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( (\n。\n172\n本稿では家近良樹氏の指摘を踏まえて、西郷が遣韓使節就任を望んだ背景を再検討していく。先行研究では西郷\nが遣韓使節就任を唱えた背景については言及されてきたものの、「なぜ、征韓論でなければならなかったのか」と\nの視点で、当該期の政局が論じられることはなかった。留守政府では西郷が遣韓使節就任を唱え始めた「明治六年\n七月二九日付板垣退助宛西郷隆盛書簡\n( ( (\n」に先行して、明治四年一一月から副島種臣(外務卿)を中心に征台論が沸\n騰していた。また、副島が征台論を唱えていた明治四年から五年にかけての時期は、徴兵令発布前であったため、\n征台に際しては不平士族を派遣するものとされていた\n( ( (\n。不平士族対策が喫緊の課題となっていた当時において、征\n韓論が征台論にとって代わっていった要因を検討する余地はあるものと思われる。\nまた、留守政府期の研究においても、従来は明治六年の予算問題が検討の中心に据えられてきた。そのため、予\n算問題の渦中にあった大蔵省・工部省・司法省に研究が集中しており\n( ( (\n、留守政府期の外務省は研究の俎上に乗るこ\nとはなかった。一方で外交史研究において副島外交は、長らく日清修好条規批准や日露国境画定交渉における強硬\nさから国権外交\n( ( (\nや帝国主義的な大陸政策の先駆\n( ( (\nとの評価がされてきた。こうした副島外交に対する理解は、概ね近\n年においても踏襲されているといえる\n( ( (\n。一方で二〇〇〇年代以降の外交史研究では副島は清朝の冊封体制を容認\nし、清朝と対等かつ友好な関係を築くことで東アジア外交の円滑化を企図していたことも指摘され\n( ( (\n、条約体制を期\nする寺島外交への過渡的な段階との評価に押しとどめられている。\nただし、これまでの研究では概ね征台論の口実を引き出した日清修好条規批准の会談や大陸政策の一環と評価さ\nれた樺太交渉に研究の比重が置かれ、内政問題と切り離された考察が進展した。そのため、同時期の内政問題であ\nる予算紛議\n( ( (\nや西郷遣韓使節問題\n(\n(1\n(\nといった重要事項との関連を欠き、留守政府期における征台論の位置づけはあいま\nいなままとなっている\n( (\n1 (\n。\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n173 ま\nた、副島の外交姿勢が清朝に対して強硬であったにせよ、友好的であったにせよ、明治初期の政策決定が太政\n大臣の了承を必要としたことに加え、多額の軍費を必要とする外政には健全財政を志向する大蔵省の強硬な反対が\n予想された。そうした総合調整を要するなかでは、外務省以外の諸省や閣議の意向との兼ね合いのなかで、副島外\n交や征台論の歴史的位置づけを検討する必要があろう。本稿では留守政府期の副島外交の中心的な課題の一つで\nあった征台論を当該時期の政局との関連のなかで位置づけていきたい。\n一 征台論と外務卿権限の拡大\n1\n 副島種臣の征台論\n明治四(一八七一)年一一月八日、台湾に漂着した宮古・八重山の漁民が原住民に殺害される事件が起きる。こ\nれに憤慨した大山綱良(鹿児島県参事)が台湾への出兵を政府に提案したことをきっかけに、政府部内においても\n征台論が高揚していく。とりわけ、政府部内で征台論を唱えていったのが、同年一一月四日に外務卿に就任した副\n島種臣であった。\n副島が征台論を唱えていった背景には、日本に明治五年五月より樺太談判のために来日した駐清露国代理公使\nビューツォフの提案があった。ビューツォフの思惑は、樺太談判から日本を引き離しつつ、日清対立を煽ることに\nよりイリ問題で係争中の清朝の背後を脅かすことを目的としていた\n(\n(1\n(\n。\nビューツォフの提案を容れた副島は、明治五年九月二六日に征台に向けての情報を収集するべく、来日中であっ\nた厦門米国領事リゼンドルと面会する。この席上で副島は征台の計画について次のように言及している。\n174\n一萬位の兵は容易に差出可申候。(中略)貴下に面晤せさる迄は一萬の兵ボタンえ出張上陸為致、夫より掛合\n候はゝ、一言も申間敷と存、若し否申聞候はゝ、直に征伐可致見込に有之候。(中略)一萬の出兵容易なる訳\nは、是迄日本四拾万余の武士いつれも剛勇難御者にて、此等有事は喜て出兵可致\n(\n(1\n(\n。\n以後の漂流民保護の確約を各部族長に取り付けることを目的に、副島は兵員一万人の出兵計画を会談の席上で明ら\nかにしている。ただし、この時の副島の意向は、武力をチラつかせながらも、飽くまで交渉を基本線としており、\n戦闘を第一義としていたわけではなかった。こうした楽観的な観測の根拠となったのが、同日のリゼンドルからも\nたらされた「台湾の戦兵は凡三百計に候\n(\n(1\n(\n」とする情報であったと思われる。副島は一万近い圧倒的な兵力差のもと\nでの優位な交渉を想定していたものと考えられ、戦闘に及んだとしても小規模なうちに収束すると踏んでいたので\nあろう。\n台湾での戦闘が小規模であろうとの観測の一方、副島が懸念していたのは台湾を領有する清朝の動向であった。\nリゼンドルとの会談のなかでも副島は、「乍去支那との交際上に於て如何と心配致候\n(\n(1\n(\n」との相談をもちかけている。\nリゼンドルは「支那との交際を破り候は不好との儀、御尤に候得共、萬国公法に依れは人民保護の儀、支那政府え\n掛合、同政府\n( に脱)\n於保護致し候旨、御掛合至当也\n(\n(1\n(\n」と回答し、清朝政府が台湾を「保護不行届\n(\n(1\n(\n」とした場合に限り、万\n国公法に立脚して出兵可能との見方を示した。\n副島の征台論は清朝や台湾部族長との交渉を基本線とした慎重なものであった。しかし、副島の征台論は結果的\nに緊縮財政を標榜する井上馨(大蔵大輔)によって閣議で否決される。「明治五年一〇月一八日付木戸孝允宛井上\n馨書簡\n(\n(1\n(\n」には、井上が征台に反対する理由が次のように記されてある。\n(台湾民の琉球漂流民殺害を清国政府に問い合わせたところ―筆者註)同政府(清国政府―筆者註)ハ百事錯\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n175 雑\n、之ヲ統括スルノ意ナシ。故\n( ニ脱)\nリコーシヨウ名\n人 ニ命ジ、此吾使節ニ応接ヲナセシムルナラン。当時同人ハ支那\n一人ノ人物故、之離間之策ヲ施ス必免官ナルベシ。