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(\n。しかし大村は、一八六九(明治二)年、京都で刺客に倒れ、同年一一月五日に死去してしま\nう。その遺志は大村系兵部官僚(山田顕義、桜井直養、曽我祐準ら)に引き継がれ、さらにヨーロッパの軍制を視\n察して帰国した、陸軍大輔山県有朋\n( ( (\nによって徴兵令は実行された。\n一八七〇(明治三)年八月に兵部少輔に就任していた山県は、徴兵制導入に先立ち、一一月一三日各府藩県に\n「前途兵制一変全国募兵之御目的」を示す「徴兵規則」(全八条、太政官達第八二号\n( ( (\n)を発布した。「徴兵規則」は、\n「全国募兵」という名目で、「士族卒庶人ニ不拘身体強壮ニシテ兵卒ノ任ニ堪ヘキ者ヲ選ミ一万石ニ五人ツ丶大阪出\n張兵部省へ可差出候事」を下命し、「四民平等ニ賦卒兵ヲ徴召セムトノ趣旨」の下に兵部省の直轄部隊として新規\n召集することを示したものであった\n( ( (\n。\n196\n「徴兵規則」の前文で、「身体強壮ニシテ兵卒ノ任ニ堪ユベキ者ヲ撰ミ」とその目的が明示され、第一条で「兵卒\n年齢二十ヨリ三十ヲ限リ、身材強幹筋骨壮健長ケ五尺以上ニシテ兵役ニ堪ユベキ者ヲ選挙スベキ事。但医官ノ検査\nヲ受ケ合格セザル者、兵役ニ服スルヲ許サズ」と、徴兵する兵士の身体的規準と、初めて西洋式徴兵検査が行われ\nることが定められた\n( ( (\n。\nこの時代は軍隊衛生制度の初期にあたり、「徴兵規則」制定後、兵部省は選兵事業を始めるにあたり、一八七一\n(明治四)年七月五日、陸海軍の医事を所掌する衛生部中央機関軍医寮を省内に設置した。『陸軍衛生制度史(明治\n編)\n( ( (\n』の総説には、陸軍衛生制度の沿革の大要が書かれており、軍医寮の役割は、陸海軍の医事を総理すること、\n軍医の選任と官位の任命黜陟、患者の治療等が第一の職域とされた。\n軍医寮は、山県が国軍創設期に設立した組織の中でも、「軍事の基礎を築いた施設」として、高く評価されてい\nる\n( ( (\n。しかし一八七二(明治五)年二月二七日、軍医寮は兵部省廃止と同時に陸軍に移管され、さらに一八七三年五\n月二四日には太政官布第一七二号をもって廃止された。そのため、歴史の中では二年間だけ存在した組織であり、\nその成立過程と業務内容は、『陸軍衛生制度史(明治編)』で確認できるのみである。\n軍医寮頭になったのは松本良順\n( ( (\nであり、山県の強い要望により陸軍に出仕した松本が、衛生部設立に尽力したこ\nとは広く知られていることである。松本は、東京医学校(大学東校)の非協力、西洋医たる軍医の決定的な不足の\nなか、軍医部編成を実現させた。\n軍医による選兵事業とは、徴兵する兵士の身体的検査と西洋式徴兵検査の実施をすることであり、その実現に軍\n医寮の果たした役割は大きい。そこで本稿は、選兵事業実現に向けた軍医寮の果たした役割、意義について、徴兵\n令との相関の中で評価することを試みるものである。\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n197 一\n 国民皆兵制構想と「徴兵規則」の制定\n明治政府の軍務事務職(後の陸軍省)は、一八六八(慶応四)年一月一七日に三職七科の制が定められ、海陸軍\n科をおき、参与を以て海陸軍務掛としてその事務を分掌したことに始まる。二月三日には軍防事務局と改正、四月\n二一日には太政官の下に官制上の軍務官を設置し、副知事の一人に大村永敏(後の益次郎)が任命された。\n一八六九(明治二)年七月八日、職員令の制定に伴う官制の改革で兵部省が新設され、大村は兵部大輔に就き、兵\n制統一に向けた改革を進める\n(\n(1\n(\n。\nこの時点での明治政府の決定的な弱点は、直属の政府軍を持たないことであった。一八六八年に御親兵を編成す\nるが、それは長州潘と薩摩藩兵士による軍隊であった。戊辰戦争での勲功に誇りを持った征討軍の各藩兵らは、藩\n内の実権を掌握し始めており、朝廷直属の兵力、即ち、有力なる御親兵の設置は、当時の政府主要当局者の一致し\nた意見であった\n( (\n1 (\n。\n兵部大輔に就任した大村は、自らの建軍プランを「朝廷之兵制永敏愚案\n(\n(1\n(\n」にまとめ、輔相三条実美に提出した。\n大村は、薩摩長州等の藩兵を直属軍に組み込むことを否定し、国民徴募による直属の常備軍を編成することの基本\n方針を述べ、五年後には朝廷の兵制が成り、皇国純粋の兵制となるのは確実であると主張した\n(\n(1\n(\n。その実現に向けた\n方策として、大村は徴兵軍隊の基幹となる士官養成を重要視し、士官養成後に政府軍を建設し、それを全国に拡大\n後に国民皆兵を実現する構想を持っており、兵学校の建設を第一に考えていた。しかし大村は、一八六九年九月四\n日、京都で常職を解かれた武士の不平を買って凶刃に倒れ、一一月五日、志半ばにて死去してしまう。\n198\n大村死後、その遺志は兵部大丞山田顕義ら兵部省幹部らに引き継がれ、同月一一月一八日、「軍務前途の大網に\nつき兵部省上申\n(\n(1\n(\n」が太政官に提出された。内容は大きく三項目で構成されており、その一項目「今般大阪ニ於テ海\n陸軍練兵所并ニ兵学寮御取立相成度候事」の第五には、「軍医院ヲ設置クベキ事」とあり、これは海陸両軍共に欠\nくことのできない施設とされ、但し、今のところは大阪府大病院が兼ねるとされた。\nこの意見書は、大村の建軍構想を具体的に述べたものであった。大村の構想では、大阪が国の中心に位置してお\nり、海陸とも四方に通じていて変に応じやすいとして、海陸軍練兵所と兵学寮などを建設する案を持っていた。大\n村は実際に京都、大阪に出向き、大阪城内の鎮台や兵学寮・大砲製造所、軍医学校の建設予定地の視察を行ってお\nり、その視察先で刺客に襲われたのであった。大阪兵学寮は、一八六九年一二月二八日に開設され、三三名の新入\n生が青年学舎生徒として入学した\n(\n(1\n(\n。\n大村死後の陸軍省内は後任人事の対立があり、遅遅として改革が進まない中、一八七〇年八月、山県有朋が兵部\n少輔に任じられた\n(\n(1\n(\n。山県は一八六九年三月六日、欧州巡遊の辞令を新政府から受け、六月二八日に西郷従道と共に\n長崎を出発した。山県らは、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを歴訪、\n各国の兵制調査・研究を行い、特にフランス、ドイツの兵制を調査研究して、一八七〇年八月二日に横浜に帰国し\nた。