で\nきるようになること、「打ちこわしが身近な生活圏の中で行われ、顔見知りの関係であったことから、正体を隠す\n必要が存在していたこと」を指摘しており、これは参加者の意識の問題のみならず、〈その後〉の人びとの関係を\n考えていくうえで重要な指摘である\n( ( (\n。また、百姓一揆後の村について「打ちこわしをするのは百姓であるが、打ち\nこわされるのもまた百姓である。一揆時の敵と味方が同じ村のなかに住み、しかも共同体としての村の機能を維持\nしなければならないのである」\n( ( (\nと打ちこわし後の村における問題の所在も指摘しており、この点も百姓一揆の社会\n的影響を考えていくうえで重要な指摘であると考える\n(\n(1\n(\n。\nただし、保坂氏の研究は作法論・義民論の観点から指摘されたものであり、打ちこわし被害者と加害者の〈その\n後〉の関係や、打ちこわし被害者の意識そのものは分析の俎上に載せられてはおらず、なお検討すべき課題として\n残されている\n( (\n1 (\n。\n以上をふまえて、本稿では打ちこわし被害者の〈その後〉の意識と行動を明らかにし、もって百姓一揆の社会的\n132\n影響の一端に迫りたい。なお、本稿では宝暦一二年(一七六二)に信濃国飯田藩で発生した千人講騒動を事例とす\nる。\n一 宝暦一二年飯田藩千人講騒動について\n千人講騒動とは、飯田藩郡奉行黒須楠右衛門が発案した「千人講」と呼ばれる御用金徴収の施策を契機として発\n生した強訴・打ちこわしである\n(\n(1\n(\n。飯田藩領では城下を流れる松川の以北を上郷(一三か村)、以南を下郷(一五か\n村)と呼び、各々に代官が置かれていた。千人講騒動は宝暦一二年(一七六二)二月二二日にまず下郷、翌二三日\nに上郷、最後に町方と段階的に展開した。ただし、最初に強訴の計画が持ち上がったのは上郷で、二月一〇日頃か\nら強訴の相談が行われ、二一日に結集して城下に押し寄せる計画が立てられたが、一部の庄屋の注進で藩に発覚し\nた。一方下郷では二二日に桐林村・上川路村・時又村の三か村百姓が結集し、城下へと押しかけていった。百姓勢\nは途中で下郷各村百姓を加えながら打ちこわしを行い、翌二三日には上郷の百姓勢も蜂起した。\n百姓勢は、藩に十数か条におよぶ要求を提出するとともに、町在あわせて一三軒の打ちこわしを行った(表参\n照)(\n(1\n(\n。打ちこわし対象は主に千人講の世話人(「行司役」・「会行司」と呼ばれる)および発案者である郡奉行黒須\nと関係を取り結んでいた家々や一揆に不参加の庄屋宅であった。一部の庄屋は不参加であったが、基本的には惣百\n姓に加えて町方も参加した「全藩一揆」で、結果として藩は千人講の廃止ほか一部の要求を認め、かつ黒須を罷免\nした。\n千人講騒動後の藩の動向としては、千人講騒動から約一ヶ月後の三月二七日に、領内村役人・町役人を呼び集\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n133 め\n、千人講騒動の際に百姓・町人たちから提出された要求の回答を申\nし渡し、その場で請書を取り立てている。その後、藩の取り調べは五\n月一六日から開始され、七月六日から首謀者の捕縛がはじまった。た\nだし、被捕縛者は入牢後、明和二年(一七六五)一月までに全員放免\nとなり、死罪などの重い処罰は行われなかった。\n二 不参加者の願書\nまずは不参加者の一揆直後の動向から確認したい。次の史料1は、\n上郷の三日市場村庄屋民右衛門が宝暦一二年(一七六二)四月付けで\n藩に提出した願書の写しである。\n【史料1】(\n(1\n(\n乍恐口上書を以奉[ ]候御事\n一、去暮千人講被仰付候儀、御[ ]御公役被為蒙仰候節、一時ニ差\n上候而ハ百姓共難儀可致候と御慈悲を以連々ニ差上候様ニ被仰付候儀\nと奉存、村方長百姓一同申談シ候所、被仰付候通ニ[ ]続奉存候ト\n申候ニ付、五分通り御願申上末々百姓共へ茂得心為仕、漸双方三ヶ月\n指上候所、村々騒動仕御願申上候義ニ御座候ハヽ、御役所へ再三御願\n表 千人講騒動の打ちこわし被害者\n下郷下山村庄屋六左衛門\n上山村庄屋孫右衛門\n上郷\n下黒田村庄屋仙左衛門\n上黒田村庄屋新助\n座光寺村庄屋七左衛門\n下市田村庄屋与右衛門\n下市田村庄屋平九郎\n町方\n大横町山田屋新七\n大横町三保屋与市\n池田町米屋太兵衛\n知久町南部屋清蔵\n桜町油屋三郎右衛門\n伝馬町竹丸屋半兵衛\n※「宝暦十二年百姓共強訴一件抄」(飯田市熊谷操氏所蔵文書・\n飯田市歴史研究所近世写真帳42-1)等から作成。\n134\n申上御聞届も無御座候ハヽ押掛ヶ嗷訴可仕義も御座候得共、一向庄屋を先立御願茂不申上理不尽致方、殊ニ御公儀\n様御法度相背徒党仕嗷訴仕候儀不届千万御上不恐致方奉存候、然所三月廿七日御会所へ被召出御書下奉承知印形仕\n差上申候、其席[ ]可申上候得共、外々へ差障りニ相成候間指控罷在候、去十月下旬ニ不調法ノ私義御役義被仰\n付御慈悲を以相勤罷在候、尚御領主様御国替以来甚御憐愍之儀ハ諸運上諸色御減少ニ被成下、其上御公儀様より被\n仰付候木曾伝馬助郷ノ儀茂相勤候節[ ]救米被下置、甚御憐愍被成下難有奉存候、然処利不尽之者と一同ノ印形\n仕差上置候義、迷惑至極ニ奉存候、徒党人数ニ而曽而無御座も万一右之人数と申者御座候ハヽ何方迄茂罷出申分可\n仕候間、理不尽者と一紙印形末世相分り候様ニ御慈悲を以、私印形御削被下置候様ニ奉願上候、以上\n三日市場村庄屋 民右衛門\n宝暦十二年午ノ年四月日\n御代官様\nここでは、三月二七日に提出した請書に関わって、その印形の取り消しを願っている。民右衛門は「徒党」に参\n加しておらず、にもかかわらず「利不尽之者」と「一同」に印形を差し上げたことを「迷惑至極」として、「末世\n相分り候様ニ」と削除を願い出ている。この「利不尽之者」という表現は、「御役所」に再三願い出たうえで聞き\n届けが無ければ押しかけて「嗷訴可仕義」もあるが、それも無く強訴したことを「理不尽致方」と述べていること\nに基づくものだろう。再三願い出たうえであれば利不尽ではないとする強訴観も興味深いが、注目したいのは削除\n願いの理由が「末世相分り候様ニ」とされていることである。民右衛門によれば、彼自身が千人講騒動に参加しな\nかったことは「万一右之人数と申者御座候ハヽ何方迄茂罷出申分可仕候」と自ら申し出て証明することができる\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n135 が\n、「理不尽者と一紙印形」の請書は、「末世」に誤解を与える可能性があるという。子孫への誤解を恐れる背景に\nは、強訴・徒党への参加を「家」として不名誉なものと捉える意識が指摘できるだろう。