サスレバ彼ノ嶋ハ同政府ニ更ニ保護スルノ論ハナク、故日\n本政府ヨリ自由ニ其罪ヲ問フベシト返答スル必要ナリトノ大意ニテ、殆我掌握ノ内ト云気色ナリ。終ニ諸長官\nノ会議トナリ、吾輩尤不同意ヲ申立タリ。其故ハ、外ニ趣\n(赴カ)\nキ吾国威ヲ拡張スルハ誰歟不楽。然国威ヲ揚ント\nセバ先内務ヲ調、内富強ノ基礎相立、然後他ニ及ブヲ順序トス。(中略)且既ニ当冬諸大名ノ禄ヲ発\n(廃カ)\nスル論モ\n一決セリ。又来春ハ士族卒ノ禄券モ発行スルニ決セリ。内百端事ヲ起シ、外百端事ヲ起サント企望スル、何\nレ\n( ノ脱)\n所エ開化文明スル哉。実ニ方向ヲ失セリ。故防之。\nこれによれば、台湾は清朝の版図であるものの、遠隔地であるために琉球漁民殺害に同国政府は関与しないこと\nが、日本政府で周知されていたことがわかる。台湾での事件に清朝政府は関知しないとの回答を得たことで征台は\n現実味を帯びていくものと思われたが、閣議では華士族の秩禄処分に備えて禄券発行の基本金確立を優先する井上\nの主張が通り、外征の凍結が決定する。ただし、清朝が台湾を「保護スルノ論ハナク」と回答したことで、井上の\n主張を抑えることさえできれば、征台が実現可能との見通しを与えていった。\n2\n 外務卿権限の強化\n井上馨が明治五(一八七二)年九月から起草に着手した明治六年の諸省予算案は、同年一〇月に正院の内決を得\nたこともあり、副島種臣が唱える征台論は凍結される\n(\n(1\n(\n。本節では副島が大蔵省の意向を踏まえて凍結に同意せざる\nをえなかった要因を検討していきたい。\n明治二年七月の職員令により外国交際と貿易監督を目的に外務省が設置される。外務省が省務を十分に遂行でき\n176\nるだけの機構を確立するのは明治六年一月まで待たなければならない。機構確立までのあいだ、外務省は迎賓施設\nである延遼館設置(明治二年)や在外公使制度の確立(明治三年)を行っていたが、条約改正の予備交渉は岩倉使\n節団が担うとされたうえ、在外公使館もパリ(明治四年五月)・ワシントン(明治四年六月)・ロンドン(明治五年\n九月)に設置したに過ぎなかった。\nそもそも、当時の外務省は他の行政諸省に比べて、職権の及ぶ範囲も狭小であり、明治四年八月に起草された\n「外務省章程\n((2 (\n」には卿の位置づけは次のようにされていた。\n第一条\n各国帝王及ヒ其他ニ対シ、我天皇陛下ノ御璽ヲ下シ玉へル文書ヲ贈答スルニ当テハ外務卿其旨ヲ奉シ、コレヲ\n保護スルノ責ニ任スヘシ。其目如左。\n一、我天皇陛下ヨリ各国帝王ニ対シ、慶弔依托許可等ノ勅書ヲ贈答スルニ当テ、外務卿コレニ印スヘシ。\n一、各国人ニ勅書ヲ賜フコトアラハ、外務卿亦宜シクコレニ印スヘシ。\n一、各国政府ト諸条約ヲ結フニ商議既ニ定リ、天皇陛下御璽ヲ下シ、コレヲ保証シ玉フ時ニ当リテハ外務卿コ\nレニ印スヘシ。\n一、我天皇陛下ヨリ各国帝王其他ニ委員ヲ差派スルニ当テ、信憑ノ勅状及ヒ委任状等御璽ヲ下シ玉フヘキモノ\nハ外務卿コレニ印スヘシ。\n右ノ事項ハソノ因由外務省又ハ他官省ニ関カルヲ問ハス、ソノ文案条目、外務卿必ス予メ其議ニ与参協同スル\nノ権アル可シ。\nこのなかで外務卿の職掌は、外交文書の授受と捺印とされ、外交交渉や条約締結にまで権限は及んでいなかった。\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n177 そ\nればかりか、外務卿は独断での判断が許されておらず、「右院ノ議ヲ問ヒ、又ハ同院ヨリ起ルトコロノ議ヲ主裁\n( (\n2 (\n」\nするとされ、行政諸省の合議体である右院の意向を踏まえなければならないとされていた。つまり、外務省は右院\nを通じて諸省の意向に左右される脆弱な体制であったことが指摘できる。さらに留守政府には右院は休会状態と\nなっており、外務卿は実質的な決定権を行使できなかったことが推測できる。\nそうしたなかで、明治六年の予算案において外務省は、一六万八七〇〇円\n( (\n2 (\nの査定を受ける。この額は前年の同省\n決算額が二〇万五二九二円\n( (\n2 (\nであったことを考えれば、実質的には四万円近くの減額を被ったこととなる。この時、\n減額を外務省が被ったのは、岩倉使節団と留守政府のあいだで結ばれた「約定書\n( (\n2 (\n」に則ってのことであった。「同\n書」第七款には「廃藩置県ノ処置ハ内地政務ノ純一ニ帰セシムヘキ基ナレハ、条理ヲ遂ケ順次其実効ヲ挙ケ、改正\nノ地歩ヲナサシムヘシ」とあり、建前上は国内改革を断行するにしても廃藩置県後の事後処理に限定するとしてい\nた。外務省はこうした廃藩置県後の事後処理に直接関与することがないため、減額査定を被ったのだろう。\nもともと外務省は司法省(明治五年決算額四六万円)・文部省(同五七万円)・工部省(同七〇万円)と比較して\n予算が小規模であった。そのため、四万円とはいえ、予算削減の痛手は大きく、明治六年の査定額について外務省\nでも他の行政諸省同様に予算への不満が高まっていった。予算決定後の明治六年一月四日、外務省は正院に宛てて\n左の上申書を提出する。\n今般常額金御改定ニ付、当省入費内訳書相伺候処、海外派出ノ公使附属費用ノ外ハ惣テ当省定額ニテ可仕払旨\n御達有之。然ル処、大蔵省ヨリ伺済書面相廻越候ニ付、一覧致シ候処、海外旅費並外国エ注文品代価等常額金\nニテ仕払候趣ニ候得共、右ハ初発ヨリ当省見込外ニテ、尤旅費ノ儀ハ臨時御用次第ニテ度数概算難相立候\n( (\n2 (\nこの史料によると、外交交渉のための官員派出も予算で賄うべきとされたことを受け、外務省は「当省見込外」と\n178\nして外国への大使・公使・公使派遣が「臨時御用」であることから予算多寡の目途が立ちにくいとして批判してい\nる。また、予算削減の影響によって在外公使館の設置も停滞しており、明治五年九月にロンドンに在外公使館(公\n使は寺島宗則)が設けられて以降、途絶えていた。\n先行研究では、井上の財政方針は大蔵省と行政諸省との予算をめぐる対立を生んだとして国内問題に意義が収斂\nされてきたが\n( (\n2 (\n、対外関係においては、征台論が凍結されたばかりか、外務省は外交事務全般に及ぶ行き詰まりを見\nせていった。\nこうした外交事務のデッドロックと大蔵省への対抗を期して、外務省は章程改正を企図していく。明治六年一月\nに改正された「外務省事務章程\n( (\n2 (\n」において、外務卿は「諸省使長官ノ最頂ニ立テ朝政ノ万機ニ通知シ、恭ク聖意ヲ\n体シテ時々ノ論旨ヲ遵奉シ、並ニ邦国相交ルノ公法ヲ照準シ、海外各国政府ト我帝国天皇陛下政府トノ交際事務ヲ\n奉行スルヲ以テ職掌トス」とされ、正院のお墨付きのもと、外務卿の序列は行政諸省卿の首席とすることが表明さ\nれた。