山県は幕末、長州藩における奇兵隊の経験があり、さらに欧州巡歴で、特にフランス、ドイツの兵制視察によ\nり、国民皆兵の徴兵制論者になっていた\n(\n(1\n(\nすでに幕末から紹介された西洋諸国の兵制制度の多くは、義務兵役制であった。義務兵役制とは、兵士となるの\nは国民の義務であるという考え方であり、山県が目指した国民皆兵制(一般兵役制ともいう)とは、義務兵役制の\nうち、兵士とならなくても良いという例外を最大限に小さくしたものであった。最大限に小さくとは、病人や怪我\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n199 人\nあるいはその他兵士となることが客観的に不都合な場合を例外とすることであり、ナポレオン戦争(一七九九~\n一八一五)後のプロイセンや、一部のドイツ諸国で、ほぼ採用されていた\n(\n(1\n(\n。\n幕末、わが国にプロイセン軍制に関する詳細な情報をもたらしたのは、一八六三(文久三)年に帰国した、竹内\n遣欧使節団の徒目付福田作太郎が筆録した「福田作太郎筆記\n(\n(1\n(\n」の「孛漏生國探索」であった\n( (\n2 (\n。「孛漏生国探索」は\n一六の項目に分けられ、その三項目の「陸軍之士官并兵卒取立方之事」の中で、プロイセンの徴兵制は、二十歳に\nなった男子は身分に関係なく全員が「吟味之上」で兵士となった\n( (\n2 (\n。強壮な男子を兵士とするために行う吟味の判断\n基準は、虚弱もしくは多病であるか否かであった\n( (\n2 (\n。山県が国民皆兵制実現のためには、兵事の基礎となる選兵の規\n準を設けること、それが喫緊の課題であると兵部省は認識していた。\n山県が少輔に就任した直後、兵部太輔前原一誠が辞職したことで、兵部卿有栖川宮熾仁親王のもと、山県は事実\n上兵部省の首脳として大村の遺志を継ぎ、「挙国一致、以て中央政府の基礎を固むるに務めざるべからず。特に兵\n馬の実力を集中して其の威武を揚ぐることは新政経始の第一要件なり\n( (\n2 (\n」と述べ、朝廷直属の御親兵編成に向け軍制\n改革を進める。一八七〇年一〇月二日には常備兵定員を定め、陸軍は仏式を採用、諸藩に仏式による兵制統一を命\nじた。さらに、一一月一三日には「徴兵規則」が各府藩県に発布され、医官による徴兵検査によって兵役の適否が\n行われることが定められた。\n二 軍医寮の設置と軍医部の編制\n兵部省は一八七〇年七月一八日、軍医寮を設置して欲しい旨を太政官に上申した\n( (\n2 (\n。それに対し太政官は、軍医寮\n200\nは設置せず、病院より然るべき人物を派遣する方針とし、八月三日には大学東校\n( (\n2 (\nから軍医病院へ医官が出仕するこ\nととなった。しかし兵部省は一〇月再び上申を行い、軍医寮設立の目的と現状の対応における弊害を左記に示すよ\nうに訴えた\n( (\n2 (\n。\n軍医寮ノ儀ハ戦争ノミニ無之、抑兵隊入寮ノ節身体ノ強弱検査仕候儀ニテ此法不相立候テハ兵事ノ基本モ不相\n立、畢竟是迄軍医寮ノ規則無之ヨリ医師モ自然軍事病院ニ出仕スルヲ嫌ヒ候気臭有之\nさらに一八七一年一月二七日、山県は軍医寮設置建議を提出した\n( (\n2 (\n。\n軍医寮御設ノ儀申出仕候処、軍医病院ノ名称ニテ取広メ可申段御付紙御沙汰ノ趣一応敬承仕候ヘ共、是迄度々\n申出仕候通此寮御設無之テハ軍事ノ基礎相立不申其所以ハ兵人入寮入隊ノ節於軍医寮身体ノ強弱病症ノ有無篤\nト検査ノ上ニテ加除仕候事ニテ兵事ノ根本ニ御座候、夫故於欧州各国全国ノ大病院乍設モ軍医寮ハ別ニ建設有\n之候程ノ儀、況於皇国ハ末々大病院ノ規則モ全ク不備ニ付テハ尚更軍医寮ハ別ニ御設無之テハ事実難被行、\n万一名称ハ無之共事実サヘ凡各国ニ比較ノ様執行候ヘハ可然旨御評儀モ可被為在歟モ難計候ヘ共、斯ク諸事御\n規則相立名実相適候上ハ軍医寮モ其名称無之テハ人ノ望モ難属、殊ニ兵事ノ規則ハ尤厳密ニ候間軍医ノ規則医\n員等級称名モ確ト相立不申テハ医員ノ褒貶モ難被行、既ニ当三四月ニハ於坂地陸軍所兵卒ニ千人計モ入隊仕候\n事故、是非軍医寮創立不仕テハ不相成候間何分ニモ事実篤ト御賢慮名実相惕ヒ候様仕度此段厚申追候也\n山県はこの建議において、軍医寮が無くては軍事の基礎が成り立たないと主張した。軍医寮の仕事には、徴兵検\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n201 査\n事業における身体、病気の有無の検査を実施して、その適否を決めることがあり、欧州各国では病院と軍医寮は\n別に設けられていた。しかし日本には、未だ病院の規則も整備されていない状況であること、兵事の規則は最も厳\n密であるべきであり、軍医寮の名称のもと、軍医の規則や等級などの整備も成されなければ、兵卒の大阪陸軍所へ\nの入隊の検査も行い難いと、その弊害を述べた。\n五月九日、軍医寮の創設が決まる。次に山県は、その創設を任せる人選を始め、松本良順の名を挙げる。松本は\n幕末、医学所頭取の任にあったが、戊辰戦争で幕府軍に従軍したことから、江戸に帰還後も謹慎処分を受け、赦免\n後の一八七〇年一〇月、東京早稲田に私立病院蘭疇医院を開設していた。\n山県は陸軍創設のために出仕していた西周を顧問として招聘(陸軍省四等出仕)し、松本の採用について相談\nし、左記のような示唆を得ていた\n( (\n2 (\n。\nそこに気がついたのは偉い、だが松本と云う男は中々手剛い男だから余程うまくやらぬと出て来ない。人物か\nら云っても、経歴から云っても思い切って重く用いるのだな。仏国などでは軍医の最上官がメジデン・インス\nペクトル、と云って大佐相当官であるが松本を任じるとなればそれ以上将官級でなくてはならない\n西から予備知識を授かった山県は、松本説得のために自ら早稲田の私立病院蘭疇医院へ赴く。松本の自伝には、\n山県から「未開の国、ようやく兵部省あるも、最も必要とする衛生部なし、しかして、このことをなさん者、他に\nその人なし、出でてこれを主宰することあらば、予必ずこれを任ぜん\n( (\n2 (\n」と、山県に説得された様子が残されてい\nる。\n202\n松本は兵部省への出仕を承諾し、兵部省病院御掛の辞令がおりる。松本は、まず「軍医部編制は国家急を要する\n重大問題である\n( (\n3 (\n」として、軍医部の編制に着手する。松本は大学東校に上申書を提出し、医員選挙は東校へ委任を\nお願いしたい旨を述べ、他の士官と異なることはないが、大平の世においては病院医学校に分職させ、予め夫々所\n属部署を定め、肩書とする案を提示した\n( (\n3 (\n。