かかる意識は、右の願書\nにおいて宝暦一一年一〇月に「御役義」を仰せ付けられ、国替以来の「領主」の「憐愍」が述べられていることか\nらして、庄屋としての0 0 0 0 0 0 立場に基づくものであったと推察される。\nもちろんこれは藩への願書であることから、その内容を額面通りに受け取ることには注意が必要である。という\nのも、こうした内容の願書は民右衛門のみならず、不参加であった領内他村の庄屋らも提出していたことが確認で\nきるからである。次の史料2を見てほしい。\n【史料2】(\n(1\n(\n申渡之事\n山村 六左衛門\n当二月廿三日、上郷下郷村々致徒党、家並不残追手御門前へ罷出及強訴、其上其方居宅打潰候義、公儀御制禁之相\n破、徒党ヲ結ひ候義甚不届至極ニ候、非分之願方ニ候得共、百姓共難義之段被聞召届、御慈悲ヲ以願之内御免之分\n三月廿七日御領分惣村へ申渡、為村惣代村々庄屋組頭長百\n(姓脱ヵ)\n平百姓御請印形差上候処、其方義ハ既ニ願方百姓とも中\n間ニ無之、却而意趣ヲ含、居宅ヲ被潰候義、惣百姓共強訴仲間ニハ無之段潔白ニ候、先達而三月廿七日申渡候御請\n惣代印形差上候得共、末代迄悪名ヲ残シ候儀難義ニ付、其方義ハ右御請印形消遣候、依之右被仰渡書奥ニ徒党人数\n相除キ候段、書付以申渡者也、\n右 被仰渡候趣奉承知候、先達而御領分一統徒党仕及強訴候儀、私義右仲間ニ無御座候趣ハ、惣村却而私へ意趣\nヲ含、居宅打潰候上ハ潔白ニ相別候段被仰聞、御請印形御除キ被下候様、願書御代官所迄差上候之処、御聞届被成\n136\n下難有仕合ニ奉存候、為其印形仕差上申候、以上\n宝暦十二午年五月十六日 山村六左衛門判\n御奉行所\n史料2は、下郷の山村庄屋六左衛門が宝暦一二年五月一六日付で藩に提出した請書の写しである。前段は三月\n二七日の請書の印形を取り消す旨の藩の申し渡しで、後段に今回の請書の趣旨が述べられているが、これによれば\n六左衛門も「御請印形御除キ被下候」との願書を提出していたことがわかる。注目したいのは、藩が印形の取り消\nし願いを認めた理由に「末代迄悪名ヲ残シ候儀難義ニ付」とあることである。史料1の三日市場村庄屋民右衛門の\n願書をふまえれば、六左衛門も「末世相分り候様ニ」との理由で願書を提出したものと思われる。実は、これは上\n郷の上黒田村庄屋新助など五人が提出した次の史料3からも確認できる。\n【史料3】(\n(1\n(\n申渡之事\n上黒田庄屋 新助\n下黒田村庄屋 仙左衛門\n座光寺村庄屋 七左衛門\n下市田村庄屋 平九郎\n同村同断 与右衛門\n当二月廿三日上郷下郷村々致徒党、家並不残追手御門前江罷出及強訴、其上其方共居宅打潰候儀、 公儀御制禁を\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n137 相\n破徒党を結ひ候儀甚不届至極ニ候、非分之願方ニ候得共百姓共難儀之段被 聞召届御慈悲を以願之内 御免之分\n三月廿七日御領分惣村江申渡、為村惣代村々庄屋組頭長百姓平百姓御請印形差上候処、其方共五人之義ハ既ニ願方\n百姓共中間ニ無之、却而意趣を含居宅を被打潰候義、惣百姓とも強訴仲間ニハ無之段潔白ニ候、先達而三月廿七日\n申渡之御請惣代印形差上候得共、末代迄悪名を残候義難儀ニ付、其方共五人之義ハ右御請印形御除被下候様との願\n之趣承届、則印形潰遣候、依之右被 仰渡書奥ニ徒党人数相除候段書付を以申渡候也\n宝暦十二壬午年五月十六日\n右 被仰渡候趣奉承知候、先達而御領分一統徒党仕及強訴候義、私共右仲ヶ間ニ無御座趣者、惣村却而私共へ意\n趣を含居宅打潰候上ハ潔白ニ相別候段被 仰聞、御請印形御除被下候様願書御代官所迄差上候之処、御聞届被成下\n御請印形御除被下候段被 仰付難有仕合ニ奉存候、為其印形仕差上申候、以上\n宝暦十二壬午年五月十六日 下市田村庄屋 与右衛門印\n 同村同断 平九郎印\n座光寺村庄屋 七左衛門印\n下黒田村庄屋 仙左衛門印\n 上黒田庄屋 新助印\n史料3は、文言の表現も含めて内容は史料2とほぼ同じである。つまり、史料2・3の請書とも一定の様式のも\nとに提出されていたことがわかる。ここからいえば、史料1の三月二七日の請書の印形取り消し願いも同様であっ\nたと推測されるだろう。したがって、史料3にも「末代迄悪名を残候義難儀ニ付、其方共五人之義ハ右御請印形御\n138\n除被下候様との願之趣」とあるが、この「末代迄悪名を残候義難儀ニ付」という理由は、願書の文面上の建て前で\nあったと解釈できるかもしれない。\nしかし、史料2の山村六左衛門と、史料3の上黒田村庄屋新助など五人については、史料3に「私共右仲ヶ間ニ\n無御座趣者、惣村却而私共へ意趣を含居宅打潰候上ハ潔白ニ相別候段」とあるように、打ちこわしの被害者である\nことに留意する必要がある。庄屋である立場からすれば、確かに今回の一揆は「公儀御制禁を打破」るものであ\nり、ましてや打ちこわしの被害にあった立場からすれば、「強訴仲間」と見なされることは許しがたいことであっ\nたことは想像に難くない。ここでは、それが建て前か本音かに関わらず、藩と不参加者との間で、百姓一揆への荷\n担が「末代迄悪名を残候義」として処理されていたことを確認しておきたい。\n三 打ちこわし被害者の願書\nでは次に、打ちこわし被害者の一揆直後の動向を見ていこう\n(\n(1\n(\n。\n【史料4】(\n(1\n(\n乍恐以口上書奉願上候御事\n一、私共義不調法成者共ニ御座候処、重キ庄屋御役儀被為 仰付無拠御請奉申上、然上ハ乍恐 御上之御為并村方\n之ため心掛ケ、勘定等私曲も得無御座候様ニ差心得大切ニ相勤罷有候処、私共意\n( 遺恨)\n根之\n(を)\n請打潰され候覚曽テ無御座\n候、何れ之訳ニ御座候哉、先達而奉申上候通上郷御領分大勢参理不尽ニ押込、家財・穀物等迄悉切散シ、開作之心\n当并作道具一向無御座候、差当り甚難儀至極仕候、尤御手代様御見分被成下候通悉打潰シ、当時渡世之手立一身置\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n139 所\n無御座罷有候、御上ゟ仰渡シ茂無御座処御願上候段恐入奉存候得共、\n(不脱カ)\n顧恐奉願上候御事\n一、此度之騒動ニ付、上郷庄屋大勢之内私共何れ之筋ニ而家財打潰シ候哉、愚案ニ落着不仕候、万一 御公役御用\n意御会金行司役被為 仰付候故かと奉存候得共、是又未一日茂相勤不申候、尤諸御役人様方御存知之通私曲之筋曽\nテ無御座候、 御上御太\n(大)\n切而已乍恐差心得罷有候、此上御役儀相勤罷有候而者、村方支配茂難成、第一御用等差支\n之筋出来仕候而者申訳茂無御座候、此段 御賢察被成下、庄屋御役儀御免被成下置候様奉願上候御事、\n右之趣乍恐被為 聞召訳、悲\n(非)\n道ニ相潰シ候哉、私共誤之筋ニ御座候哉、賞罸被為 仰付被下置候ハヽ難有奉存候、\n哀御慈悲ヲ以御下ニ住居仕候共、又者他国稼ニ罷出渡世仕候共、其上之了簡相極申度奉存候、左候へハ他所親類迄\n茂外聞相立可申哉と奉願上候、以上\n宝暦十二年三月日 下市田村 平九郎\n与右衛門\n御代官所\n史料4は、下市田村庄屋平九郎、同村庄屋与右衛門の両名が宝暦一二年(一七六二)三月に藩の代官所宛てに作\n成した願書の写しである。