そればかりか、「緊要ナル時ニ随、即チ正院ニ至リ弁理スル事」とされ、右院での諸省との合議を経なくて\nも直接に正院の裁可を求めることが可能となった。\n「外務省事務章程」制定の背景には、予算減額による外交事務のデッドロック打破があったが、一方で副島もか\nねてから「大使と政府との往復、外交交際に関るものは外務卿必ず先つ其議に渉り、且之を取扱ふへき事と奉存\n候\n( (\n2 (\n」「命を在外使臣に伝へ、訓条を授け、交際を保護するは外務卿の職なり\n( (\n2 (\n」と考えており、外務卿の職務である\n諸外国との「交際事務」を全うするには井上の財政策に対抗する必要があった\n( (\n3 (\n。また、外務卿が正院と直結し、他\n省に優越した結果、征台凍結の閣議決定を覆すことを可能とする素地が整っていった。\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n179 二\n 征台論の雲散霧消と征韓論の台頭\n1\n 征台論の実現と西郷隆盛の征韓論\n「外務省事務章程」制定から二か月後の明治六(一八七三)年三月一三日、外務卿副島種臣は、日清修好条規批\n准のために渡清する\n( (\n3 (\n(同年七月二五日帰国)。副島の渡清と征台論をめぐっては、渡清によって征台が遠のいたと\nする見解があるが\n( (\n3 (\n、後述するように渡清によって征台の口実を得たことからも、副島の渡清は却って征台の実現に\n向けた動きの一環であったといえよう\n( (\n3 (\n。\n事実、副島は渡清一ヶ月前の二月一七日に大隈重信(参議)に宛てた書簡のなかで、次のように豪語していた。\n台湾半島丈ならは舌上にて受取候義は随分御受合可申、全島ならは兵戈にも可及歟も難計、併半島受取居候は\nらは四五年間にて全島も舌上にて手に入れ可申、此度の機会不可失と存候\n( (\n3 (\nこれは渡清中に台湾をめぐる交渉を進めることの了解を大隈に求めるために送った書簡と思われる。この書簡が書\nかれた時点では、征台に否定的な大蔵大輔井上馨も政府に居り、依然として征台の凍結は基本路線であった。その\nため、征台ではなく、台湾をめぐる交渉だけでも進めようとしたのであろう。\nただし、この書簡からもわかるように、副島の思惑は当初の征台の目的であった琉球漁民の保護から台湾領有へ\nと逸脱していった。この時に目的が逸脱していったのは、明治六月二日のビューツォフとの樺太交渉の席上で、台\n湾領有に成功した暁には樺太を放棄しても良いと副島自身が示唆したことにあった\n( (\n3 (\n。副島が樺太放棄と台湾領有を\n等価に考えたのは、明治二年の交渉着手以来、停滞していた樺太交渉の進展を期してのことであった。\n180\nいずれにせよ、外務卿が正院(参議)に直接働きかけることが可能となったことで、征台に向けての対清交渉が\n実現へと動き出していったことは事実である。しかし、副島が凍結されたはずの征台を蒸し返したことが、後に西\n郷隆盛が征韓論を唱える布石となっていく。\n大隈をはじめとした正院への働きかけが功を奏して、渡清に際して副島に渡された勅書には次のように記されて\nいる。\n朕聞ク、台湾島ノ生蕃、数次我人民ヲ屠殺スト。若棄テ問ハスンハ、後患何ソ極ラン。今爾種臣ヘ委ヌルニ全\n権ヲ以テス。爾種臣、其往テ之ヲ伸理シ、以テ朕カ民ヲ保ンスルノ意ヲ副へヨ。欽哉\n( (\n3 (\n。\nこの勅書によれば、日清修好条規批准の会談において台湾問題についての清朝政府との交渉を可とされていること\nがわかる。さらに、委任の要旨には次のように記されていることも確認したい。\n一、清国政府ニ於テ台湾全島ヲ其所属地ト為シ、右談判ヲ引受ケ、其処置ヲ施スコトヲ任スルニ於テハ、横殺\nニ逢シ者ノ為メ十分ナル伸冤ノ処置ヲ責ムヘシ。(中略)\n一、清国政府ニ於テ若政権ノ及ハサルヲ以テ之ヲ其所属地トセスシテ、右談判ヲ引受サル時ハ之ヲ朕カ所置ニ\n任スヘシ。\n一、清国政府ニ於テ若シ台湾全島ヲ属地ト為シ、事ヲ左右ニ托シ、其談判ヲ引受サル時ハ清国政府政権ヲ失セ\nル次第ヲ明弁、且生蕃人無道暴逆ノ罪ヲ論責シ、而シテ服セサレハ、此上ノ処置、朕カ意ニ任スヘシ。\n一、右談判三条ノ外ニ出ル答アラハ、公法ヲ遵守シ、公権ヲ失ハサルヤウ審思注意シ、臨機ノ談判ヲナスヘ\nシ\n( (\n3 (\n。\nここでは清朝が①台湾原住民の処分を引き受けた場合、②台湾原住民については政権が関与しないと回答した場\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n181 合\n、③台湾の領有を認めながらも台湾原住民への処分を拒否した場合の交渉が想定されており、②③の回答があっ\nた場合には日本政府が台湾部族長に直接交渉することも想定していた。ただし、正院から副島に対しては、次のよ\nうな交渉方針が求められていたことに留意しておきたい。\n清国ノ義ハ我国ト往来スル事、一朝ニ非ス。曽テ隣好ノ誼アリ。今又訂交ノ約書ヲ交換セントス。此際生蕃暴\n逆ノ事件ヲ談判スル。全ク我政府国民ニ対スル義務、不得已ニ出ツ。故ニ交際ヲ重シ、和平ヲ旨トシ、両国釁\n隙ヲ生スル事ナキヲ要トス\n( (\n3 (\n。\nこの通達によると、会談の席上で台湾問題を提起する理由は、「我政府国民ニ対スル義務」のために致し方ないこ\nととしており、あくまで征台には踏み込まずに平和解決に向かうよう努力することが、副島に求められていた。\nまた、大蔵少輔であった渋沢栄一によれば、留守政府は①の回答を期待していたようで、次のように正院は征台\nには依然として否定的な立場をとっていた。\n元来生蕃人琉球人民を横殺いたし候に付問罪云々之事は、一昨年十月十三日小生は条公之邸に於て始而拝承\n仕、其節より節に其不可を上申いたし、尋而其月廿六日井上より条公へ建白書を差上、五\n(ママ)\n不可を条陳いたし、\n右にて一時御見合之様子に候処、昨年三月末副島氏支那へ御遣之節尚議相発し、四月初旬正院に於て大隈、板\n垣、大木、江藤、小生輩へ右使節発遣に付支那政府へ談判之振合審議可致様との命有之、両三日間大に討論之\n上、日本政府之目的は決而支那政府と釁隙は不相生、且願くは支那政府にて生蕃を其版図とし横殺之伸冤は引\n受呉候様致度、只政府之義務を尽すに止り候事にて、敢而略地を本旨と致候義に無之に付、使臣支那政府との\n談判は右之要旨を本拠にいたし可申段、勅書御渡相成候筈御確定相成、副島氏は出発被致候事に有之、其後小\n生は放免を得候に付、副島氏帰朝之上右談判支那政府との界限は如何相成候哉聢と拝承不仕候得共、其節伝聞\n182\n候には、柳原(前光―筆者註)氏より彼書記官へ対し聊其端を叩き候迄にて、決而公書往復等も無之由に相伺\n候\n( (\n3 (\n。