さらに、交戦の時には一五名の医官でも不足するとし、戦地近傍の医者\nを集めて対応すること、同時に軍医の職務も「予め能く病原を除きて士卒をして疾病なからしむるを以て専格とす\nべし」と説得をした\n( (\n3 (\n。\n松本は、直ちに軍医部編制に着手したが、当時日本最高の医学部であった大学東校の理解を得られなかった。し\nかし、交渉の結果、林紀、石川良信を次官とし、緒方惟準、石黒忠悳を一等軍医正とし、田代基徳、足立寛、永松\n東海、土岐頼徳、橋本綱常、名倉知文、三浦煥、横井信之、小佐内健等、大学東校の医師を局長とすることを決め\nた\n( (\n3 (\n。五月、松本の私立病院蘭疇医院は、「其方所持之病院仮軍事病院ニ拝受候」との兵部省からの辞令のもと、兵\n部省の借受けとなった\n( (\n3 (\n。\n一八七一年五月五日、軍医寮の官制階級等が発表され、頭、権頭は寮務を総理して軍中医事の制則を定め、軍医\nを選任黜陟する機能を与え、助権も同様とした。軍医監、一・二等軍医正は各地病院を監視し、将師出征の場合は\n之に従う、一・二等軍医は軍団に編入し疾病を治療し、各地養生院を総理することが、職務であるとされた。\n同年七月五日、兵部省内に軍医寮が置かれ、八月三日松本良順(明治四年順と改名)が軍医頭に任じられ、陸海\n軍の医務・衛生を所掌する組織となる。半蔵門外旧田原藩邸に軍医寮、早稲田蘭疇舎病院を仮軍事病院として、近\n代軍医制度がはじまった\n( (\n3 (\n。\n翌一八七二年二月には、兵部省が陸海軍両省に分かれたことで、軍医寮は陸軍省の所管となる。軍医寮は陸軍省\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n203 衛\n生機関の中央機関として、徴兵の身体検査を行う医官の育成と確保、勤務評定、教育等を整備し、軍事の基礎を\n担う組織として動き始める。\n三 「徴兵規則」による初めての徴兵検査\n「徴兵規則」に定めた「兵役に堪ユベキ者」の査定は、医官の役割であったが、医官による徴兵検査を可能にし\nた背景には、軍医の養成があった。徴兵した兵士の健康を維持するためにも多数の軍医が必要であったが、当時の\n医学水準では医師の教育制度は成立しておらず、軍医養成の始まりは大阪病院内の陸軍軍医学校となる\n( (\n3 (\n。\n一八七〇年二月一九日、大阪城内に陸軍最初の病院「大阪軍事病院」が設立され、長官を緒方惟準とし、中定\n勝、堀内利国、長瀬時衡、大鈴弘毅、橋本綱常らが配属された。城内には「陸軍軍医学校」も置かれ、アルベル\nト・ボードウィン(Albertus Johannes Bauduin、一八二二~八五\n( (\n3 (\n)を顧問として招聘し、患者の診察を兼ねた軍\n医養成教育が開始された。\n当時、軍隊衛生制度は殆んど見るべきものはなかったが、徴兵制を採用するためには、徴兵検査が絶対に必要で\nあるとの考えがあり、同校の軍医教育の中には、「選兵論」があった\n( (\n3 (\n。\nボードインハ大学校大阪病院ニテ雇聘セシモノニシテ明治三年大阪軍陣病院ノ陸軍軍医学校ニ出仕シ軍陣繃帯\n学、軍陣外科学、赤十字社規則、南北戦争ニ於ケル「バラック」建築法並撰兵論ヲ講述シ明治四年マデ継続セ\nリ\n204\n一八六九年、「大阪軍事病院」長官緒方惟準は、大阪兵部省から「徴兵規則」をフランスなど欧州諸国の例に\n倣って作成するように命ぜられ、ボードインの指導を受けて選兵規則をまとめた。まとめられた規則は、一八七一\n年二月に『海陸撰兵必携\n( (\n3 (\n』として刊行された。この書には、兵役適否の病名三六一種類が記されており、徴兵検査\nを担当することとなった医官らに必要な書であり、わが国の選兵書のはじめとなった\n( (\n4 (\n。体格検査方法もボードウィ\nンによって教授され、選兵に向けた整備が始められていた。ボードインが大阪を去ったあとは、ブッケマン\n(Beukema,T.W.)が講義を引き継いだ。\n「徴兵規則」の草案にあたっては、陸軍省七等出仕の宮城勘吉らが中心となって策定された\n( (\n4 (\n。その後、軍医寮の\n石黒忠悳は、徴兵の身体検査の規則は軍医寮の意見が第一であると主張し、結果、山県の指示のもと、身長・体重\nを含め身体に関する事は全て、軍医寮が責任を以て起草することとなる\n( (\n4 (\n。\n石黒はわが国の壮丁の身長平均を打ち出すため、士農工商様々な職業の二〇歳の強健な男子五一七名の身長・体\n重のデータを集め、五尺一寸三分という平均値を出す。各国の身長標準値を参考としながらも、オランダの選兵論\nでは、標準を高くすると大軍を集める場合には不都合を生じるとの危惧から、歩兵の身長は全国壮丁の平均身長よ\nりも幾分低く定めよとの法令があった。そのためその方法に倣い、わが国の身長規定も平均値より一寸下げた五尺\n三寸に定められた\n( (\n4 (\n。\n一八七一年一月二五日、大阪城内兵部省出張所において、「徴兵規則」に基づき兵員募集の第一次に指定された\n五畿七道の府藩県(明治四年一月現在二府五二藩七県)から召集した壮兵に対して、徴兵検査としての身体検査が\n初めて実施された\n( (\n4 (\n。「徴兵規則」で出身階層を武士層に限定しないという方針を宣言したことで、検査に赴いた者\nは、各藩から差し出された農民の賦役によるものや、貧農・日雇層から出た者らであった。\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n205 こ\nの徴兵検査の医官の中心人物は、大阪軍事病院に勤務していた堀内利国であり、未だ軍医部といった特別な部\n局が存在していなかったため、病院勤務者が選兵業務である徴兵検査に参加していた。\nこの時の徴兵検査の合格者は一、二〇〇名、不合格者は三〇〇名であった\n( (\n4 (\n。「徴兵規則」では、不合格者がある場\n合は、それに見合う数の再選代理人を差し出すことが明示されており、結果的には、三〇〇名余りを再募集して計\n一五〇〇人が検査を受けたことになる\n( (\n4 (\n。\nこの時の検査の実際は、兵部省徴兵方の記録に残されている\n( (4 (\n。\n正月二十六日朝二十人 午後三十人云々。\n医官検査の前、徴兵方にて送り書面に引合せ、出産、住所、其の他の事故一通各兵に相糺し且人物、容貌をも\n点検し、而して支体検査に差出す。\n検査所の入口高さ五尺の所に縄を張り置き繰り出方のもの徴兵を誘ひ此縄にて身の丈を検し医官録事の方に案\n内す云々\n「徴兵規則」では、身長の規準を五尺以上と定めていたことから、検査所入口の高さ五尺の所に綱を張る方法で\n身長は測定された\n( (\n4 (\n。