ここでは、まず平九郎らが「庄屋役義御免」を願い出ていることに注目したい。しかも\nそれは、打ちこわしによる経済的損失が理由ではなく、謂われ無き打ちこわしによって、今後の「村方支配」に差\nし支えることへの懸念が理由とされている。ただし、注意したいのは「庄屋役義御免」がこの願書の趣旨ではな\nく、それは「悲\n(非)\n道ニ相潰シ候哉、私共誤之筋ニ御座候哉、賞罸被為 仰付被下置候ハヽ難有奉存候」の一文にある\nことである。すなわち、打ちこわした側と打ちこわし被害者である自分たちとに、「賞罸」を求めている点にある。\nその意味で、「庄屋役義御免」の願い出は「他国稼ニ罷出渡世仕候共」という言葉と合わせて、いわば藩に「賞罸」\n140\nを迫るための〝脅迫〟に近い文言であったと解釈されるのである。そして、その背景には、末尾に「他所親類」ま\nでにも「外聞」が立つとあるように、世間への面目が意識されていたことは注目される。打ちこわしの被害を「外\n聞」に悪いとする点は、史料1~3で確認した百姓一揆への荷担を「末代迄悪名」とする意識と相通ずるものであ\nる。ただし、「他所親類0 0 0 0 」への0 0 「外聞」を気にしている点には少し注意する必要がある。この点をふまえつつ、次\nの史料5を見てみたい。\n【史料5】(\n(1\n(\n乍恐以口上書奉願上候御事\n一、私儀不調法未熟成ものニ御座候所、御役人様方御眼かねヲ以御大切成御役義被為 仰付被下置難有御請仕、乍\n恐御 上之御為第一并ニ村方之ため相心掛随分大切ニ相勤申候所、今度存之外成大難ニ相惑迷仕候御事\n一、私居宅家財潰され候程之悪難請可申覚曽而無御座候、勿論御 上躰ハ不及奉申上、村方へ対私欲之筋毛頭不仕\n候所、何れ之訳御座候哉、先達而御届ケ申上候通、上郷中一同ニ騒動仕理不尽押込、家財ハ不及申上、土蔵迄打\n破、夫食之穀物等悉切被散、非道之致かた心外至極奉存候、尤御手代様方委細御見分被成被下候通ニ御座候、此節\n御 上より御下知も無御座候所、御願差上候段恐入奉存候得共、此上村方百姓共所存之程難斗、他領之一家共諸外\n聞申分も無御座、旁々相考迷惑仕候得共、此節御 上ゟ之被 仰渡可奉相待之所、開作ニ指向故、乍恐奉願上候御\n事\n一、此度騒動ニ付、上郷中庄屋村々ニ御座候内何れ之訳ニ而私共打潰候哉、愚案ニ落着不仕候、此上御役義相勤罷\n有候而茂村方支配難成、第一御用等差支之筋出来仕候てハ申訳も無御座難儀至極奉存候、此段乍恐御賢察成被下\n置、庄屋御役義御免被遊被下置候様奉願上候御事\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n141 一\n、右申上候通、家財夫食等并ニ農道具不残打潰され、差当り耕作可仕方便一向無御座、難儀至極仕候間、御慈悲\nヲ以御了簡成被下置、開作仕候様ニ奉願上候御事\n右之趣乍恐被為 聞召分、庄屋御役御免成被下置候ハヽ難有奉存候、然上ハ世間躰密ニ仕身上取続、永御百姓相勤\n申度奉願上候、以上\n宝暦十二年午三月 上黒田村 新助\n御代官所\n史料5は、上黒田村庄屋新助が宝暦一二年三月に作成した願書の写しである。ここから史料4と同様に、新助も\n村方に対して「私欲之筋」が無いにも関わらず打ちこわされ、「村方支配」が成り難いため「庄屋御役御免」を願\nい出ていたことがわかる。史料4と内容が近似し、かつ作成年月も同一であることから、彼ら上郷の打ちこわし被\n害者たちが願書の提出にあたって、その趣旨等の歩調を合わせていたことが推察される。\nただし、史料4と異なる点としては、①千人講の「行司役」に関する言及が無いこと、②打ちこわしに関する\n「賞罸」は求めておらず、「他国稼」に関する言及も無いことが指摘できる。つまり、願書の内容は確かに近似する\nが、全くの同一ではないということである。このことは、打ちこわし被害者たちの間で願書の提出については歩調\nを合わせつつも、細部の内容や作成自体は個別に行っていたことを物語るものと思われる。\nさて、史料5でも新助が「他領之一家共」への「諸外聞」を気にしていることが確認できる。この点は打ちこわ\nし被害者たちに共通する意識であったことが推察されるが、ではいったい彼らは何を気にしていたのか。ここで注\n目したいのは、打ちこわしの「利不尽」さや「非道之致かた」の根拠として、村方に対する「私欲之筋」が無かっ\n142\nたことが挙げられている点である。この点は史料4でも「私曲之筋」は無かったことが主張されている。\nこれらの言説からは、打ちこわしが「私欲之筋」や「私曲之筋」に対して行われるものと認識されていたことが\n読み取れる。これを新助の主張に置き換えれば、「私欲之筋」があったのならば打ちこわしは「利不尽」ではない、\nとなるだろう。つまり、打ちこわしとは「私欲」に対する社会的制裁であることを打ちこわし被害者たち自身が0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 認\n識していたことが指摘できるのである。新助や平九郎らが「外聞」を気にしていた理由は、この点に求められるの\nではないか。地域社会において打ちこわしが「私欲」に対する社会的制裁として捉えられていたからこそ、打ちこ\nわし被害者たちにとっては「外聞」が気になっていたと考えられるのである。彼らにとって打ちこわしとは、まさ\nに「家」の不名誉であったのである。この点は次の史料からもうかがえる。\n【史料6】( (\n2 (\n乍恐書付を以奉願上候\n一、先達而御上ニ茂御存知被為遊候通、二月廿三日御領分百姓大勢徒党仕、斧懸矢を以私居宅土蔵悉ク伐崩家財雑\n物等不残打潰し、不断心命をつなき候味噌江も下糞を打込、剰御祓経文等迄切散し、佛神を不奉恐前代未聞之狼\n藉、言語道断之致方難儀至極仕候ニ付、先達而早速御届仕候処早速御見分成被下置難有奉存候得共、猶又逐一御吟\n味奉願上度左ニ申上候御事\n一、私儀近年御役儀被仰付大切ニ相慎御上之儀ハ不及申上ニ、村方惣百姓江対し不法之儀仕候覚曾而無御座候処、\n右躰之致方何共難心得奉存候、徒党之儀ハ御 公儀様御條目ニも厳敷御制禁ニ御座候処右之狼藉仕候故御吟味奉願\n上候\n一、私儀御役儀相勤候ニ付何様之不調法御座候而相潰候哉、前条ニ申上候通り村方江対し少成共私欲之筋仕候無御\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n143 座\n候、増而餘村江対し、何之差綺ひ候覚無御座候処、村々一同ニ徒党仕打潰し候儀旁以難心得奉存候、若被仰渡候\n千人講ニ付打潰候哉、左候ハヽ下郷も同様之儀ニ御座候得ハ打潰可申筈之処、左様之儀も無御座、然者右之筋共不\n奉存候、千人講御役之儀ニ付私儀□以私欲之筋不仕候段、乍恐 