\nこれは明治七年の台湾出兵の閣議決定に反対して下野した前参議木戸孝允に宛てて、同年に渋沢が留守政府におけ\nる征台論の顛末を説明するために送った書簡である。この書簡によれば、正院では日本政府が処断を下すことより\nも、清朝政府が台湾諸部族の処断を引き受けるよう要請することが交渉の基本線と決定していたことがわかる。そ\nのため、副島は前述の大隈宛書簡においても、清朝訪問に際しては、交渉をもって台湾問題の解決を第一義とする\nよう約したものと考えられる。また、清朝との交渉方針が決定した明治六年四月は、予算紛議の真っ只中にあった\nとはいえ、依然として井上馨(大蔵大輔)が財政支出の抑制に躍起になっている時期であり、井上が政府にいるな\nかでは外征への批判が沸騰することは目に見えていた。\nしかし、渡清後の会談の席上、副島の意を汲んだ\n( (\n4 (\n柳原前光(外務大丞)が清朝政府高官に対し、台湾問題の「其\n端を叩」いたとあり\n( (\n4 (\n、清朝高官から台湾原住民族には関知しないとの言質を引き出したことで、凍結されていたは\nずの征台論は再び動き出していく。征台の口実を引き出したとの情報は、副島に随行していた樺山資紀(陸軍少\n佐)によって「明治六年七月一二日付西郷隆盛宛樺山覚之進書簡\n( (\n4 (\n」のによって西郷隆盛(参議)に伝えられた。\n交渉の席上での副島使節の態度について、応接にあたった李鴻章(直隷総督)は「言葉は傲慢で脅迫を意図して\nいる\n( (\n4 (\n」との印象を持ったとある。この時、副島使節が強硬な姿勢で会談に臨んだのは、清朝政府を挑発し、征台の\n口実を得るためだったと考えられる。こうした閣議決定を無視した方針がとられていった背景には、樺太談判に征\n台が影響を及ぼすことに加え、外務卿権限の拡大があったものと思われる。つまり、樺太談判の停滞を打破するた\nめには征台は不可欠であり、「外務省事務章程」制定によって外務省と正院が直結したことで、外務卿が正院さえ\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n183 説\n得できれば、大蔵省(井上)の反対を押し切ることも可能との見込みがあったのだろう。\nただし、清朝政府との交渉の席上での征台の口実獲得は、正院の与り知らぬところでの副島の独断専行であり、\n征台凍結を念頭においていた正院にとっては、「寝耳に水」の出来事であった。\n2\n なぜ征韓論が優先されていくのか\n副島種臣(外務卿)が征台の口実を引き出したことを西郷隆盛(参議)が知らされたのは、「明治六年七月一二\n日付西郷隆盛宛樺山覚之進書簡\n( (\n4 (\n」によってであった。副島が渡清中の明治六(一八七三)年五月二五日、外征凍結\nの急先鋒であった井上馨(大蔵大輔)が予算紛議に敗れて政府を去ったことで征台の障害はなくなっていた。さら\nに前年八月には鹿児島分営長樺山資紀と熊本鎮台司令官桐野利秋が上京し、西郷ら諸参議に征台論を説いていた\n( (\n4 (\n。\nそうしたなかで、副島の交渉成果を伝えられた西郷は、七月二一日に西郷従道(陸軍少将)に宛てて、次のように\n出兵準備の指示を出している。\n扨台湾の模様少々相分候由、就いては兵隊御繰り出し相成り候儀に候わば、鹿児島の兵一大隊招集いたし、別\n府(晋介―筆者註)氏引き受けたきとの事に候間、至極宜しかるべきと相考え候に付き、御方迄御申し入れ置\nき成らるべき旨申し置き候処、野生よりも相頼み呉れ候様承り候に付き、何卒相働き下されたく御頼み申し上\nげ置き候。いまだ副島氏罷り帰らず候わでは、御決定の儀も出来事難き事に候え共、前広申し置かず候わでは\n定めて諸方より願い立て候わんと相考え候に付き、宜敷御含み下さるべく候\n( (\n4 (\n。\nこの書簡によれば、西郷は別府晋介(陸軍大佐)を征台の指揮官に内定させ、陸軍の調整に奔走していた。西郷の\n見込みでは、征台には鹿児島の一大隊(五〇〇から六〇〇程度の兵員)で充分とされていた。西郷が僅か\n184\n五、六〇〇程度の兵員で充分と判断したのは、前年九月二四日のリゼンドル(外務省顧問)の答申で「台湾の戦兵\nは凡三百計に候\n( (\n4 (\n」とあったことを踏まえたためであろう。一大隊の投入で収束すると踏んだように、西郷は征台が\n小規模な戦闘で収束すると見込んでいた。従道宛のこの書簡で、西郷は征台の指揮は従道と別府に委ねるとの姿勢\nを見せており、征台には否定的でないものの、消極的な態度をとっていた。\n征台実行が寝耳に水であったうえ、この頃、西郷は島津久光からの圧力を原因とする体調不良を抱えたなか、不\n平士族たちの不満解消を課題としていた\n( (\n4 (\n。しかしながら、征台では小規模な戦闘で収束する見込みのため、士族の\n不満解消につながりにくかった\n( (\n4 (\n。また、征台に際しては既に副島が清朝政府から口実を引き出すことに成功してい\nることに加え、現地での戦闘には別府の派遣を見込んでおり、遣韓使節就任に際して西郷が望んだ「暴殺」や戦死\nの期待は薄かった。このことから西郷に征台を撤回させ、征韓へと向かわせる原因となっていったと考えられる。\n「明治六年七月二九日付板垣退助宛西郷隆盛書簡\n( (\n5 (\n」で西郷が自ら遣韓使節就任の意思を表明する。八月三日以降、\n三条実美(太政大臣)に宛てた書簡において征台の可否を速やかに閣議決定するよう促したことを最後に、西郷は\n三条と板垣退助(参議)から西郷遣韓使節への同意を引き出すため奔走していく。その後、征台論は明治六年一〇\n月一四日までもつれ込んだようである\n( (\n5 (\n。しかし、同日の閣議の席上で西郷自身が「樺太、台湾の二事件は、何ぞ之\nを重大と謂はん\n( (\n5 (\n」と唱えたことで、閣議議題は西郷の遣韓使節任命の是非へと集約されていった。翌一五日の閣議\nにおいて征台を差し置いて西郷の朝鮮派遣が内定する。\n七月以降、征韓論が議論されるが、当初、副島は「征韓一挙、魯国中立の件を以て所謂釣合品の一に算入\n( (\n5 (\n」する\nと説いており、ロシアへの警戒感から征韓戦争には否定的であった\n( (\n5 (\n。そのため、副島は七月以降も依然として征台\nを期して、九月二七日に次のような書簡を三条に認めている。\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n185 岩\n倉右大臣帰朝後、最早十参日に成候得ハ台湾等之事件手後レ不相成様御決定相成度。気候寒冷ニ向ひ、且ハ\n英国も手をつけ候趣、上海ゟ之報知度々有之、蕃夷之地清国之関係を離レ候上ハ油断難相成。時宇時不再来、\n御明断相希ミ候。