\n選兵に向けた器具の整備、身体検査の順序を定め、各鎮台から医官一両人を召集して習得させ、鎮台に帰台して\n各軍医に伝達するシステムがとられた。さらに、初めて軍医として人民に接する徴兵医官には、人民に信と敬を\nもって臨むようにと、心得を教えることも軍医寮の方針として行われた\n( (\n4 (\n。徴兵検査では、年齢、身長、体重などの\n206\n規準が定められたものの、公平な視点で医官が兵役可能の適否を判断するための選兵規準はなく、徴兵制導入に向\nけた選兵方法の確立が課題であった。\n一八七二年一月四日、山県の上奏により御親兵を改め近衛兵とし、鎮台兵が整備された。同時に山県は陸軍中将\nに任命され、近衛兵の長として近衛都督に就任、実質的な陸軍の責任者となった。同年一一月一三日には、「陸軍\n軍医寮職員令」並「軍医寮事務章程\n( (\n5 (\n」が制定され、軍医寮の役割、職域、その運営方法などが詳細に定められた。\nこの「軍医寮事務章程」が、徴兵医務が秩序的に記載された規定の嚆矢となる\n( (\n5 (\n。\n四 「軍医寮事務章程」と「撰兵概則」\n「陸軍軍医寮職員令」では、頭・権頭は、「掌陸軍医事ヲ総括シ軍医ノ能否勤惰ヲ察シテ陟黜撰任ヲ議定シ兼テ寮\n内ノ事務ヲ総理シ直ニ陸軍卿ニ隷ス」と定められ、一等医正・二等医正は各鎮台病院で、一等軍医・二等軍医は各\n師営や各地の兵隊に編入して疾病治療を行うこと、一等軍医副・二等軍医副は治療を補助すること、軍医試補は軍\n医副に進んでいない者であることが定められた\n( (\n5 (\n。\n「軍医寮事務章程」(全二四条)の第一条には、「軍医寮ハ陸軍ノ健全ヲ保護スルヲ以テ専務トス、故ニ平常兵隊\nノ衣食居住ニ注意シ流行病ヲ未蔓ニ防ギ凡テ健全ニ害アルモノハ除キ攘フヲ以テ本旨トス、叉病疾ニ罹ル者アレハ\n療シ治ムルヲ以テ職掌トス\n( (\n5 (\n」と、軍医寮創設の目的は、兵士の健康を守ることであると宣言された。\n第三条では、課を五つに分課するとし、附録で、「庶務掛心得」「布告掛心得」「器械掛心得」「職員掛心得」「鎮\n台掛心得」が規定された。第五条では、医正は頭取と共に「病院ノ百事ヲ沙汰ス可シ\n( (\n5 (\n」とし、附録で「病院規則」\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n207 「\n病者心得」「病院当直医心得」「死者取扱方」(五項目\n( (\n5 (\n)が定められた。「病院規則」の第一項\n( (\n5 (\nでは、病院を区別し\nて、軍医寮中に設けるものを本病院と定め、危篤の病兵を入院させること、各屯営には屯営病院を置き、軽症の者\nを置くことが規定された。第六条附録の「軍隊医官職務」では、「軍隊医官ハ軍隊ノ健全ヲ保護スルヲ専務トシ、\n衣食住苟モ健全ニ適セザルモノアレハ隊長ト議リテ之ヲ除キ、既ニ疾病ニ罹ル者アラハ之ヲ治療ス\n( (\n5 (\n」とされた。\n第十条では、左記のように徴兵検査のことが定められた\n( (5 (\n。\n第十条 兵ヲ検査シ身体ノ良悪ヲ鑑スルト病ニ因テ兵役ニ堪サルヲ定ムルトハ軍医之ヲ断スル権アリ除隊スル\nコトニ至テハ隊長ト合議シテ定ムヘシ兵ヲ検査スル法ハ検兵論ニ詳ナリ\nこの第十条では、徴兵検査において軍医が身体の良否を検査して、兵役への適否を判断する権限があることが定\nめられた。さらに、第十条附録には「撰兵概則」が規定された\n( (\n5 (\n。\n一 凡新兵ヲ召募スルハ其時々取極メタル場所ヘ軍医将校ト共ニ出張シ召募スル所ノ兵ヲ検査シ、骨格適合ノ\n者ヲ撰ヒ姓名簿ヘ取捨ノ旨趣ヲ詳記シ将校ニ出ス\n一 兵ヲ全ク裸体ナラシメ外部疾患ノ有無ヲ鑑定シ又内部ノ病状ヲ検査ス故ニ今疾病ノ所在ヲ区別スルコト左\nノ如シ\n徴兵検査は指定された場所へ軍医と将校が共に出向き、まず、体格の規準に合格した兵士を選定する。次に兵士\n208\nを裸体にして、外部疾患と内科的疾患の有無を検査するが、まず外部疾患の有無を確認するため、診るべき体の部\n位として、眼目、頭脳、肺心及気道動静脈、胃腸肝膵脾、腎膀胱、陰具睾丸、肚腹胸腔ノ外貌、四肢並関節、脊\n椎、肛門尿道の一〇項目が挙げられている\n( (\n6 (\n。\nさらに同時に、「兵役ニ堪サル所ノ疾病」として、二九の疾患名が列挙された。列挙された疾病は、視聴変常及\nヒ言語不利、痴愚、麻痺、癩狂、脱腸、陰嚢炎、同静脈腫、睾丸不全域或欠失、痔病或ハ肛門破裂、胸腔非常ニ狭\n窄スル者及ヒ腹ノ非常ニ膨張スル者、内臓形器的変化、大瘤、動脈瘤、四肢静脈怒脹、頑固ノ潰瘡或ハ大瘢痕アル\n者、悪性夜盲、ヒューニオン大趾前趾骨頭内側ノ粘液嚢腫、重趾重指、匾足、趾指不具、火傷等ニテ醜態ヲ遺ス\n者、骨傷ノ癒着完全ナラサル者、脱臼故ニ復セサル者、関節病アル者、板歯犬歯ヲ失スル者、面貌醜異ナル者、脊\n椎ノ屈曲スル者、肩ノ異形、身体矮小或ハ肥大ニ過ル者\n( (\n6 (\n、である。\nすでに刊行されていた『海陸撰兵必携』に掲載されていた三六一の病名から、「撰兵概則」では、兵役に堪えら\nれないと判断された内科的疾患、精神的疾患、先天的疾患、骨格の疾患、奇形などに絞られている。\n「軍医寮事務章程」の第十四条附録では「器械局定則\n( (\n6 (\n」、第十五条附録では「薬局定則」、第十六条附録では「看\n病人設備法則」と「看病人心得\n( (\n6 (\n」が、第十七条附録では「屯営医局定則」「診察所定則」「薬局定則」「屯営病院病\n者心得\n( (\n6 (\n」が定められた。\n第十六条、第十七条では、看病人二〇名毎に看病人一名を定員とすることや、一大隊には二等軍医一名、一等軍\n医副一名、二等軍医副一名、軍医試補二名の計五名を附属することなど、定員や命令系統や、職位・役割別職務内\n容が定められた。\n「軍医寮事務章程」の制定によって、軍医寮は陸軍の健全を保護することが責務であるとした役割が明確に打ち\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n209 出\nされ、陸軍における衛生に係る業務全般の規則が確立した。特に、第十条で徴兵検査の方法、「撰兵概則」が制\n定されたことで、わが国の徴兵制導入に向けた検査の規準が定まり、山県が課題とした「軍事ノ基礎」が確立した\nことを意味した。\n一八七三年一月一〇日、太政官番外無号布告として諸省府県宛に「徴兵令」が布告された。この「徴兵令」は、\n広範にわたる免役制が存在し、「第三章 常備兵免役概則」の第一条と第二条が身体検査で適否の対象となる免役\n条項であった\n( (\n6 (\n。