御上ニ茂御存知被遊候御儀と奉存候、御役之儀ハ\n御上ゟ御目かねを以被仰付相勤候処、徒党仕右躰之狼藉相企候儀御上江対し不届至極と奉存候、乍恐御領内御百姓\n不残被召出、潔白之御吟味成可被下置候而ハ御役義茂難有、且私義ニ御座候而も相応ニ他郷ニも親類共多御座候、\n其上子孫永々申伝江も御座候との[ ]之身分相立不申、人前も交り[ ]半召出仕候間、無是非御上之御威光を\n以何方迄も御願可申上覚悟ニ□□候、乍恐右之段被為聞召分御慈悲を以身分相立候様御吟味厳重ニも奉願上候、尤\n潰され候品々者先達而御見分成被下候間、重而御吟味之節目録ニ仕差上可申候御事\n乍恐右之趣被為 聞召御慈悲を以御吟味之上家、土蔵、家財不残右之通御領内江被仰付拵立急度相返し候、永御役\n相勤百姓相続仕候様成被下置候ハヽ重々難有仕合ニ奉存候、以上\n座光寺村願人 庄や\n宝暦十二年午三月日 七左衛門\n御代官所\n史料6は、座光寺村庄屋七左衛門が宝暦一二年三月に作成した願書の写しである。七左衛門の場合は、庄屋役の\n御免は求めておらず、藩の厳重な吟味を求めている点、また打ちこわされた家などの物質的被害の補償も求めてい\nる点が、史料4・5と異なる主張といえる。その主眼は藩の吟味の実施に置かれているが、それは「親類」や「子\n孫」に対して「身分」が立つようにと述べているように、藩の吟味(「御威光」)によって、七左衛門が「私欲之\n144\n筋」など不正を行っていなかったこと=打ちこわしが不当な「狼藉」であったことの明確化を求めるものであった\nといえるだろう。七左衛門もまた打ちこわされたことによる「外聞」を気にしていたと思われる。\nここまで、上郷において打ちこわしを受けた下市田村庄屋平九郎、同村庄屋与右衛門(史料4)、上黒田村庄屋\n新助(史料5)、座光寺村庄屋七左衛門(史料6)の願書を見てきたが、次の史料7は右の個別の願書をふまえた\nうえで、これに下黒田村庄屋仙右衛門を加えた上郷の打ちこわし被害者五人によって作成された願書下書きと推測\nされる。\n【史料7】( (\n2 (\n奉願上候口上之覚\n一、五人之庄屋共此上御憐愍奉願上候、惣村段々御詮義被遊候処、五人之者[ ]、意趣意\n( 遺恨)\n恨差挟候而打潰し候訳\n少も無御座候、騒立何之弁も無御座、理不尽ニ打潰し候ニ相違無御座[ ]意\n( 遺恨)\n根之義無御座候とハ申候得共、去ル\n巳ノ暮御会金被仰付候節、惣村へ対し、下へも憐愍差加へ候様ニ申談候得共、誠ハ内心ニ御上ゟ被仰出候義相立候\n様ニ仕度と取斗申候、外村之者共も潰シニこしていたす心ハ無御座候得共、村内之者へ理害疾\n(ママ)\nと不申聞届不申候\n間、村内之者申事ニこまり自然と御上之事麁末ニ罷成申候、是ハ手前働無之義ニ御座候、五人之もの共ハ惣村へ対\nし理害得と申聞候得ハ、惣村之者共理屈ニおされ返答無之程之事申掛候、村内支配之者ヘハ猶々厳敷理害申聞御会\n金五分通ニ御請相済申候、何分ニも御上ゟ被仰出候義、是悲々相立候様ニ仕度内心ニ差挟罷在候、惣村へ対し兎角\n御講取立差上候様ニ申掛ケ候得ハ外村気入不申事斗り申掛ヶ候得者、表向意\n( 遺恨)\n根ハ無之とハ申候得共、右之意\n( 遺恨)\n根も可\n有御座事ニ奉存候、其節両筋目々ニ談有之候得共、両筋ともニ平御訴詔之談、潰しニいたす談之趣五人之もの共ハ\n上下宜所を厳敷理害申聞候故、理屈ニこまり返答相成不申、先三分通と願出申候相談ニ相応金御上ニも御都合宜、\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n145 下\nニ而も取続能義ニ御座候、御講相立不申候得共、其節五人之者共、乍恐忠義之程御勘弁被遊可被下候、御講被仰\n付候以前先納金被仰付候節も役気\n(ママ)\nと申候得共、其節も五人之もの共ハ惣而村内取捌 御上□下□惣万事御上御大\n切ニ仕候者共ニ而心掛之程、外之者共とハ格別宜取捌相見へ申候、騒動後も猶々 御上御大切ニ奉存万事出精仕\n候、此段ハ難尽筆紙候、乍恐此上何分ニも末代身分相立取続御役義相勤候様ニ御憐愍奉願上候、御上御大切奉存家\n財打砕レ候義ニ御座候ハヽ本意相叶難有奉存候、難儀ニ少も不奉存候趣ニ相聞候得者、猶々右義之程乍憚御勘弁至\n極可被下候、此上御憐愍被 仰出候而、末世名残ニ罷成候間、乍憚宜御取成相立候様ニ被成下候ハヽ扨私難有仕合\n奉存候、委細之義先頃御尋被遊候節申上、御存知被遊候通ニ御座候間、宜御取成被仰出被下置候ハヽ、難有仕合奉\n存候、以上\n八月\n史料7は年欠であるが、内容から史料4・5・6と次の史料8の間に作成されたものと推測される。ここで彼ら\n五人は、第一に、「惣村」の「御詮議」の中で、打ちこわしには「意趣意\n( 遺恨)\n恨」は無いと述べているようだが、「去ル\n巳ノ暮御会金被仰付候節」に「惣村」に対し「理害」を申し聞かせて「御講」の取り立てを行ったことが、「意\n( 遺恨)\n恨」\nとなっていると思われること、第二に、しかし取り立ては「何分ニも御上ゟ被仰出候義、是非々相立候様」にした\nい「内心」があり、自分たちは騒動以前も以後も「御上御大切ニ而奉存万事出精」してきたこと、そのため「末代\n身分相立、取続御役儀相勤候様御憐愍」を願っている。\nこの願書ではあくまで千人講の世話人として「御上」のために働いたこと(「忠義」)が強調されており、それを\nもって「末代身分相立」ことを求めている点が注目される。かかる要求の背景には、これまで史料4・5・6で見\nてきたように、「外聞」を気にする「家」意識が指摘できるだろう。打ちこわしを「家」の不名誉とする意識が\n146\n「末代身分相立」ことを求めたと考えられるのである。これが実際に提出されたのかは分からないが、藩では明和\n元年(一七六四)一二月に次のような申し渡しを行っている。\n【史料8】( (\n2 (\n申渡之事\n上黒田村庄屋 新助\n下黒田村庄屋 仙左衛門\n座光寺村庄屋 七左衛門\n下市田村庄屋 与右衛門\n同村同断 平九郎\n去ル巳暮会金申付候節、上郷惣村御請致難渋候趣ニ候処、其方共存寄者、御公役御手当之為被仰付候事、其節一度\nニ多分之御用金差上候而者下ニ而難儀仕候ニ付、御下之者共取続能様ニとの以思召被仰付、上御用も弁、上下宜筋\n被仰付候御事、筋合得と相弁候故、惣村之者共江利害申聞御請仕候様申談候処、惣村之者共者御請難仕候間御断可\n申上旨相談有之候ニ付、其方共申談候者、被仰付儀不相立候而者不済義ニ候得者、被仰付も相立、下ニ而茂取続能\n筋段々申談候而、漸惣村御請相済、去ル巳十二月ヨリ会金差出候、惣村御請相済候以後、其方共義者会金行事役年\n番ニ而壱人宛相勤候様申付候、右之通惣村納得之上致御請会金差出候処、去ル午二月ニ至村々出訴之内談有之趣承\n之、早速訴出、村内之者共を取鎮候、然処二月廿三日惣村一同及強訴、其節其方共居宅打潰シ候ニ付令吟味処、何\n者相越打潰し候哉一向不相知、意趣意根請可申覚曽而無之候得共、会金ニ付惣村江利害申聞候ニ付御請仕候故、ケ\n様筋合ニ而茂意根差挟候哉、其外心当り之義無之旨申之候、其方共最初会金申付候砌より、上御為、次ニ百姓共為\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n147 宜\n様ニ致度、段々致出情取捌候趣尤之事ニ候、依之其方共一生之間弐人扶持被下候、不慮之難ニ逢候ニ付、為取続\n米三拾俵つゝ拝借被仰付候間、取続御役儀相勤可申者也\n明和元申年閏十二月廿五日\nこれによれば、藩から五人に対して「一生之間弐人扶持」の付与と三十俵の拝借米が申し渡されたことがわか\nる。