次ニ高麗之事件、是又御明断有御坐度。内輪之事ニ営々として海外之有益を不図候ハバ、飽\nまて文明を虚飾すとも何次カ東方之英国たらんや\n( (5 (\n。\nこのなかで副島は、速やかな征台の閣議決定を三条に迫っている。副島によれば、征台を急ぐ理由は英国が台湾出\n兵を企図していることと、気候が寒冷に向かっていることにあった。\nただし、英国の世界戦略の主眼は、本国―インド―清朝の「帝\nエンパイアルート\n国航路」の維持であったとはいえ、この頃の英国\nはイランへの経済進出が最優先課題とされていた\n( (\n5 (\n。また、英国と覇権を争っていたロシアは、イリ問題で清朝と対\n立していたとはいえ、同地の確保には成功しており、トルキスタンを経て関心はインドへと向けられていた\n( (\n5 (\n。つま\nり、英露対立の舞台は南アジアへと向かっており、この時期の日本周辺では英露対立は緩和の時期に差し掛かって\nいた。「帝国航路」維持は西・南アジアへと向けられており、台湾をめぐる副島の認識は正確ではなかった。樺太\n交渉の前提として台湾獲得を考える副島にとって、征台の実行は最大の関心事であった。したがって、英国の動向\nを口実にしてでも征台を実行に移す必要があった。\n一方で気候上の問題は、副島に限らず樺山資紀からの書簡を通じて西郷も認識していたようであるが\n( (\n5 (\n、却って早\n期出兵を期して一〇月を期限としたことで、征台の延期はありえず、議論は実行か中止の二者択一となり、明治六\n年一〇月に入ると議論の低調化をもたらしていった。こうした時限的制約が征韓論にとって代わられる要素の一つ\nとなっていったと思われる。\n西郷の遣韓使節就任は副島・板垣・後藤象二郎・江藤新平の賛成を得て、一〇月一五日の閣議で内定する。しか\n186\nし、閣議の紛糾を原因とした体調不良に見舞われた三条の代理となった岩倉具視(右大臣)が、二三日に閣議決定\nである西郷遣韓使節の派遣とともに延期を上奏し、天皇から延期の裁可がくだったことで収束していった\n( (\n5 (\n。以後、\n大久保政権のもとでの外征(台湾出兵・江華島事件)では、士族の不満解消が目的とされず、陸海軍が動員された\nために外征が士族の不満解消につながるとの見通しは否定されるにいたった。外征による不満解消が否定されたこ\nとで、不平士族の多くは民権運動や士族反乱へと身を投じていった。\nまた、征台論を唱えた副島は西郷遣韓使節を支持して、明治六年一〇月二五日に参議・外務卿を辞して廟堂を去\nる。副島もまた翌年一月の「民撰議院設立建白書」に名を連ねる。ただし、副島は明治九年九月から同一二年春ま\nでの清国漫遊を経て、明治一二年四月二一日に宮内省御用掛一等侍講兼侍講局総裁として政府に舞い戻るものの、\n明治六年政変以後は政治や外交の表舞台とは一線を画していく\n( (\n6 (\n。\nおわりに\n本稿では征台論の高揚が西郷隆盛(参議)による征韓論を提起させていくとの見通しを検討してきた。明治四\n(一八七一)年一一月四日に起きた琉球漁民殺害をきっかけとした征台論を受けて、副島種臣(外務卿)はリゼン\nドル(駐厦門米国領事・のち外務省顧問)らから情報を収集しながら征台の実行を求めていった。しかしながら、\n副島が征台を唱えた留守政府期は、井上馨(大蔵大輔)が秩禄処分の準備金確保を優先した予算を成立させたこと\nに加え、外務省権限が狭小であったため、副島の征台論は凍結を余儀なくされた。\nただし、明治六年一月以降、行政諸省の大蔵省への不満表明に便乗し、外務省も「外務省事務章程」を制定して\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n187 外\n務卿を行政諸省長官の首席として大蔵省を凌駕することを企図していった。外務卿権限の強化は予算削減によっ\nて生じた外交のデッドロック打破のための手段であったが、正院と外務卿を直結させたことで外務卿の独断が可能\nとなる素地が生じていった。そうしたなかで、日清修好条規批准の会談の席上で副島の意向を踏まえて柳原前光\n(外務大丞)が、清朝政府から征台の口実を引き出したため、征台が動き出していった。\nしかし、一度閣議で凍結されたはずの征台が動き出したことは、留守政府にとってはまさに寝耳に水であった。\nまた、仮に台湾へ出兵したとしても小規模な戦闘に終始する公算が高いため、西郷の意向にも適わなかった。した\nがって、西郷は士族の不満解消と「死地」を求めて自ら使節となり、謀殺されるシナリオでの征韓論を唱えていっ\nたと思われる。\nそもそも、対清交渉を引き金とした明治六年七月から一〇月の征台論は、大蔵省と外務省の対抗の所産といえる\nものであった。つまり、帝国主義的な発想というよりも、国内問題の紛糾が大陸進出へと帰結していったと規定で\nきよう。かつての明治維新期の対外政策研究は、植民地化の危機との対抗を意識して描かれてきた。たとえば、戦\n後歴史学の主要な問題関心の一つである外圧論は、幕末から明治初年にかけて日本を取り巻く国際環境が植民地化\nの危機を伴うものか否かを検討することに置かれていた\n( (\n6 (\n。また、条約改正史研究も同様に幕末の不平等条約を克服\nしつつ、植民地化を回避して日本が「西洋化」していくとの近代像を提示していた\n( (\n6 (\n。こうした理解は、東アジア外\n交史研究にも援用され、明治初年の東アジア外交に植民地化の危機を回避して帝国の仲間入りをするとの性格規定\nを加えた\n((6 (\n。\nしかし、近年の政治史研究においては、近代化そのものが「西洋化」などの規定路線を踏襲したものでないこと\nが明らかとされてきた\n( (\n6 (\n。こうした近代像を念頭においた場合、本稿で論じた副島の征台論もまた大陸政策一辺倒で\n188\n捉えることに疑いの余地を生じさせる。事実、明治七年五月の台湾出兵では、副島が外務卿在任中に収集した情報\nが活用される一方、大久保利通(参議・内務卿)の外征は清朝政府との戦争の可能性をはらんでしまう。台湾出兵\n後に清朝政府との緊張緩和に大久保が奔走せざるを得なくなり、副島外務卿期に企図された征台の実行が国際関係\nの悪化を招くと認識させたところに、明治政府の対外方針の転換が垣間見えるとともに、留守政府から一貫して既\n定路線的に大陸進出や帝国主義の発露したとも言い切れない側面があるといえよう。\n註\n(1) 家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房、二〇一一年)。\n実際に「明治六年七月二九日付板垣退助宛西郷隆盛書簡」には次のようにある。