\n第一条 身ノ丈ヶ五尺一寸(曲尺)未満者\n第二条 羸弱ニシテ宿痾及ビ不具等ニテ兵役ニ堪ザル者\n羸弱とは、身体が虚弱なこと、宿痾とは、長期に治らない慢性の持病のことである。免役条項は国民皆兵を標榜\nしながら、例外条項を規定したのであり、「徴兵令」として最も問題となった部分である\n( (6 (\n。さらに第四章は「徴兵\n検査」であり、徴兵検査の方法が詳細に定められたが、具体的な疾患名などは明示されていない。\n身体検査を行う医官の養成については、一八七二年に大阪の軍医学校が閉鎖され、翌月には、軍医寮附属病院内\n( (\n6 (\nに「陸軍軍医寮学舎」が設置されていた。さらに翌一八七三年一〇月には、軍医学校と改称され、「撰兵学」も教\n授されていたが、一八七四(明治七)年には軍医養成教育と一般医師養成教育は併合された\n( (\n6 (\n。\nこれらの背景もあり、徴兵医官が兵種の適否を判断する指標などを明記した「徴兵医官職務概則」(全二五条\n( (\n6 (\n)\nが、一八七五(明治八)年一月二四日に陸軍省(作成者陸軍卿山県有朋)より発行されている。\n210\n免役条項はその後、予定とした鎮台兵が確保できないという問題も含め、検討がなされ、「徴兵令」の改正は行\nわれる\n( (\n7 (\n。しかしこの身体に関する免役条項の制定を可能としたのは、軍医寮による徴兵身体検査の基礎が作られて\nいたことであり、軍医寮の果たした役割は高く評価されるべきものであった。\nおわりに\n大村は、国を守り朝廷を守るためには、兵隊には良き者を選抜して兵学上理想的な精鋭なる強兵をつくること、\n徴兵を布いて一般国民の中から身体、精神、知識の優良なるものを選んで採る公平な選抜方法を設けることの必要\n性を唱えていた\n( (\n7 (\n。\nわが国の徴兵制導入に向けたシステム構築の流れを軍医寮創設との関係を表1にまとめた。\n「徴兵規則」の制定は、わが国で初めて徴兵検査が実施されたという点においては、山県が評価しているように、\n徴兵制度導入に向けた第一歩であった\n( (\n7 (\n。しかし、公平に「選兵」できるシステム構築には、中心となる組織の存在\nは不可欠であり、その組織として創設されたのが軍医寮である。\n山県の徴兵制度主張における根拠の第一は、新政府が廃藩置県後に動揺なく政情を統治するためには、徴兵に依\nる兵力を持たなければならないと考えたことであった\n( (\n7 (\n。山県が国民皆兵制度による徴兵制度を導入するにあたって\nは、「兵役ニ堪ユベキ者」を身体的・精神的条件で「選兵」する規準を定めることであり、適否を判断できる医管\nの教育は、軍医寮が取り組むべき課題であった。適否を判断するとは、兵役に適さないと身体的・精神的に判断す\nるための基準の策定でもあり、適した人物を選択できるということは、四民平等の理念に基づく日本の国軍建設を\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n211 表1:軍医寮創設の背景と歴史的意義\n西暦元号\n(明治) 日時軍医療\n存続期間出 来 事\n1868 元4 月21 日大村益次郎軍務官副知事に就任\n長州・薩摩藩兵による御親兵を編成\n1869 2 6 月28 日\n7 月8 日\n11 月5 日\n11 月18 日\n12 月28 日\n山県有朋・西郷従道、西欧諸国巡歴(特にフランス・ドイツの\n兵制を調査研究)\n兵部省新設。大村益次郎兵部大輔に就任\n大村益次郎死去\n山田顕義ら「軍務前途の大綱につき兵部省上申」を提出\n「大阪兵学寮」開設\n緒方惟準、ボードウィンの指導で「選兵規則」まとめる\n1870 3 2 月19 日\n7 月18 日\n8 月\n10 月2 日\n11 月13 日\n大阪城内に「大阪軍事病院」設立\n城内にボードウィンを顧問として「陸軍軍医学校」設置\n兵部省は軍医寮設置を上申\n山県有朋帰国、兵部少輔に就任\n陸軍フランス式、海軍イギリス式を採用し兵制統一なる\n山県「蘭疇医院」を訪問、松本良順に陸軍出仕を依頼\n「徴兵規則」(全8 条)制定\n1871 4 1 月25 日\n1 月27 日\n2 月\n3 月15 日\n5 月5 日\n7 月5 日\n7 月14 日\n8 月3 日\n8 月20 日\n「徴兵規則」による初めての徴兵検査実施\n山県「軍医寮設置建議」提出\n緒方惟準『海陸撰兵必携』刊行\n松本 陸軍に出仕、兵部省病院係に就任\n「軍医寮」の官制階級等が決定、松本御用掛となり軍隊医事に\n携わる\n「軍医寮」設置\n「廃藩置県」\n松本軍医寮頭となる\n四鎮台(東京・大阪・熊本・仙台)を置く\n1872 5 1 月4 日\n2 月27 日\n11 月13 日\n11 月28 日\n鎮台に近衛兵を配置\n「軍医寮」陸軍に移管\n「陸軍軍医寮職員令」制定\n「軍医寮事務章程」第十条附録「撰兵概則」制定\n全国徴兵の詔とともに「徴兵告諭」発布\n1873 6 1 月10 日\n5 月24 日\n10 月\n「徴兵令」発布\n「軍医寮」(太政官布第172 号)廃止\n軍医学校において軍医の養成開始\n1875 8 1 月24 日「徴兵医官職務概則」制定\n212\n築くことを可能にした。\n軍医寮は、徴兵令が発布される前年の一八七二年に「軍医寮事務章程」を制定し、兵役適否の規準を欧州諸国の\n規範を参考としながら、わが国の規準「徴兵概則」を明確に示した。わが国では、軍医寮が制定した「軍医寮事務\n章程」により、選兵システムが確立したのであり、軍医寮が徴兵制度導入を実現へと導いた。軍医寮の役割は、陸\n海軍の医事を総理すること、軍医の選任と官位の任命黜陟、患者の治療等が第一の職域とされたが、軍医療が、衛\n生中央機関として、軍事の基礎を作り上げたその功績は大きく、存在意義は、単に陸軍衛生制度史として位置づけ\nられるものではなく、徴兵令の発展、軍事史の中で高く評価され、位置づけられる。\nその軍医寮は、一八七三年五月二四日に廃止され、軍医寮が担っていた事務は、陸軍本病院が担うこととなり、\n一八七九(明治一二)年に陸軍軍医本部が設置されるまでは、陸軍衛生部全般の事務を総括する専門の中央機関が\nない時期が生まれる\n( (\n7 (\n。しかしその状況は、すでに軍医寮によって「軍事の基礎が確立した」と山県が判断した結果\nと考えられる。さらに、徴兵令が布告され、その実施に向け、軍医寮を創設した時期は、同時に医学においてドイ\nツ医学の導入と医師の育成、教育システムの構築といった課題に、明治政府が取り組み始めた時期とも重なる。