藩の対応として金銭などの褒美を一時的に付与するのではなく、「扶持」を与えている点は注目される。世話\n人を務めて、千人講の徴収を主体的に取り組んだ打ちこわし被害者たちは、藩にとっては確かに「御上のため」に\n尽力した庄屋であり、さらにいえば百姓一揆に荷担せずに、かえって打ちこわしの被害に遭ったことも褒賞と補償\nを与えた理由のひとつであったと思われる。\nただし、これまで見てきた史料4~7の願書をふまえれば、これが打ちこわし被害者たちの要求に藩が応えたも\nのであることが理解されるだろう。打ちこわし被害者たちは打ちこわし被害の物質的補償を求めるというよりも、\n打ちこわしの利不尽さを訴えるとともに、打ちこわしの前提となった千人講会金の徴収に係る役務の貢献度を強調\nすることで、藩に褒賞を求めていた。この点は、庄屋役の御免や他国稼ぎを引き合いに、藩に「賞罸」を求めてい\nた、下市田村平九郎と与右衛門の願書(史料4)に顕著である。打ちこわし被害者たちは何よりも地域社会におけ\nる「外聞」を重視しており、打ちこわされたことを不名誉とする「家」意識を有していた\n( (\n2 (\n。その意味で「扶持」の\n付与といった藩の対応は、「家」の名誉を守ることを強く求めた打ちこわし被害者たちの要求に応えたものと理解\nできる。藩にとっても、彼らを庇護することは〈その後〉の領内村々の秩序を安定化させる意味でも必要不可欠で\nあったと思われるが、ここではその背景に、打ちこわし被害者たちによる「家」の名誉回復を求めた訴願行動が\nあったこと、それが藩をして「扶持」の付与を引き出したことを強調しておきたい。\n148\n四 打ちこわし被害者の〈その後〉\n「一生之間弐人扶持」を付与された五人は、〈その後〉も引き続き庄屋を務めていたようだが、明和元年\n(一七六四)の申し渡しから八年後の安永元年(一七七二)に事態は急変した。その点の事情を次の史料から確認\nしたい。\n【史料9】( (\n2 (\n(前欠ヵ)\n七左衛門\n申上候口上 平九郎\n与右衛門\n此度御時節柄殊ニ御類焼ニ付御多分御入用御 上甚御気之毒被為 思召候得共、無御拠御家中様方御増歩一御引被\n為遊候段被 仰聞、私共江被下置候弐人御扶持米不残三ヶ年之間被為遊 御借り度\n候\n段被為 仰付、此節之御儀如何\n様之儀ニ而も早速奉畏候而本意奉存候得共、右御扶持之儀者私共一生之間被下置候御儀、世上江之聞江私共身分御\n立被下候ためニ被下置と為心得、世間いこんもはれ外聞も相立、偏御慈悲与難有奉存罷在、此弐人御扶持米之義者\n私共身ニ取り候而ハ身ニ替大切奉存罷在候処、右之段被 仰付無御拠御儀ニ彼是申上候者千\n□ 本意候様\n万気之毒奉存候へ共、\n私共明日ニも相果候得ハ無何と御扶持御取上同\n〻\n様〻\nニ相成、世間之人々江断ハ不被聞申、他之人口\n甚気之毒奉存候、此上之御慈悲ニ御賢慮成被下御扶持米者\n◯ 不相預被\n申\n下置\n◯候ハヽ\n、外ニ弐三俵宛も年永クも差上候、\n〻\n〻〻〻〻〻\n〻〻〻\n候、此度被為仰付候趣、御取上ト申シ遣ニ而者無御座候得共、世間ニ而者御扶持も御被取上候ニ而ト之\n〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻\n風聞有之候ても人々ニ申分も不相成、甚難儀仕\n(至)\n極ニ奉存\n〻〻〻〻〻〻〻〻〻〻\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n149 然\n又ハ乍憚歩一御取被下候、然いつれ共宜\n〻\n様\n〻\n御取成被下何\n◯私共人口相□□様被仰付、何とそ以御慈悲△\n卒右被下置、△御申渡之書\n御書付□□仕候通\n面之通被下置候様\n奉願上候、△ 御\n乍恐右之趣御支配△さま\n役人様方御慈悲ニ願之通被 仰付被下置候ハゝ幾重ニも難有奉存候、此外ニも申上度御儀御座\n候へ共急筆ニ難計口上ニ而口上\n( ママ)\nニ而御聞被下置候様奉願上候、以上\n辰十月十二日\n史料9は、上黒田村庄屋新助家に残された史料で、前欠ながら先の五人の連名で藩に宛てて作成された口上書の\n下書きである。作成年は後述の史料をふまえれば安永元年であることが推定できる。下書きのため添削が行われて\nおり文意が読み取りづらいが、ここから安永元年に藩の上屋敷が類焼したことによって\n( (\n2 (\n、安永元年から三年間にわ\nたって「弐人御扶持米」の借り上げが申し渡されたことが判明する。ここで注目されるのは、藩の借り上げに対し\nて、「世間」の風評を理由に「御扶持米」の継続を願っていることである。「御扶持米」は、「世間」では「私共身\n分御立被下候ためニ被下置」と心得ており、これにより「世間」の「いこん」も晴れて「外聞」も立ち、私たちは\n「御扶持米」を「身ニ替」り大切にしてきたという。今回の借り上げについては「御取上」ではないが、「世間」で\nは「御取上」と捉えられ、要らぬ風聞が立つのではないかと恐れているのである。打ちこわし被害者たちにとっ\nて、この点が特に気がかりであった様子はその添削の跡からも推察することができるだろう。\nこれらの言説が文書上のレトリックではなく、打ちこわし被害者たちの「御扶持米」に対する認識を示している\nのは、「御扶持米」の継続の代わりに年二、三俵ずつ、あるいは「歩一」の上納を申し出ている点にあらわれてい\nる。つまり、打ちこわし被害者たちにとって「御扶持米」とは、単に経済的な利益ではなく、「世間」における身\n分的な保障を意味していたことが推察されるのである。この点は、一揆直後の願書から一貫しているといってよい\nだろう。彼らは「世間」に対する「家」の名誉を何よりも重視していたのである。\n〻〻〻〻\n150\nさて、右の口上書が実際に提出されたのかどうかは不明だが、打ちこわし被害者たちの願いは叶わず、安永元年\nに扶持の借り上げを実施されたことが次の史料から判明する。