\n公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せられ候に付き、何卒私を御遣わし下され候処、伏して願い\n奉り候。副島君の如き立派の使節は出来申さず候得共、死する位の事は相調い申すべきかと存奉り候間、宜敷希い奉り候。\n此の旨略儀ながら書中を以て御意を得奉り候(西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』二巻、三七一~三七二頁)。\n(2) 前掲西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』二巻、三七〇~三七二頁。\n(3) 「一萬の出兵容易なる訳は、是迄日本四拾万余の武士いつれも剛勇難御者にて、此等有事は喜て出兵可致」(「壬申九月廿四日於\n横浜出張所副島外務卿米国人ゼネラル、リゼンドル応接記」〈外務省調査部編『大日本外交文書』七巻、一三頁〉)とあり、征\n台に際して士族を派遣することが企図されている。\n(4) 毛利敏彦『明治六年政変の研究』(有斐閣、一九七九年)、同『明治六年政変』(中央公論社、一九八〇年)、同『江藤新平』(中\n央公論社、一九八七年)、関口栄一「明治六年定額問題」(東北大学法学会編『法学』四四巻、一九八〇年)、同「司法省と大蔵\n省」(前掲東北大学法学会編『法学』五〇巻一号、一九八六年)、柏原宏紀『工部省の研究』第六章(慶應義塾大学出版会、\n二〇〇九年)、小幡圭祐『井上馨と明治国家建設』(吉川弘文館、二〇一八年)、拙著『司法省と明治国家の形成』第四章・第五\n章(同成社、二〇二〇年)など。\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n189 (\n5) 永井秀夫『明治国家形成期の外政と内政』(北海道大学出版会、一九九〇年)。\n(6) 安岡昭男『明治前期大陸政策史の研究』(法政大学出版局、一九九八年)、張虎「副島対清外交の検討」(明治維新史学会編『明\n治維新とアジア』吉川弘文館、二〇〇一年)。\n(7) 安岡昭男『副島種臣』(吉川弘文館、二〇一二年)、醍醐龍馬「外務卿副島種臣と日露領土問題」(国際政治学会編『国際政治』\n一九一号、二〇一八年)。\n(8) 小風秀雅「華夷秩序と日本外交」(前掲明治維新史学会編『明治維新とアジア』)。\n(9) 高橋秀直「留守政府の政治過程」(神戸商科大学経済研究所編『人文論集』二九巻一号)では、井上馨(大蔵大輔)の財政方針\nを検討され、井上財政が外征を凍結させたとした。本稿もまた高橋氏が提起した意義づけを踏まえるものであるが、副島の征\n台論は一貫して留守政府でくすぶり続けた問題であり、後述する日清修好条規批准の会談においても、副島は閣議決定である\n外征の凍結を覆すことを企図している。本稿ではなぜ副島が閣議決定を覆したかについても論及する。\n(\n10\n) 征韓論と征台論の関連については、近年でも解明が進んでいない。このことは森田朋子・齋藤洋子『副島種臣』二九頁(佐賀\n城本丸歴史館、二〇一四年)でも提起されている。\n(\n11\n) ちなみに前掲高橋「留守政府の政治過程」では、明治五年の征台論から日清戦争まで対外政策において薩派―強硬と長派―穏\n健の図式が成立したと捉えるが、明治六年政変において薩派である大久保利通(参議)は征韓論には否定的な立場をとってい\nる。また、日清戦争に際して松方正義は緊縮財政の立場から非戦論を唱えている。このことから薩派も一枚岩とは言い難く、\n一概に薩派―強硬と長派―穏健という図式で定義できない。\nまた、後藤新「台湾出兵の一考察」(武蔵野大学法学会編『武蔵野法学』一二号、二〇二〇年)は、副島の渡清使節内定の経\n緯を詳述しつつ、副島の対清交渉方針がリゼンドルの意見を踏まえて台湾の領有を企図したものであることを実証している。\nただし、同論文は征台論や副島の対清交渉方針が当時の政局においてどのような影響のもとで形成されていったのかなどの意\n義づけが課題となっている。\n(\n12\n) 前掲醍醐「外務卿副島種臣と日露領土問題」。\n(\n13\n) 前掲「壬申九月廿四日於横浜出張所副島外務卿米国人ゼネラル、リゼンドル応接記」。\n(\n14\n) 前掲「壬申九月廿四日於横浜出張所副島外務卿米国人ゼネラル、リゼンドル応接記」。\n190\n(\n15\n) 前掲「壬申九月廿四日於横浜出張所副島外務卿米国人ゼネラル、リゼンドル応接記」。\n(\n16\n) 前掲「壬申九月廿四日於横浜出張所副島外務卿米国人ゼネラル、リゼンドル応接記」。\n(\n17\n) 前掲「壬申九月廿四日於横浜出張所副島外務卿米国人ゼネラル、リゼンドル応接記」。\n(\n18\n) 井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』一巻、四七六~四七八頁。\n(\n19\n) 事実、宮島誠一郎「養浩堂日録(早稲田大学図書館所蔵「宮島誠一郎関係文書」二五)には、正院での審議事項が次のように\n記されており、留守政府において征台は凍結されていたことがうかがえる。\n此節目的立議之廉。国内省ヲ起ス事。国会議院ヲ起ス事。文部教育ヲ隆ニスル事。陸軍ヲ改正スル事。工部ヲ民ニ付スル\n事。国法ヲ立ル事。州県ヲ革正スル事(明治六年四月二〇日条)。\n(\n20\n) 外務省編『外務省の百年』八九頁(原書房、一九六九年)。\n(\n21\n) 「外務省章程」(前掲外務省編『外務省の百年』九〇頁)。\n(\n22\n) 明治財政史編纂会編『明治財政史』三巻一八九頁。\n(\n23\n) 前掲明治財政史編纂会編『明治財政史』三巻一八五頁。\n(\n24\n) 国立公文書館所蔵「単行書・大使書類原本大臣参議及各省卿大輔約定書」単〇〇三二四一〇〇。\n(\n25\n) 「定額金御改定ニ付伺」( 国立公文書館所蔵「公文録」明治六年九一巻、外務省伺録〈明治六年一月・二月〉。公\n〇〇八二二一〇〇一〇〇四)。\n(\n26\n) 前掲関口「明治六年定額問題」、前掲同「司法省と大蔵省」など。\n(\n27\n) 前掲外務省編『外務省の百年』九九頁。\n(\n28\n) 「明治五年四月二五日付正院宛上申」(前掲外務省編『外務省の百年』九八頁)。\n(\n29\n) 前掲「明治五年四月二五日付正院宛上申」。\n(\n30\n) なお、前掲外務省編『外務省の百年』は、条約改正本交渉に乗り出すため、明治五年五月に岩倉使節の随員であった大久保利\n通と伊藤博文が委任状交付を求めて帰国した際に、副島が反対の上申をして以降、副島は外務卿権限の強化に積極的となって\nいたことを指摘する(九八・九九頁)。