表\n1は、わが国の徴兵制導入に向けたシステム構築の流れを、軍医寮創設との関係でまとめたものである。軍医寮が\n廃止された五ヵ月後に、軍医学校で軍医の育成が開始されたことがわかる。未だ西洋医学によって教育された医師\nらの絶対的な不足の中で、選兵事業の確立を目指して始められた軍医教育は、その後医学教育の発展へと引き継が\nれた。\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n213 註\n(1) 大村益次郎(一八二五~六九)長州。一八歳で周防国宮市(現、山口県防府市)梅田幽斎のもとで医術と蘭学の基礎を学び、\n一八四六(弘化三)年に緒方洪庵の大阪適塾に入門(入門番号五二番)。その後一時郷里で開業するが、伊予宇和島藩に出仕\nし、西洋兵学に転向した。江戸では鳩居堂を開塾。幕府の蕃書調所や講武所にも出仕した。一八六五(慶応元)年三月には、\n長州藩の「兵学校御用掛」として軍制改革を行い、長州征伐・戊辰戦争で兵学者としての才覚を現した。明治政府の兵部大輔\nに就任し、軍制改革に着手。一八六九年九月一一月五日死亡。\n(2) 竹本知行「大村益次郎の遺策の展開―大阪兵学寮の創業―」(『同志社法學』五九巻二号、二〇〇七年)五四三―五七六頁。\n(3) 山県有朋(一八三八~一九二二)は、長州に生まれ松下村塾に学ぶ。戊辰戦争では、北越鎮撫・会津征討の参謀を務めた。初\n代陸軍卿となり、伊藤博文とともに明治政府の最高指導者となった。内務大臣、陸軍大臣、総理大臣を務めた。\n(4) 由井正臣・藤原彰・吉田裕『軍隊 兵士』(岩波書店、一九八九年)徴兵規則」三六―三八頁。\n(5) 淺川道夫『明治維新と陸軍創設』(錦正社、二〇一三年)二三七頁。\n(6) 飯島茂『日本選兵史』(開発社、一九四三年)三五六頁。\n(7) 陸軍衛生制度史は年代毎に以下の三冊が発行され、組織の成り立ち、規則の成立過程と変遷、規則内容が書き継がれている。\n陸軍軍医団『陸軍衛生制度史(明治篇)』(小寺昌発行、一九一三年)、青木袈裟美編輯『陸軍衛生制度史、第二巻(大正篇)』\n(陸軍省医務局内陸軍軍医団、一九二八年)、陸上自衛隊衛生学校修親会編『陸軍衛生制度史〔昭和篇〕』(原書房、一九九〇年)\nである。軍医寮については、陸軍軍医団『陸軍衛生制度史(明治篇)』にその創設過程の記述(一―一五頁)がある。\n(8) 徳富猪一郎編『公爵山縣有朋伝 中巻』(山縣有朋公記念事業会、一八三三年)一五九―一六二頁。\n(9) 松本良順(一八三二~一九〇七)下総佐倉の藩医佐藤泰然の次男、幕府医官松本良甫の養子となる。一八五五年に将軍御目見\n医師となり、長崎には海軍伝習生御用医として着任、ポンペに従学し、長崎養生所建設に尽力した。江戸に戻り医学所頭取と\nなるが、戊辰戦争では江戸城明け渡し後奥羽越列藩同盟のために会津の文武の学校日新館内に野戦病院を開設、治療と共に軍\n陣外科の講義も行った。兵部省に出仕後は、衛生部創設、軍医の育成に尽力し、軍医試補制度、学力による等級などを画策し、\n軍衛生部制度の創立にあたった。初代陸軍軍医総監。後に貴族院議員、男爵。\n214\n(\n10\n) 新政府における兵制については、戊辰戦争で膨張した旧征討軍をいったん解散させたうえで新たな兵制を確立する方針を唱え\nる大村と、旧征討軍をもって建軍し、潜在的な危険分子を体制に取り組むことで政権強化しようとする伊藤博文・大保利通と\nの対立があった。\n(\n11\n) 上法快男『陸軍省軍務局史 上巻 明治・大正編』(芙蓉書房出版、二〇〇二年)一一頁。\n(\n12\n) 国立国会図書館憲政資料室所蔵『三條家文書』所収。本稿は、前掲由井他『軍隊 兵士』六―八頁を参照。年限が書かれてお\nらず、その文面から一八六九(明治二)年に提出されたと推察されている。\n(\n13\n) 竹本『幕末・維新の西洋兵学と近代軍制』一一一―一一七頁。\n(\n14\n) 兵部省書類抄録「兵部省前途大綱調故大村兵部大輔見込ノ件兵部省建白」防衛省防衛研究所所蔵、公文類纂、明治二年、捨遺\n完、本省公文。\n(\n15\n) 大阪兵学寮は一八七一年末に大阪より東京に移り、やがて士官学校、教導団、幼年学校、富山学校の母体をなして、それら諸\n学校の独立後の一八七五年五月九日に廃止された。山県有朋、松下芳男解題『陸軍省沿革史』(日本評論社、一九四二年)五八\n頁。\n(\n16\n) 山県『陸軍省沿革史』一二頁。\n(\n17\n) 伊藤之雄『山県有朋―愚直な権力者の生涯』(文藝春秋、二〇〇九年)七四―九六頁。\n(\n18\n) 山田千秋『日本軍制の起源とドイツ―カール・ケッペンと徴兵制および普仏戦争』(原書房、一九九六年)一五六頁。\n(\n19\n) 一八五八(安政五)年、米・英・仏・蘭・露の五ヵ国との間に結んだ修好通商条約に規定された、江戸・大阪・兵庫・新潟の\n開市開港延期について交渉をするため、外国奉行兼勘定奉行竹内保徳下野守を正使とした総勢三八名の文久遣欧使節団が、\n一八六二(文久元)年一二月二二日に横浜を出発した。この第二回使節団は、開市開港の延期交渉と同時にヨーロッパ事情探\n索を第二の訓令とした。調査領域ごとにまとめられた報告書は、組頭柴田剛中が帰国後に福地源一郎に編集させ、この報告書\nを公的文書(報告書)として勘定役徒目付福田作太郎が筆記しまとめたものが「福田作太郎筆記」である。「福田作太郎筆記」\nは、中野善達「文久遣欧使節の徒目付福田作太郎をめぐって」(『蘭学資料研究会研究報告第二〇〇 号』一―一一頁に所収、\n一九六七年九月刊)によってその概要が報告された。「福田作太郎筆記」全二七冊中、文久遣欧使節団に直接関係するものは、\n「英国探索」「荷蘭探索」「仏孛葡探索」「欧羅巴行御用留(一)」「欧羅巴行御用留(二)」「欧羅巴行御用留(三)」「魯西亜探索」\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n215 の\n七冊であり、「仏孛葡探索」には「仏蘭西国検索」「孛漏生国探索」「葡萄牙国検索」の見聞録が含まれていた。プロイセンの\n国民皆兵制は、「孛漏生国探索」の中で紹介された。\n(\n20\n) 山田『日本軍制の起源とドイツ』一五八―一五九頁。\n(\n21\n) 「福田作太郎筆記」東京大学史料編纂所所蔵。原題「仏蘭西國探索」史料名「孛漏生國探索」七一頁。\n(\n22\n) 山田『日本軍制の起源とドイツ』一五九頁。「虚弱」「多病」については、「福田作太郎筆記」孛漏生國探索」七一頁に書かれて\nいる。\n(\n23\n) 上法『陸軍省軍務局史上巻 明治・大正編』七三頁。\n(\n24\n) 陸軍軍医団『陸軍衛生制度史(明治篇)』一三―一四頁。