\n【史料\n10\n】( (\n2 (\n乍恐以口上書奉願上候御事\n一、私親新助義、先達而騒動之節居宅家財打被潰難儀仕候ニ付、段々御願申上候処御吟味之上生涯弐人扶持被下置\n難有頂戴仕罷有候処、去ル辰暮右御扶持米三ケ年御借被為遊候段被仰付奉畏候、其節新助申候者、手前老衰病身故\n御役儀蒙御免隠居仕御用ニ茂不相立御扶持戴様ニ候儀茂恐入、又者相果候へハ夫限跡ニ残候印無之、何とそ御扶持\n差上何成共子孫江永相残り候印御願申上度近年心掛候へ共、長病之義折茂無御座候処、此度御扶持御借上被為成候\nへハ此節御願申上候儀ハ難相成、彼是延引故存念不相叶扨者残に存候、此旨連中江咄相談いたし度様申聞候間、下\n黒田村仙左衛門、座光寺村七左衛門、下市田村与右衛門、平九郎、頼寄内談仕候得共、御扶持頂戴仕候右五人同様\n之義ニ御座候へハ相談落着不仕、最早翌午三月新助相果申候、夫ゟ跡家之きすハ残り、乍恐 御上ゟ御憐愍之御印\n者堪、私身ニ取甚難儀至極奉存候ニ付、右四人衆相頼奉願上候、哀御慈悲ヲ以何成とも御印被下置候ハゝ親存念ニ\n相叶難有仕合奉存候、以上\n安永五年申十月 上黒田村 甚右衛門\n右甚右衛門奉願上候趣、尤千万一同承知仕御願奉申上候、願趣被為聞召分御慈悲ヲ以被 仰付被下置候様私共一同\n奉願上候、以上\n下市田村庄屋 平九郎\n同村同断 与右衛門\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n151 座\n光寺村同断 七左衛門\n下黒田村同断 仙左衛門\n御代官所\n史料\n10\nは、上黒田村庄屋新助の子甚右衛門と下市田村庄屋平九郎など四人によって作成された藩の代官所宛ての\n願書下書きである\n( (\n2 (\n。ここから安永元年の扶持借り上げが予定通り実施されたことがわかる。そのうえで注目したい\nのは、この願書で甚右衛門らが藩に求めているのが、「御扶持」ではなく「何成とも御印」であることである。史\n料9では「御扶持」の借り上げは三年間とされており、この時点(安永五年一〇月)で借り上げが継続されている\nのか、元に戻ったのかはわからない。しかし、この願書が主眼としているのは「御扶持」の借り上げの問題ではな\nく、家の代替わりに伴い、藩からの「何成とも御印」が無くなってしまうという問題であった。甚右衛門によれ\nば、安永三年三月に亡くなった父新助は安永元年の扶持借り上げ以前から、「生涯弐人扶持」に代わる「跡ニ残候\n印」を求めており、「御扶持」を差し上げて、「何成共子孫江永相残り候印」を願おうと考えていたとされる。一代\n限りではなく、子孫に「御印」を残そうとする背景には、打ちこわされたことを「家之きす(傷)」であるとする\n「家」意識が指摘できるだろう。\nさて、甚右衛門らはこの時いくつかの願書を準備していたようで、史料\n10\nと同じく安永五年一〇月の日付を持つ\n次のような願書も残されている。\n【史料\n11\n】((2 (\n乍恐以書付奉願上候御事\n一、去ル宝暦十一巳年御公役為御用意金御領分中へ御会金被為仰付、上郷ニ而市田村与右衛門、平九郎、座光寺村\n152\n七左衛門、下黒田村仙左衛門、上黒田村ニ而私親新介、右五人之者共江行司役被為仰付奉畏右会席御用相勤罷在候\n所、翌午二月御領分之者共強訴仕、追手御門前江相詰候節も右行司役五人之者共恐多奉存、村内取静メ候得共多人\n数之義力ニ不及直様御訴申上、私家内慎罷出不申候ニ付、右強訴仕候者\n人\n共数\n、右五人之者共居宅江押掛、家居家財打\n潰シ難儀困窮仕候ニ付、右之趣相歎御訴訟奉申上候所、御吟味之上御慈悲を以五人之者共江生涯之間弐人扶持宛被\n為下置御書付頂戴難有仕合ニ奉存候、然所去ル辰年御上屋鋪御類焼ニ付、御入用金多御不手廻ニ付無御拠私親新助\n初右五人之者共江被為下置候御扶持米三ケ年之間御借用被為遊候段被仰渡、御時節柄と申乍恐承\n御尤奉存□□御請仕候\n知奉畏候御事\n一、私親新助、永々相煩病気之内私を以 御代官様江奉願上候ハ、去ル巳年強訴之節願人差止家内慎罷在、右強訴\nニ相加り不申候間、一同敵々ニ罷成意\n遺恨\n魂心底ニ差挟罷在候得共、其刻御慈悲之御威光頂戴仕候ニ付、存心有之候者\n茂可致様無御座候得共、新助死去子孫ニ至候而、いか様之儀差挟ミ罷在候而、無差別疎シ□\n〻\n□ 〻\n候も難斗歎ケ敷奉\n存、何卒御憐愍を以子孫ニ至候而茂、御見捨不被為 下置候様ニ奉願上候内、重病ニ而相果、存心相残申候、勿論\n私義当時御役義相勤罷在候得者、御威光ニ而疎ミ申候躰之者茂無御座候得共、私義軽キ百姓之義永久御役義相勤可\n申様も無御座、御役御免之後子孫ニ至候而も、右意\n遺\n魂恨\n被差含候悪名者相残、先祖之切ハ申出候者も無御座候得ハ、\nいか様之義出来可仕も難斗、相果候親新助ハ不及申上、私義安堵不仕歎ケ敷義ニ奉存候、勿論此末不法致候者も御\n座候ハヽ、其節御吟味可被下と乍恐奉存候得共、御上江御苦労奉掛、其上不埒之族有之、いか様之御咎メ請候者も\n出来仕候得者、猶更意\n遺恨\n魂相重候而ハ千万歎ケ敷義ニ奉存候間、以御憐愍子孫江相残候御威光被仰付被下置候様奉願\n上候、ケ様之御願奉申上候而ハ、親新助御扶持頂戴仕候御義ニ御座候得ハ、同様ニ茂奉願上候所存ニも可被為聞召\n候得共、曽而以左様之義ハ毛頭無御座、相果候親新助初私か願に相立、私\n〻\n方〻\nへ〻\n子孫永久御威光を以睦敷相交り御百\n姓相続仕候様奉願上候、此段被為聞召分、御慈悲奉頼上候、以上 \n〻〻\n〻〻〻〻〻\n〻〻\n〻〻\n〻\n〻〻\n〻〻\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n153 安\n永五申年十月 願人 上黒田村\n甚右衛門\n右前書之通、上黒田村甚右衛門奉願上候趣、相果候新介生涯之節私共江も相談仕一統御願可仕筈ニ奉存候内、重病\nニ而相果候ニ付、今般甚右衛門奉願上候私共一同承知仕、甚右衛門願之通被為仰付被下置候ハヽ、難有仕合奉存\n候、以上\n 市田村\n与右衛門\n平九郎\n 座光寺村\n七左衛門\n 下黒田村\n仙左衛門\n御代官所\n史料\n11\nは、藩に「御威光」を求めるその趣旨は史料\n10\nと同じであるが、内容としては「願人」(一揆参加者)と\nの間の「遺恨」の存在と、それが「御扶持」の頂戴=「御慈悲之御威光」によって抑制されていたことが強調され\nている。特に子孫に至って「不法致候者」が出来し、「御上」に迷惑を掛けるとともに、もし「御咎」を受ける事\n態が生じれば、さらに「遺恨」が重なることを憂慮していると述べて、藩に「子孫永久御威光」を迫る構成は、史\n料\n10\nと大きく異なる点である。ただし、「御威光」といっても、「御扶持」を願っている訳ではないとする点は、史\n154\n料\n10\nの「何成とも御印」と同じ趣旨であり、やはりこの点に甚右衛門らの眼目があったことが指摘できるだろう。\nところで、史料\n11\nでは「願人」=一揆参加者との間の「遺恨」の存在が強調されているが、この「遺恨」の意味\nには少し留意が必要である。