\nしかし、国書への外務卿の加印や在外使臣への訓令を外務卿から伝達することなどは、すでに明治四年八月制定「外務省事\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n191 務\n章程」に記されていることで、外務卿権限の拡大を企図したものではない。むしろ、副島の上申書は「外務省事務章程」の\n確認の意味であったと評価することができる。\n(\n31\n) なお、井上は大隈に宛てて副島の渡清に際して次のような所見を送っている。\n副島之使節ハ自然事誤ルト取返ス不能事件ニ候間、同人ハ其侭外務卿ナレハ御留置候而、其人ヲ御遣シ被成候方、御丈夫\n歟と奉存候。其人撰ハ陸奥(宗光租税頭―筆者註)ヲ御撰被成候ハヽ、同人ハ充分御適当歟ト奉存候(「明治六年三月一日\n付大隈重信宛井上馨書簡」〈日本史籍協会編『大隈重信関係文書』二巻、三七頁〉)。\n井上は副島を渡清使節に任命した場合、取返しのつかないことになるため、陸奥宗光を派遣すべきとしていた。\n(\n32\n) 前掲毛利『明治六年政変』一〇八頁。\n(\n33\n) 勝田政治氏によると、征台は不平士族対策として留守政府では位置づけられており、副島の渡清中も征台論は収束しなかった\nと指摘されている(勝田政治『内務省と明治国家形成』六六~六七頁〈吉川弘文館、二〇〇二年〉)。\n(\n34\n) 「明治六年二月一七日付大隈重信宛副島種臣書簡」(早稲田大学大学史資料センター編『大隈重信関係文書』七巻、五四~五五\n頁)。\n(\n35\n) 前掲醍醐「外務卿副島種臣と日露領土問題」。\n(\n36\n) 宮内庁編『明治天皇紀』三巻、三八頁、明治六年三月九日。\n(\n37\n) 前掲宮内庁編『明治天皇紀』三巻、三八~三九頁。\n(\n38\n) 「清国ニテノ心得方達ノ件」(外務省編『日本外交文書』六巻、一二三頁)。明治六年三月九日。\n(\n39\n) 「明治七年五月七日付木戸孝允宛渋沢栄一書簡」(木戸孝允関係文書研究会編『木戸孝允関係文書』四巻、二八六~二八七頁)。\nなお、書簡内容については疑義がないながらも、前掲高橋「留守政府の政治過程」によれば、書簡中の詳細な日付について\nは正確ではないとされている。\n(\n40\n) 後年の回顧によると、副島は清朝との交渉において「台湾を討ちさへすれば宜しい」と思っていたと述べている(副島種臣\n「副島伯経歴偶談」〈島善高編『副島種臣全集』二巻、四六三頁。初出は『東邦協会会報』四四号、一八九八年〉)。\n(\n41\n) 柳原前光は、外務省に出仕した明治二年より日清修好条規締結の予備交渉に参画しており、省内では清朝事情にも明るかった。\nまた、所属する文書司を通じて柳原派を形成していた(長井純市「日清修好条規締結交渉と柳原前光」〈日本歴史学会編『日本\n192\n歴史』四七五号、一九八七年〉)。\nまた、この当時の外務省は少数精鋭で副島の意向が伝わりやすいトップダウン形式の組織であった(前掲森田・齋藤『副島\n種臣』二九頁)。そのため柳原の行動は副島の意向を踏まえてのことであったと考えられる。\n(\n42\n) 前掲西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』六巻、六〇三~六〇七頁。\n(\n43\n) 国家清史編纂委員会編『李鴻章全集』三〇冊、五三九頁。\n(\n44\n) 前掲西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』六巻、六〇三~六〇七頁。\n(\n45\n) 前掲井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』一巻、四七五~四七六頁。\n(\n46\n) 「明治六年七月二一日付西郷従道宛西郷隆盛書簡」(前掲西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』二巻、三六八~三六九頁)。\n(\n47\n) 前掲「壬申九月廿四日於横浜出張所副島外務卿米国人ゼネラル、リゼンドル応接記」。\n(\n48\n) 前掲家近『西郷隆盛と幕末維新の政局』。家近良樹『西郷隆盛』四一四~四一八頁(ミネルヴァ書房、二〇一七年)。\n(\n49\n) なお、「明治六年八月三日付三条実美宛西郷隆盛書簡」(前掲西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』二巻、三七五~\n三七八頁)では、「幾度も世人の難論を受け候儀に御座候えば、甚だ困難の次第に御座候間、急速に御処分相定められたき事に\n御座候」事を理由に征台の可否を速やかに閣議決定するよう促している。ただし、この書簡は征台の実行を要求するものでな\nい。また、同書簡では同時に自らを朝鮮への使節として早期に決定することも求めている。\n(\n50\n) 前掲西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』二巻、三七〇~三七二頁。\n(\n51\n) 多田好問編『岩倉公実記』下巻二には、「十四日、大臣参議太政官に会し、遣使の事を議す。(岩倉―筆者註)具視曰く、樺太\n露人の暴行、台湾生蕃の暴行、朝鮮の遣使、此三事件は孰れも重大事件なり、能く先後緩急を慮りて以て、其処分を議定せん\nと欲す」(一一一四頁)とあった。しかし、一〇月一五日に江藤新平(参議)が三条実美と岩倉具視(右大臣)に宛てた書簡に\nは、征台の可否は論じられておらず、西郷の朝鮮派遣を促す内容に終始している(的野半介『江藤南白』下巻〈南白顕彰会、\n一九一四年、マツノ書店、二〇〇六年復刻版〉、二四二~二四六頁)。\n(\n52\n) 前掲多田『岩倉公実記』下巻二、一一一四頁。\n(\n53\n) 「樺太境界談判ニ対スル露国政府ノ意向等報知ノ件」(前掲外務省調査部編『大日本外交文書』七巻、四四五頁)。\n(\n54\n) なお、征韓派参議が一枚岩でないことについては、勝田政治「征韓論政変と大久保利通」(国士舘大学日本史学会編『国士舘史\n外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 ―予算紛議の帰結としての外征論―\n193 学\n』一五号、二〇一一年)に言及されている。\nまた、宮島誠一郎(左院議官)は征韓派参議が下野した明治六年一〇月二五日に板垣と面会しており、次のように日記に書\nき留めている。\n一時半板垣を訪面談(中略)初め西郷等の征韓を論スル。急ニ可伐旨切迫。仍テ板垣等ハ目的ヲ立テ、徐ニ可謀之論相別\nれ、それとてもヤハリ西郷破裂セハ内務モ不調。寧ロ西郷と共ニ急撃スヘシト同意ナリし(「養浩堂日録 明治六年癸酉」\n〈前掲早稲田大学図書館所蔵「宮島誠一郎文書」二五〉)。