\n(\n25\n) 「東京大学」ができるのは、一八七七(明治一〇)年であるが、「大学東校」は、東大の前進にあたる。「大学校」構想は、\n一八六九年、旧幕府の最高学府であった昌平坂学問所を改組した国学・漢学の教育を行う学校を「本校」とし、同じく旧幕府\n時代に設立された開成学校(洋書調所)を医学校という、洋学を教授する二つの学校を合わせた総合的な高等教育機関を設立\nする構想があった。「本校」との地理的位置関係から、開成学校は「南校」、医学校は「東校」と呼ばれた。医学を教える東校\nと、洋学・語学教育機関だった南校が、東京大学の二つの源流となる。(天野郁夫『大学の誕生(上)―帝国大学の時代』中公\n新書、二〇〇九年、二〇頁参照)。\n(\n26\n) 「兵部省ニ軍医寮ヲ置ク」太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百六巻・兵制・陸海軍官制。明治三年十月。\n(\n27\n) 同右、明治四年一月二七日。\n(\n28\n) 鈴木要吾『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』(東京医事新誌局、一九三三年)一七一頁。\n(\n29\n) 小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』(平凡社、一九八〇年)八一―八二頁。この山県説得に関しては他説も\n存在しており、松本説得に、まず西郷隆盛が訪れたが、内諾を得られなかったが、暫らく時間を置いたのち、山県が一度は早\n稲田に、一度は今戸の別荘を訪れて懇々と就職を勧めた。松本も、兵の健康衛生を重視する所からの訪問であることに心を動\nかされ、遂に二度目の別荘への訪問の際に承諾をした。その他、松本の軍医寮頭までの経過については下記を参照。鈴木\n「五十九 山縣蘭疇舎に良順出廬勧誘」(『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』)一七一―一七三頁。石黒忠悳『懐旧九十年史』(岩波書\n店、一九八三年)二一一―二一五頁。神谷昭典『日本近代医学のあけぼの―維新政権と医学教育』(医療図書出版社、一九八〇\n216\n年)一三八―一四二頁。\n(\n30\n) 鈴木『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』一七四頁。\n(\n31\n) 深瀬泰旦「軍医寮発足のさいにみられた東校と兵部省の確執」(『日本医史学雑誌』第四一号、第四号、一九九五年)二九二―\n二九三頁。\n(\n32\n) 公文類聚、明治四年五月、国公立所蔵史料刊行会『日本医学の夜明け』(日本世論調査研究所、一九七八年)三七六―三八三\n頁。\n(\n33\n) 松本の東校とのやりとり、軍医確保については以下を参照。鈴木「六十 日本陸軍軍医部編制成る(『蘭学全盛時代と蘭疇の生\n涯』一七三―一七六頁)、石黒忠悳『懐旧九十年史』(岩波書店、一九八三年)二〇七―二一一頁。神谷昭典「第六章『兵制論\n争」と軍医部編制』(『日本近代医学のあけぼの―維新政権と医学教育』医療図書出版社、一九八〇年)一二七―一五三頁。\n(\n34\n) 鈴木『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』一七四頁。\n(\n35\n) 神谷『日本近代医学のあけぼの―維新政権と医学教育』一四二頁。\n(\n36\n) 黒澤嘉幸「明治初期の陸軍軍医学校」(『日本医史学雑誌』第四七巻、第一号)一〇五―一一八頁。\n(\n37\n) アルベルト・ボードウィン(Albertus Johannes Bauduin、一八二二~八五)オランダのドルドレヒトに生まれる。一八四三年\nにユトレヒト陸軍軍医学校を卒業後、同校に勤務していたが、ポンペの後任として一八六二年一〇月二八日に四〇歳で長崎に\n着任した。眼科に詳しくヘルムホルツ発明の検眼鏡を日本に伝えた。長崎養生所は六五年に精得館と改称され、翌六六年に任\n期を終える。再来日後、一八六八年明治新政府はボードインを大阪に招聘、大阪軍事病院で教頭として講義を開始する。講義\nは、軍陣繃帯学、軍陣外科学、軍陣衛生学、赤十字規則などを担当し、ボードインの長崎での弟子橋本綱常が通訳をした。幕\n府瓦解後も大阪の病院で教えていたが、ドイツ医学の採用により帰国を予定していたドイツ医師の来日遅延のため、大学東校\nの講義を一時期引き受けた。一八七〇年にオランダに帰国後、七九年には勲四等旭日小綬章が日本政府より送られた。\n(\n38\n) 陸軍軍医団『陸軍衛生制度史(明治篇)』五〇六頁。\n(\n39\n) 飯島『日本選兵史』三五七頁。緒方惟準訳『海陸撰兵必携』(陸軍文庫、一八七八年)明治一一年五月に刊行されたものは、国\n立国会図書館に所蔵されている。諸言には、挙げられた病名は欧州の海陸両軍の長官と軍医長が決議したものと書かれている。\n総被病、乳房腺甲状腺病患、筋骨靭帯疾患、消化器疾病、呼吸器血行器疾患、尿器植器疾病、神経系病及精神病、視器病患、\n徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割\n217 聴\n器病の九つに分けられ、三六一の病名が挙げられている。\n(\n40\n) 同右。\n(\n41\n) 陸軍軍医学校『陸軍軍医学校五十年史』一一―一三頁。\n(\n42\n) 同右、一一頁。\n(\n43\n) 同右、一一―一二頁。\n(\n44\n) 淺川道夫『明治維新と陸軍創設』(錦正社、二〇一三年)四六―六九頁。\n(\n45\n) 同右、五四頁。\n(\n46\n) 深瀬泰旦「軍医寮発足のさいにみられた東校と兵部省の確執」(『日本医史学雑誌』第四十一巻第四号、平成七年、七三ー九七\n頁。\n(\n47\n) 飯島茂『日本選兵史』(開発社、一九四三年)三五六―三五七頁。\n(\n48\n) 同右。\n(\n49\n) 同右、一二頁。\n(\n50\n) 「陸軍軍医寮職員令」並びに「軍医寮事務章程」内閣官報局『法令全書(第五巻―2)』(原書房、一九七四年)(復刻原本明治\n二二年刊)、九六八―九九〇頁。\n(\n51\n) 陸軍軍医団『陸軍衛生制度史(明治篇)』五七四頁。\n(\n52\n) 『法令全書(第五巻―2)』九六八―九六九頁。\n(\n53\n) 同右、九七〇頁。\n(\n54\n) 同右、九七一頁。\n(\n55\n) 同右、九七一―九七五頁。\n(\n56\n) 同右、九七一頁。\n(\n57\n) 同右、九七五頁。