というのも、一揆直後の願書でも「遺恨」の文言自体は出てくるが、例えば史料4で\nは身の潔白を論じる際の表現(「遺恨」を受ける覚えは無い)として、史料7では「御上」のために働いたことを\n強調する表現(「会行司」として精勤したことが「遺恨」とされた)として使用されており、千人講騒動の打ちこ\nわしの背景や理由の説明として使われている。これに対して史料\n11\nの「遺恨」とは、「右強訴ニ相加り不申候間、\n一同敵々ニ罷成意\n遺\n魂恨\n心底ニ差挟罷在候得共」とあるように、千人講騒動で「一同敵々」となったことによる「遺\n恨」という意味であり、千人講騒動によって生み出されたものとされている。\n史料\n11\nでは、かかる「遺恨」が「御扶持」によって抑制されていたとして、引き続き「御威光」を求める理由と\nされており、願書のレトリックである可能性も否定はできない。しかし、前節でみた一揆直後の願書(史料4~\n7)では「外聞」が褒賞を求める理由とされていたことをふまえれば、少なくとも願書上における要求の方法に変\n化が認められるのではないか。この点をふまえつつ、次の願書下書きを見てみたい。\n【史料\n12\n】( (\n2 (\n乍恐口上書を以奉申上候\n一、宝暦十一巳年御会金被仰付候ニ付、上郷ニてハ市田村与右衛門、平九郎、座光寺村七左衛門、上黒田村新助、\n下黒田村仙左衛門右五人之者共へ行司役被仰付 御上御存之儀と被仰渡候間、早速御請仕相勤被有候処、翌午ノ二\n月御領分中強訴仕候節、私共五人之者家居家財打潰シ致狼藉、何之意趣遺恨とも覚へ無御座候処、御吟味之上私共\n五人江一生之間弐人扶持宛被下置候段被仰渡、御書下シ迄頂戴仕、依之右五人之者共私曲之筋者無之段、一旦世評\n〻〻\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n155\nも相止ミ難有奉存候\n一、此度御時節柄、殊ニ御類焼ニ付御多分御入用被為有御座、御上甚御気之毒ニ被為思召、無御拠御家中様方御増\n歩御引被為遊候段被仰聞、私共へ被下置候弐人扶持米之儀も不残三ヶ年之間被為遊御借り候旨被仰付、此節之御儀\n如何様之義ニ而も早速奉畏候而、本意ニ奉存候得者、一言之御訟\n( ママ)\n訴も不奉申上奉差上候得共、右御扶持米之儀者先\n達而御扱之通之訳合ニ而被下置、依之世間外中私共身分御立被下、右之遺恨も相晴シ、偏ニ御慈悲と奉存、此御扶\n持米之儀者私共身ニ取候而ハ、絶言語難有大切ニ頂戴仕被遣申候、然処右被仰渡有之、勿論年季御限り有之、御取\n上ヶと申義ニてハ無御座候得共、世間ニてハ如何風聞仕候哉、委ク申訳も難相成、難義至極ニ奉存候、殊ニ生涯之\n義ニ御座候得者、右之間ニ相果候者も有之、私共迚も老年之義落命難斗奉存候、既ニ上黒田村新助抔、去巳ノ年相\n果候得者、世忰ヘハ御扶持ハ不被下置、最早何之親族も無之、私共も右同様末々年歴ヲ経候ハヽ、人々之雑談ニも\n先年御領分中ニ被敵対候者之子孫と申ス悪名ハ残り候得共、功名ハ難相立、御上御憐愍之御扶持頂戴仕候者と申義\nハ相知れ不申、子孫面目難相立可有之候哉、眼前ニ而是□歎敷奉存候、此節御入用御多分之御中、達而右之御扶持\n米之儀者奉願上候ニ而も無御座候、縦令何等之御義ニて成共、末々人前相立候様ニ□、此上之御慈悲と被思召御勘\n弁奉願上候、兼々御憐愍之上以多筆奉申上候義、恐多奉存候得共、最早老後落命候事ニ逼り申候間、不顧恐ヲ奉願\n上候、偏御慈悲を以此上御執成被下置候ハヽ難有仕合奉存候、以上\n安永五年\n史料\n12\nは、内容から史料\n10\n・\n11\nと同時期に作成されたと思われるが、新助の子甚右衛門の名前が出てこない点に\n特徴がある。内容としては、「御扶持米」によって身分が立ち、それによって「私曲之筋」が無かったと「世評」\nも絶え、かつ「遺恨」も晴れてきたとし、「御扶持米」の借り上げ、さらには「御扶持米」が一代限りであること\n156\nで、「世間」の風聞や子孫への「悪名」が残ることへの危惧を述べて、「御扶持米」ではなく「何等之御義」を求め\nており、大枠の構成は史料\n10\n・\n11\nと同じである。\nここでは「世間」の風聞や子孫に面目が立たないことが述べられているように、「何等之御義」を要求する理由\nは「外聞」とされており、史料\n11\nのように「遺恨」は強調されていない。しかし、年を経て「御上御憐愍之御扶持\n頂戴仕候者」ということは忘れられ、「御領分中ニ被敵対候者之子孫」という「悪名」が残ると述べており、「御領\n分中」と「敵対」した記憶が残ることに危惧している点には注目したい。ここでも一揆参加者との対立に言及して\nおり、この点は史料\n11\nの「一同敵々ニ罷成意\n遺\n魂恨\n心底ニ差挟罷在候得共」と通じるものがある。このような「遺恨」\nや「敵対」への危惧は一揆直後の願書では見られず、今回(安永期)の願書において新たに主張されている点は見\n逃せない。換言すれば、安永期になって0 0 0 0 0 0 0 一揆参加者との対立が問題化されはじめたといえるのである。史料\n11\nで\nは、子孫の代に至って「不法致候者」が出来し、彼らが「御咎」を受けることによって、さらに「遺恨」が積み重\nなっていくことへの憂慮が述べられているが、こうした具体性のある想定がなされている点に、打ちこわし被害者\nたちが実際にそのような事態を危惧していた様子が読み取れるのではないだろうか。\nところで、前述したように、史料\n12\nの作成主体は、あくまで甚右衛門以外の四人からの願書である点に特徴があ\nる。これに対し史料\n10\n・\n11\nは甚右衛門からの願書であるが、この二つの願書にも文章構成には少なくない異同が指\n摘できる。史料\n10\n~\n12\nの作成時期の前後関係は不明ながらも、これらの願書からは、打ちこわし被害者たちが藩か\nら「何成とも御印」・「何等之御義」=「子孫永久御威光」を獲得するために奔走していた様子が浮かび上がってく\nる。\nでは、打ちこわし被害者たちは、なぜそこまでして「御威光」の獲得を目指したのだろうか。ここまで縷々述べ\n〻〻\n打ちこわされし者たち ―百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」\n157 て\nきたように、打ちこわし被害者たちは一揆直後から「外聞」を気にしており、さらに安永期の願書からは「遺\n恨」への危惧が読み取れるのである。こうした打ちこわし被害者たちの意識と行動の背景を考えるために、次節で\nは千人講騒動後の地域社会の様子を確認してみたい。\n五 地域社会に残る打ちこわしの記憶\nここでは千人講騒動後の地域社会の様子について、百姓一揆物語を素材に確認してみたい。