\n宮島によると、西郷が征韓論を急かし始めたため、板垣は目的を立て着実に進めるように唱えたところ、西郷と物別れに\n陥ったとある。しかし、西郷が火種となり政府批判を始めることを恐れて板垣は征韓論賛成にまわったとある。\n(\n55\n) 「明治六年九月二七日付三条実美宛副島種臣書簡」(国立国会図書館憲政資料室所蔵「三条実美関係文書」三一八―二)。\n(\n56\n) 具体的には一八七二年に確立した鉄道・鉱山・通信・銀行を網羅したロイター利権が挙げられる(南塚信吾『「連動」する世界\n史』九九頁、岩波書店、二〇一八年)。\nまた、一八七四年二月に英国ではディズレーリ(保守党)が首相につくと、「帝国航路」の強化がより本格化していく。ディ\nズレーリ政権ではエジプト太\nパ シ守\nャ\nが保有していたスエズ運河会社の株式を購入し、同社最大の株主となったほか、ヴィクトリア\n女王のインド皇帝即位が画策されていった。\n(\n57\n) 前掲南塚『「連動」する世界史』一〇〇頁。アンドリュー・ポーター「帝国と世界」(コリン・マシュー編、鶴島博和監修、君\n塚直隆監訳『オックスフォード・ブリテン諸島の歴史9・\n19\n世紀』〈慶応義塾大学出版会、二〇〇九年〉)。\n(\n58\n) 前述の「明治六年七月一二日付西郷隆盛宛樺山覚之進書簡」(前掲西郷隆盛全集編集委員会編『西郷隆盛全集』六巻、六〇三~\n六〇七頁)には次のようにある。\n初発より専ら謁見議論のみの処へ、突然台湾事件突っ込まれ、不虞を討たれ、随分面白き愉快千万の至りに御座候。就い\nては神速突き入り候方然るべく存じ奉り候得共、炎熱の土地殊に風土も相変わり、旁憂苦も少なからず存じ奉り候に付き、\n時機後れざる様十月を期限にて突き入り候方、如何に御座候やと存じ奉り候。\nまた、前述の「明治六年九月二七日付三条実美宛副島種臣書簡」にせよ、一〇月を期限とした気候上の問題が取り沙汰され\nている。ただし、日本に比べて緯度の低い台湾が遠征に耐えられないほどの寒冷に向かうかは疑問である。恐らく、緯度と気\n194\n候の相関関係や台湾の一一月の気候といった地理学的な理解が副島や樺山に欠けていたことに加え、征台を急ぐ口実として気\n候が用いられたに過ぎない。\n事実、副島は明治五年九月二三日のデロング(米国駐日公使)との会談で台湾の気候が温暖であるとの情報を得ている(外\n務省編『日本外交文書』明治年間追捕第一冊、一〇五頁)ことも付記しておきたい。\n(\n59\n) 勝田政治『〈政事家〉大久保利通』一四四~一四八頁(講談社、二〇〇三年)など。\n(\n60\n) 明治六年政変後の副島については、齋藤洋子『副島種臣と明治国家』(慧文社、二〇一〇年)、前掲安岡『副島種臣』、前掲森\n田・齋藤『副島種臣』に詳述されている。\n(\n61\n) 遠山茂樹『明治維新』(岩波書店、一九五一年、一九七二年増補版)、井上清『日本現代史』一巻(東京大学出版会、一九五一\n年)、石井孝『増補明治維新の国際的環境』(吉川弘文館、一九六六年)、芝原拓自『日本近代化の世界史的位置』(岩波書店、\n一九八一年)など。\n(\n62\n) 中村菊男『近代日本の法的形成』(有信堂、一九五八年)など。\n(\n63\n) 石井孝『明治初期の日本と東アジア』(有隣堂、一九八二年)、前掲安岡『明治前期大陸政策史の研究』など。\n(\n64\n) 前掲家近『西郷隆盛と幕末維新の政局』、鵜飼政志『明治維新の国際舞台』(有志舎、二〇一四年)など。__\n"}]}, "item_10002_version_type_181": 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外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 : 予算紛議の帰結としての外征論
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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.4 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2023-05-18 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 外務卿副島種臣の征台論と外務卿権限の拡大 : 予算紛議の帰結としての外征論 | |||||
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言語 | en | |||||
タイトル | Why was the Theory of Conquering Korea Given Priority Over the Theory of Conquering Taiwan | |||||
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資源タイプ識別子 | http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 | |||||
資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
見出し | ||||||
大見出し | Article | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
大庭, 裕介
× 大庭, 裕介× OBA, Yusuke |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 201401064114468122 | |||||
書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokushikan shigaku 巻 27, p. 171-194, 発行日 2023-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 210.6 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 319.1 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
出版タイプResource | http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85 | |||||
キーワード | ||||||
外征論 明治六年政変 明治初期外交 |