\n(\n58\n) 同右、九七七―九八〇頁。\n(\n59\n) 同右、九七七―九八〇頁。\n218\n(\n60\n) 同右、九七七―九七八頁。\n(\n61\n) 同右、九七八―九八〇頁。\n(\n62\n) 同右、九八一頁。\n(\n63\n) 同右、九八二―九八四頁。\n(\n64\n) 同右、九八四―九八六頁。\n(\n65\n) 由井・藤原・吉田『軍隊 兵士』七五頁\n(\n66\n) 松下芳男『徴兵令制定史』(五月書房、一九八一年)一六八頁。\n(\n67\n) 黒澤嘉幸氏の先行研究「山下御門内仮病院」(『日本医史学雑誌』第四十巻第三号、一九九四年、二八一―二九二頁)によると、\n軍医寮は東京半蔵門前に病院建設を計画し、一八七一年一二月に診療を開始している。\n(\n68\n) 滝澤利行「衛生思想と医学教育」、坂井建雄編『日本医学教育史』(東北大学出版会、二〇一二年)二五〇頁。\n(\n69\n) 「徴兵医官職務概則」明治八年一月二四日陸軍省達、陸軍省大日記、防衛省防衛研究所所蔵。\n(\n70\n) 一八七三年の「徴兵令」は、二〇歳に至るものを抽選して三ヶ年の兵役を課すに始まる兵役義務を国民に課しものではあった\nが、肉体的不適格者、官吏・官立学校生徒、戸主またはそれに準ずるもの、犯罪者、代人料支弁者など、免役規定が存在した。\n国家建設に必要な人材の温存や家制度の維持を目的とした免役条項が広範に存在したことは、国民皆兵制の実施とはいえるも\nのではなく、「徴兵令」制定三年後の一八七六(明治九)年には壮丁中の者八割以上の免役者が出たのであり、「徴兵令」は\n一八八五年一一月五日(太政官布告第一六二号)、一八七九(明治一二)年(太政官布告第四六号)と改正が行われることにな\nる。(加藤陽子『徴兵制と近代日本一八六八―一九四五』吉川廣文館、一九九六年参照)\n(\n71\n) 村田峰次郎著・発行『大村益次郎先生事蹟』(一九一九年)一〇六頁。\n(\n72\n) 山県有朋「徴兵制度及自治制度確立の沿革」、大山梓編『山県有朋意見書』(原書房、一九六六年)所収、三八七頁。\n(\n73\n) 山県『陸軍省沿革史』二七頁。\n(\n74\n) 陸上自衛隊『陸軍衛生制度史〔昭和篇〕』六頁。__\n"}]}, "item_10002_version_type_181": {"attribute_name": "著者版フラグ", "attribute_value_mlt": [{"subitem_version_resource": "http://purl.org/coar/version/c_970fb48d4fbd8a85", "subitem_version_type": "VoR"}]}, "item_creator": 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名前 / ファイル | ライセンス | アクション |
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本文 (2.5 MB)
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Item type | 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper(1) | |||||
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公開日 | 2023-05-18 | |||||
タイトル | ||||||
タイトル | 徴兵令における選兵事業と軍医寮の役割 | |||||
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言語 | en | |||||
タイトル | Military Selection Services in the Conscription Ordinance and the Role of Military Medical | |||||
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資源タイプ | departmental bulletin paper | |||||
見出し | ||||||
大見出し | 論文 | |||||
言語 | ja | |||||
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大見出し | Article | |||||
言語 | en | |||||
著者 |
鈴木, 紀子
× 鈴木, 紀子× SUZUKI, Noriko |
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著者ID | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | J-GLOBAL ID : 201301037133765630 | |||||
著作関係者詳細 | ||||||
国際医療福祉大学小田原保健医療学部 (巻末 執筆者紹介による) | ||||||
書誌情報 |
国士舘史学 en : Kokushikan shigaku 巻 27, p. 195-218, 発行日 2023-03-20 |
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出版者 | ||||||
出版者 | 国士舘大学史学会 | |||||
NCID | ||||||
収録物識別子タイプ | NCID | |||||
収録物識別子 | AN10466645 | |||||
NDC | ||||||
主題Scheme | NDC | |||||
主題 | 392.106 | |||||
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主題 | 393.25 | |||||
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主題 | 394 | |||||
フォーマット | ||||||
内容記述タイプ | Other | |||||
内容記述 | application/pdf | |||||
著者版フラグ | ||||||
出版タイプ | VoR | |||||
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キーワード | ||||||
徴兵令 軍医寮 |