百姓一揆物語とは、\n〈その後〉の村や地域で作成された「一揆についてのまとまったイメージを提供しようとしている記録作品」\n( (\n3 (\nで、\n主として一八世紀半ば以降に作成された、ほぼ同一の内容・形式・表現様式を持つ物語のことである\n( (\n3 (\n。\n千人講騒動については、管見の限り三種類の百姓一揆物語が確認できる\n( (\n3 (\n。これらの物語では、千人講騒動の発端\nから経過が詳述されており、その中で打ちこわし被害者たちに関する記述も多く見られる。\n最初に「きゝ書之覚」という表題をもつ百姓一揆物語を紹介したい\n( (\n3 (\n。この物語は千人講騒動の発端が記された冒\n頭の箇所に、「会之節支配致取集取候人数」として「在郷会行司」の名前が列挙されており、そのうち上郷の「会\n行司」として「黒\nママ\n田村庄屋仙左衛門、同村同断新助、座光寺村同断七左衛門、市\nママ\n田村同断与右衛門、同村同断平九\n郎」(三九一~三九二頁)の五人の名前が列挙されている。そのうえで上郷の打ちこわしの場面では次のように記\n述されている。\n【史料\n13\n】\n(前略)一、先達一騎徒党セし上郷暫者指控たりと雖、猶不得止事、猶又一味して座光寺原集る、早明四ッ時下黒\n158\n田村庄屋仙左衛門宅へ押寄、但シ下郷ぢくり為を意\n( 遺恨)\n根ニや思ひける、手新に打ひしグ、散々微塵に打くだき、時之\n音天地震動し、それより上黒田村新助宅を打破、それより町へ押込、(中略)此時集人凡下郷追手へ相詰之人数程\n也、それより引別、弐分余りは市田村・座光寺村右之庄屋を打破に参る、右三庄屋御構\n(講)\n役人故、又は村々一党無之\n之故也(後略)(三九三頁)\nここでは、下黒田村庄屋仙左衛門の打ちこわしについて、「下郷ぢくり為」=下郷の強訴の動きを藩に注進した\nことが「意\n( 遺恨)\n根」となって打ちこわされたことが、「評ニ曰く」の形式で註記されている。また下市田村庄屋与右衛\n門・平九郎と、座光寺村庄屋七左衛門の打ちこわしについては「右三庄屋御構\n(講)\n役人故、又は村々一党無之故也」と\n打ちこわされた理由が記されている。これらが打ちこわしの実際の理由であったかどうかは不明だが、このように\n打ちこわしの理由が記述されることで、打ちこわしの正当性=打ちこわし被害者の不当性が明示されていたことが\nわかる。こうした打ちこわしの場面については、その他の百姓一揆物語でも次のように描かれている。\n【史料\n14\n】((3 (\n(前略)扨村々一度ニ高松原江寄合、無評定も下黒田村庄屋仙左衛門江と押寄、どつと一度ニ声ヲ上ル、皆々驚キ\n村々罷出仙左衛門ニ向申けるハ、段々千人講ニ付御取持御苦労千万ニ候段々御礼ニ今日御見舞申候と申けれハ、庄\n屋仙左衛門申けるハ皆々様ケ様被遊御出被下忝存入候、御酒ヲあがり被下候と申けれハ、今時何之酒どこです有御\n座間敷いうをあいづにどつと一度ニ踏刻シ家??"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": {"attribute_name": "著者", "attribute_type": "creator", "attribute_value_mlt": [{"creatorNames": [{"creatorName": "林, 進一郎"}, {"creatorName": "ハヤシ, シンイチロウ", "creatorNameLang": "ja-Kana"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "26117", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}, {"creatorNames": [{"creatorName": "HAYASHI, Shinichiro", "creatorNameLang": "en"}], "nameIdentifiers": [{"nameIdentifier": "26118", "nameIdentifierScheme": "WEKO"}]}]}, "item_files": {"attribute_name": "ファイル情報", "attribute_type": "file", "attribute_value_mlt": [{"accessrole": "open_date", "date": [{"dateType": "Available", 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打ちこわされし者たち : 百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.5 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2023-05-18 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 打ちこわされし者たち : 百姓一揆後の地域社会における「外聞」と「遺恨」 | |||||
タイトル | ||||||
言語 | en | |||||
タイトル | Victims by the Uchikowashi (Destructive Peasants’ Uprising) : The “Reputation” and “Grudge” in the Local Community after the Peasantsʼ Uprising | |||||
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資源タイプ | ||||||
資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Article | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
林, 進一郎
× 林, 進一郎× HAYASHI, Shinichiro |
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著作関係者詳細 | ||||||
さいたま市岩槻人形博物館 (巻末 執筆者紹介による) | ||||||
書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokushikan shigaku 巻 27, p. 129-169, 発行日 2023-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 210.5 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
一揆 打ちこわし 千人講騒動 飯田藩 地域社会 |